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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第六章 「銀髪の研究者」

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第74話 こんにちは?

森の中で初めて見た、銀色の髪をした人影。


追いかけることはせず、その日は拠点へ戻りました。

 湿地を離れてからも、何度か後ろを振り返りそうになった。


 けれど、そのたびに前を歩くハクアの白い背中へ視線を戻す。


 銀色の人影は、もう見えない。


 向こうがどこへ行ったのかも分からなかった。


「……本当にいたんだよな」


 独り言に近い声だった。


 ハクアの耳が一度だけ動く。


 昨日までは足跡しかなかった相手が、今日は木々の間に立っていた。それだけで、森の中に誰かがいるという話の重さが変わってしまった気がする。


 それでも、やること自体は変わらない。


 来た道を戻り、緩尾根を越え、目印を確認しながら拠点へ帰る。


 空き地へ着いた頃には日も傾き始めていた。


 持っていったものを戻し、水を飲んでから火を整える。朝から乾かしていた草の向きを変え、傷んだ紐がないかを確かめているうちに、森の奥は少しずつ暗くなっていった。


 いつもと同じ夕方だった。


 ただ、ふと顔を上げる回数だけが多い。


「来るわけないか」


 空き地の外を見る。


 木しかない。


 別に、来てほしいと思っているわけではない。


 急にここまで来られたら、それはそれで困る。


 どんな相手なのかも分からないのだから、今くらいの距離がちょうどいいのかもしれなかった。


「でも、話せるのかな」


 火へ細い枝を足す。


 人の形をしていた。


 服らしいものも着ていた。


 履物も使っているらしい。


 だから言葉を使う可能性は高そうだが、その言葉が自分に分かるとは限らない。


「こっちの言葉とか、全然知らないしな」


 そもそも、自分が今使っている言葉がどうなっているのかすら考えたことがなかった。


 ハクアにはずっと普通に話しかけている。


 もちろん会話が返ってくるわけではないから、それで困ることもなかった。


「もし次に会ったら……」


 何と声をかける。


 そこまで考えて、手が止まった。


「こんにちは?」


 口に出してみる。


 普通だ。


 むしろ、それ以外が思いつかない。


「いや、森の中で知らない人にいきなりこんにちはも変か?」


 ハクアを見る。


 白い身体は火から少し離れたところで伏せている。


「じゃあ、どうする?」


 当然、答えはない。


「……こんにちはでいいか」


 考えるのをやめた。


 実際にもう一度会えるかどうかも分からない。


 今日はたまたま姿を見ただけで、今後ずっと会わない可能性だってある。


 そう思いながら横になったが、眠る直前になって銀色の髪がまた頭に浮かんだ。


     ◇


 翌朝は、少し薄い雲が広がっていた。


 雨が降りそうなほどではない。


 空き地へ差し込む光が昨日より柔らかいくらいだった。


 水を汲み、火を整え、簡単に腹を満たす。


 今日は細沢の方へ行くつもりだった。


 少し前に持ち帰った水磨きされた石をいくつか使っているうちに、表面の細かさや硬さに違いがあることが分かってきた。急いで必要というわけではないが、次に使えそうなものを見ておきたい。


