第73話 銀色
森に残されていた、履物らしい足跡。
その先を追うことはせず、いつもの暮らしへ戻ります。
緩尾根を越えた頃には、湿った地面はもう後ろに遠ざかっていた。
足元の土も少しずつ乾き、見慣れた木々が増えてくる。来る時に確認した目印を逆にたどりながら歩けば、考えなくても足は拠点のある方へ向かっていた。
前を歩くハクアも、さっきまでの足跡を気にしている様子はない。
「本当に追わないんだな」
声をかけると、白い耳だけがこちらへ動いた。
「いや、俺も追わないって言ったけど」
むしろ、あの場で少し先まで行っていたら止める側だったのはハクアではなく自分だった気がする。
足跡は気になった。今も気になっている。
履物のようなものを使い、二本足で歩く何かが、この森の中を通っている。
けれど、分かったのはそこまでだ。相手が何者なのか、どこへ向かったのか、あの滑らかな切断面を残した存在と同じなのか。どれも、まだ想像でしかない。
「考えても増えないか」
今持っている情報を何度並べ直しても、知らないものは知らないままだ。
そう思って前を見ると、ハクアが少し先で立ち止まっていた。
「どうした?」
近づくと、倒れた細い枝が道のように使っている場所へ張り出している。
「ああ、これか」
行きにはなかった。
風で落ちたのか、何かが触れたのかは分からないが、このままだと次に通る時に足を引っかけそうだった。
持っていた採取物を一度下ろし、枝を脇へ引く。少し重かったので根元側を持ち上げ、何度か引きずって木の間へ寄せた。
「よし」
ついでに近くの目印も確認する。結びつけていた細い紐は残っていて、木の形も変わっていない。
「こっちはいつも通りだな」
そんな当たり前のことに少し安心して、また歩き始めた。
日が傾き始める前には、拠点へ戻れた。
空き地へ入ると、朝に残していた焚き火の跡はほとんど灰になっている。持ち帰った湿地の草を雨避けの下へ置き、水を飲んでから火を起こし直した。
ハクアは自分の場所へ行き、身体を伏せる。
「疲れた?」
白い顔がこちらを向く。
「俺はちょっと疲れた」
湿地まで往復したことより、あの足跡を見つけてからずっと周囲を気にしていたせいかもしれない。
火が安定するのを待ちながら、今日採ってきた草を広げる。傷んだものはなく、使う分としては十分だった。
「これだけあれば、しばらくいいな」
何本かを乾燥させる場所へ移し、残りをまとめる。
そのあと、作業面の端に置いてある簡略地図を開いた。
地図と呼ぶにはかなり粗く、線と印ばかりで自分にしか分からないところも多い。それでも、西の緩尾根、湿地、細沢、割れ岩までの位置関係は以前よりずっと見やすくなっていた。
「この辺だったな」
湿地の外縁。水が広がり始める少し手前で、曲がった木と苔の多い倒木がある辺りだ。
その近くへ小さな印を一つ加え、何の印か忘れないように横へ靴底に似せた細長い形も描いてみた。
「……分かりにくいな」
見れば見るほど葉っぱにも見える。
少し考えて、その横に二つ並べて描く。
「これなら……いや、余計に分からないか」
ハクアが顔を上げていた。
「見なくていい」
視線が戻る。
「自分で分かればいいんだよ」
地図を乾いた場所へ戻す。
足跡を追うつもりはないが、見つけた場所を忘れる必要もない。次に同じ辺りを通った時、また何か違いがあれば気づける。それで十分だった。
夕方はいつも通りに過ぎた。
食べるものを用意し、水を使い、火を見ながら傷んだ道具がないかを確かめる。暗くなる頃には森の音も少し変わり、空き地の外から虫の声が聞こえ始めた。
寝る前になっても、足跡のことは何度か頭へ浮かんだ。
「明日も行くか」
口にしてから少し考える。
追いかけるためではない。今日、湿地では繊維の取れる草を採っただけで、外縁に生えている植物の状態をほとんど見ていなかった。最近は水の溜まり方も少し変わっているし、白い地下部分を持つ植物の周辺も確認しておきたい。
元々やるつもりだったことを、足跡を見つけたせいで途中までにしただけだ。
「同じ辺りには行くけど」
ハクアを見る。
「探しには行かないからな」
白い身体はすでに丸くなっていた。
「聞いてないな」
火を小さく整え、横になる。
目を閉じてからしばらくは、柔らかい地面に残っていた細長い跡が浮かんでいたが、いつの間にかそれも消えた。
◇
翌朝。
目を覚まして最初に見えたのは、昨日までと変わらない雨避けの内側だった。
火を確かめ、水を飲む。
ハクアはすでに起きていて、空き地の端で鼻を動かしている。
「おはよう」
耳がこちらへ向く。
朝の支度を済ませ、乾かしていた草をひっくり返す。昨日採った分はまだ水分が多い。
「今日は触らなくていいか」
道具を確認し、水と簡単な入れ物だけを持つ。採取が目的ではないので、荷物は昨日より少なかった。
「行くぞ」
ハクアが先に森へ入る。
昨日と同じ西への道を進み、緩尾根を越える。
同じ道を二日続けて歩くと、小さな違いがよく見えた。昨日脇へ避けた枝、踏んだことで少し寝た草、自分とハクアの足跡。それらを見ながら歩いていると、昨日見つけた靴の跡のことを嫌でも思い出す。
「今日は残ってるかな」
別に確認しなくてもいい。
雨が降ったわけではないから、柔らかな場所なら残っている可能性は高い。けれど、そこへ一直線に向かうことはしなかった。
湿地の外縁へ出ると、昨日とは少し離れた場所から入り、水が浅く広がっているところを避けながら固い地面を選んで進む。
「この辺、前より増えてるな」
足元に生えている低い草を見る。葉の幅が細く、水際へ行くほど数が多い。
以前にも見ていた植物だが、湿地の内側と外側では生え方がかなり違う。しゃがんで葉を指で触ると、表面がしっとり濡れていた。
「食べられるかは知らないけど」
今すぐ試すつもりもない。まずは、どこに何が生えているのかを覚える。
少し場所を変えると、白い地下部分を持つ植物も何株か見つかった。以前掘った場所とは離れている。
「こっちは残ってる」
周りの土を崩さないように見るだけにして、立ち上がる。
その時、少し前にいたハクアが動きを止めた。
「ん?」
耳が前を向いている。
鼻を地面へ近づけた時とは違い、顔を上げたまま森の一点を見ていた。
「ハクア?」
呼んでもこちらを見ない。身体を低くするでも唸るでもなく、ただじっと見つめている。
俺も同じ方向へ目を向けた。
最初は木しか見えなかった。細い幹と重なった葉、その隙間から落ちる木漏れ日。
「何が――」
言いかけたところで、光が動いた。
「……え?」
木々の間、かなり先に明るいものがある。
一瞬、濡れた葉に光が当たったのかと思ったが違った。
銀色だ。
細い光が何本も揺れ、肩の辺りまで落ちている。
「髪……?」
目を凝らすと、木の横の影に人の形をしたものが立っていた。
二本の脚と胴体、そして頭。遠くて顔までは分からず、着ているものの細かな形も見えない。それでも、獣には見えなかった。
思わず息を止めた。
昨日見た足跡が頭へ浮かび、靴、二本足、誰かという断片が、今目の前に立っている形へ重なる。
「本当に……」
声が小さく漏れた。
人影は動かず、こちらを向いている。顔は見えないのに、自分が見ているのと同じように向こうもこちらを見ているのだと分かった。
ハクアも動かない。
葉が擦れ、遠くで鳥が鳴き、少し離れた湿地から水の動く小さな音が聞こえる。その中で、俺たちと銀色の人影だけが取り残されたように止まっていた。
何か言うべきだろうか。
敵意はないと伝えたいが、言葉が通じるかも分からない。そもそも声をかけていい相手なのか、それすら判断できなかった。
「こ……」
口を開いた瞬間、銀色が揺れた。
「あ」
人影が横へ動き、木の幹へ重なって半分ほど姿が隠れる。さらにもう一歩動くと、銀色の髪だけが木漏れ日を反射した。
「待っ――」
声を出しかけて止める。
相手は離れようとしている。なら、追う理由はない。
銀色は木々の奥へ移り、やがて見えなくなった。葉がわずかに揺れていたが、それもほどなく止まる。
そこにはもう、木しかなかった。
「行った……?」
しばらく同じ場所を見続けていると、ハクアの耳が動いた。
鼻先が少し上がり、人影が消えた方へ向く。白い身体が一歩だけ前へ出たところで、俺は呼び止めた。
「ハクア、そこまで」
ハクアが止まる。
「追わない」
昨日と同じだ。
足跡を見つけても追わなかった。今は姿まで見えたけれど、相手は向こうへ離れていったのだから、それ以上近づく必要はない。
人影が消えた木々を見る。
今なら走ればまた見えるかもしれないし、少しくらいなら声が届くかもしれない。それでも足は動かなかった。
「……本当にいたな」
口に出すと、ようやく実感が追いついてくる。
今までは痕跡だけだった。綺麗に切られた草、整った掘り跡、履物らしい足跡。どれもそこにいた本人を見たわけではない。
けれど今は違う。
遠くて顔も分からなかったが、確かに誰かが立っていた。
「銀色だった」
髪だと思う。木漏れ日が当たるたび、そこだけ森の中で明るく見えた。
もう一度、人影が消えた方を見る。
「向こうも、こっち見てたよな」
ハクアは答えない。
「見間違いじゃないよな。お前も見てたし」
白い顔がこちらへ向くのを見て、少しだけ肩の力が抜けた。
誰かがいる。
もう、可能性だけではない。
少なくとも今日、この森の中で、自分でもハクアでもない人の形をした存在を見た。相手もこちらを見た。それだけは確かだった。
「今日は、それでいいか」
無理に確かめる必要はない。
名前も知らず、何者かも、敵か味方かすら分からない。それでも向こうはいきなり近づいてくることも、こちらへ何かを投げることもなく、俺も追わなかった。
「戻ろう」
ハクアへ声をかけ、人影がいた方向から離れる。
すぐに帰るのではなく、湿地の外縁で確認するつもりだった場所へ戻り、残っていた植物を少しだけ見てから切り上げることにした。
さっきまでと同じように葉や地面を見る。それでも何度か視線は勝手に森の奥へ向かい、もう見えない銀色を探しそうになった。
「気になるな……」
昨日まで想像しかできなかった相手が、急に姿を持ったのだから当然だ。
「でも、追わない」
もう一度だけ自分に言い聞かせると、ハクアが横を歩き始めた。
俺も湿地を離れ、帰り道へ入る前に一度だけ振り返る。
木々の向こうには何も見えない。
ただ、もう昨日までと同じ森には見えなかった。
どこかに誰かがいるかもしれない森ではない。
誰かがいる森だった。
第73話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
痕跡や足跡の向こうにいた存在を、初めてその目で確認しました。
見えたのは、木漏れ日に光る銀色の髪と人影だけ。
互いに姿を認識しましたが、まだ距離は残ったままです。