 あの辺りはもう何度も歩いている。


 昨日の人影がいた方向とも重なるが、それを理由に行き先を変えるのも違う気がした。


「普通に行って、普通に帰る」


 荷物をまとめながら言う。


「いたら……まあ、その時考える」


 ハクアが立ち上がった。


「先に行くなよ」


 森へ入り、昨日と同じ西への道を進む。


 緩尾根を越え、湿地へ近づく。


 昨日人影を見た辺りへ来ると、さすがに少し足が遅くなった。


 木々の隙間を見る。


 銀色はない。


 ハクアも特に立ち止まらず、そのまま進んでいく。


「いないか」


 安心したような、少し残念なような。


 自分でもよく分からない。


 昨日確認した植物の近くを通り、湿地の水が深い場所を避けて細沢の方へ向かう。


 沢に近づくにつれ、地面はところどころ湿ってくる。ただし、細沢の少し手前には木がまばらで、比較的乾いた場所があった。


 以前から休む時に使っている場所だ。


「ちょっと休むか」


 そう言いながら前を見る。


 そして、足が止まった。


「…………」


 いた。


 昨日より近い。


 乾いた地面を挟んだ向こう側、十数メートルほど先に、銀色の髪をした人が立っていた。


 今度は木々の隙間ではない。


 姿がはっきり見える。


 昨日見た相手で間違いないと思った。


 向こうもこちらに気づいていた。


 足を止めている。


「……また会った」


 小さく呟く。


 銀色の人も動かない。


 昨日より近いせいで、女性らしいことは分かった。


 けれど、それ以上をじろじろ見る余裕はなかった。


 何より先に、腰の辺りへ金属らしい光が見えたからだ。


「ナイフ……?」


 小さい。


 こちらから見えるのは柄と、その周りの一部だけだった。


 武器なのか、道具なのかは分からない。


 少なくとも自分の石の刃より、ずっとしっかりしたものに見える。


 少し身構えかけたところで、ハクアが一歩前へ出た。


「ハクア」


 呼ぶ。


 白い身体は止まった。


 唸ってはいない。


 毛が逆立っている様子もなく、ただ銀髪の女性を見ている。


 向こうもハクアを見た。


 一瞬だけ視線が下へ落ち、それからこちらへ戻ってくる。


 腰のナイフには手を伸ばさない。


「…………」


 それに気づいて、少しだけ力を抜く。


 自分も石の刃には触れない。


 持っていることは向こうからも見えているはずだ。


 それでも互いに動かなければ、少なくとも今すぐ争うことにはならない。


 十数メートル。


 近づこうと思えば、すぐに近づける。


 だからこそ、勝手に距離を詰めない方がいい気がした。


 女性も同じなのか、その場から動かなかった。


 風が抜ける。


 銀色の髪が少し揺れた。


「…………」


 昨日考えていた言葉を思い出す。


 こんにちは。


 あれだけ考えて、それしか出てこなかった。


 けれど、実際に相手を前にすると急に難しくなる。


 通じなかったらどうする。


 別の意味に聞こえたら。


 声を出した途端に警戒されたら。


 そこまで考えたところで、向こうの女性が少し首を傾げた。


「……あ」


 目が合う。


 たぶん、ずっと黙っている自分を不思議に思ったのだろう。


 何か言わなければ。


「こ……」


 声が途中で止まる。


「…………」


 女性が待っている。


 ハクアまでこちらを見た。


「いや、見ないでくれ」


 思わずハクアへ言ってから、もう一度女性を見る。


 今度は相手の表情がほんの少し変わった気がした。


 笑ったわけではない。


 ただ、さっきまでより警戒が薄れたように見える。


「こ……んにちは?」


 最後が疑問形になった。


 言ってから、自分でも何で疑問形なんだと思う。


 森の中が静かになった気がした。


 女性は目を少し見開いている。


「…………」


 通じない。


 そう思った。


 やっぱり言葉が違うのかもしれない。


 次は身振りでもしてみようかと考えたところで、女性の口が動いた。


「こ……んにちは」


「え」


 分かった。


 普通に分かった。


「こんにちは……?」


 今度は驚いて聞き返す。


 女性も少し戸惑ったような顔になった。


「こんにちは」


「あ、はい。こんにちは」


 返してから気づく。


 二回目だ。


 いや、三回目かもしれない。


「…………」


 また沈黙する。


 けれど、さっきまでの沈黙とは違った。


 言葉が通じた。


 それだけで、目の前にいる存在が急に近くなった気がする。


「分かる……」


 思わず口に出した。


「何が?」


 返事が来る。


「え?」


「何が分かるの?」


「いや、その……」


 普通に会話になっている。


 声も意味も、何の引っかかりもなく頭に入ってくる。


 相手が特別ゆっくり話しているわけでもない。


「言葉」


「言葉?」


「うん。分かるんだなって」


 女性が少し眉を寄せた。


 意味が分からない、という顔だった。


「……話してるから?」


「ああ、そうなんだけど」


 確かにそうだ。


 向こうからすれば、いきなり挨拶してきた相手に「言葉が分かる」と感動されても困る。


「ごめん。ちょっと変なこと言った」


「変なこと……」


 女性がこちらを見たまま、少しだけ考えるように黙る。


 まずい。


 余計に怪しまれたかもしれない。


「別に怪しいことをしに来たわけじゃなくて」


「…………」


「いや、それ自分で言う方が怪しいな」


 口にしてから気づいた。


 女性の口元が、ほんの少し動いた。


 今度こそ、わずかに笑ったように見えた。


「……そうね」


「ですよね」


 肩の力が少し抜ける。


 距離はまだ離れたままだが、さっきまでより空気は軽くなっていた。


 ハクアは俺の少し前で座った。


「あ」


 座るんだ。


 警戒をやめたわけではないだろうが、少なくとも今すぐ危ない相手とは感じていないらしい。


 女性もそれを見ていた。


 視線がハクアへ向き、少し長く止まる。


 興味があるように見えたが、近づいてくることはない。


「その……」


 女性が言いかける。


「はい」


 反射的に返事をすると、また少し間が空いた。


 互いに何を聞けばいいのか分からない。


 考えてみれば当然だった。


 森の中で知らない相手と初めて会って、挨拶の次に何を話すのが正しいのかなんて知らない。


 どこから来た。


 何をしている。


 なぜ森にいる。


 聞きたいことはいくらでもある。


 でも、自分から全部聞かれたら答えに困ることも多い。


 なら、急がなくてもいい。


 女性も似たことを考えたのか、腰のナイフへ触れないまま両手を見える位置にしていた。


 それを見て、自分も石の刃から少し手を離す。


「話しても、大丈夫そう?」


 女性が静かに聞いた。


「たぶん」


「たぶん?」


「まだお互い何も知らないし」


 女性は少し目を細め、それから小さく頷いた。


「それは、そうね」


「でも、少なくとも今は」


 ハクアを見る。


 白い身体は座ったままだ。


「大丈夫そう」


 女性もハクアを見てから、もう一度こちらへ視線を戻した。


「……じゃあ、一つ聞いてもいい?」


「うん」


 何を聞かれるのか分からない。


 けれど、逃げる必要も感じなかった。


 銀色の髪が風に揺れる。


 女性は少しだけ迷うように間を置いてから、口を開いた。


第74話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


銀色の髪の女性と、初めて言葉を交わしました。


互いに武器へ手をかけることなく、まだ距離を残したままの会話。


少しずつ、相手が「森の中の誰か」から一人の人物へ変わり始めています。

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