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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第六章 「銀髪の研究者」

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第72話 靴の跡

森のどこかに「誰か」がいるかもしれない。


そう考えるようになっても、主人公はその正体を探しには行きません。


いつも通りの生活の中で、必要があって南西へ向かいます。

 翌朝。


 水を汲み、火を整え、昨日拾ってきた薪を使いやすい長さに分ける。


 それが終わる頃には、空き地へ差し込む光もかなり明るくなっていた。


「今日は、あっち行くか」


 雨避けの下に吊るしてある、湿地で採った草を見る。


 乾かしている分はまだ残っている。


 すぐに足りなくなるほどではないけれど、湿地の様子も見ておきたい。


 白い地下の部分を持つ植物も、前に確認してから少し日が空いている。


 細沢まで行くかは、その時に決めればいい。


「ハクア」


 呼ぶと、空き地の端にいた白い身体がこちらを向いた。


「南西。行く?」


 ハクアは立ち上がり、身体を一度大きく伸ばす。


「行くってことでいいな」


 必要なものをまとめる。


 石の刃。


 水。


 採ったものを入れるための簡単な入れ物。


 それから、途中で目印を直す必要があるかもしれないので、細い紐も少しだけ持った。


 昨日考えたことも忘れてはいない。


 誰かがいるかもしれない。


 だから今日は、いつもより少しだけ周りを見る。


 ただし。


「探さない」


 口に出して確認する。


「追わない。危なそうなら帰る」


 ハクアの耳が動いた。


「よし」


 それで出発した。


 西へ進み、何度も歩いた区間を抜ける。


 最初の頃は目印を一つずつ探していた道も、今では木の形や地面の傾きでだいたい分かる。


 それでも目印を無視はしない。


 自分が慣れたと思っている時の方が、変なところで間違えそうだからだ。


「これはまだ大丈夫」


 木につけた印を見て、そのまま進む。


 ハクアは少し前。


 時々脇へ逸れて匂いを嗅ぐが、遠くへは行かない。


 やがて地面の傾きが変わり、西の緩い尾根へ出た。


 ここまで来れば、南西の湿地まではそれほど迷わない。


「前はここに来るだけでも結構かかったのにな」


 立ち止まり、後ろを見る。


 森しか見えない。


 当然、拠点も見えない。


 それでも帰る方向は分かる。


 前に何度も止まりながら歩いた場所が、今では途中の目印になっていた。


「慣れるもんだな」


 ハクアが先へ進む。


「あ、待て待て」


 少し早足で追いかけた。


 緩尾根を外れ、南西へ下っていく。


 地面の湿り気が少しずつ増え、見慣れた植物も増えてきた。


 湿地が近い。


 俺は足元を確かめながら歩く。


 昨日決めたから、というのもある。


 でも、この辺りは元々足跡が残りやすい。


 前にも中型くらいの獣らしい跡を見つけている。


「今日は……」


 少し泥のついた地面を見る。


 小さな跡。


 これは違う。


 鳥か何かだろう。


 もう少し先には、丸みのある窪みがいくつか続いている。


「これも違うな」


 前にも見たことがある。


 森で暮らしているうちに、何の動物かまでは分からなくても、自分たちのものではない足跡を見分けることには少し慣れた。


 ハクアのもの。


 自分のもの。


 それ以外。


 せいぜい、そのくらいだけれど。


 今のところ、それで困ってはいない。


 湿地の外縁へ近づく。


 水が溜まっているところを避け、少し固い場所を選んで進んでいると、前を歩いていたハクアが止まった。


「ん?」


 何かを見つけたのかと思ったが、ハクアは前ではなく地面へ鼻を近づけていた。


 俺も歩みを止める。


「何かある?」


 返事の代わりに、鼻先が少し動く。


 その近くへ行こうとして、一歩踏み出しかけた。


「あ」


 止まる。


 ハクアの鼻先より少し手前。


 地面が柔らかくなっている場所に、窪みがあった。


「足跡……?」


 最初はそう思った。


 ただ。


 見慣れない。


 獣の足跡なら、爪や指のような形が残ることが多い。


 丸かったり、細長かったりするものはあっても、今見ているものとは違う。


 俺はしゃがみ込んだ。


「…………」


 細長い。


 前と後ろがある。


 その形を見た瞬間、妙に見覚えがあると思った。


 自分の足元を見る。


 それから地面へ視線を戻す。


「え」


 少し横へ移動する。


 自分が今踏んだ場所を見る。


 そこには当然、自分の履物の跡が残っている。


 並べて見ると、違う。


 俺の跡ではない。


「これ……」


 もう一度、見つけた窪みに顔を近づける。


 地面が柔らかいせいで輪郭は少し崩れている。


 細かい形までは分からない。


 でも、ただ足の形が地面へ押しつけられたというより、何かを履いたものが踏んだように見えた。


「……靴?」


 言った途端、昨日より急に現実味が増した。


 誰かがいるかもしれない。


 昨日はまだ、滑らかな切断面や掘り跡から考えただけだった。


 けれど今、目の前にあるものは。


「履いてる……よな、これ」


 自分の足元を見る。


 見つけた跡を見る。


 また自分の足元を見る。


「いや、だから何だって話なんだけど」


 靴を履いている。


 それだけなら、別におかしくない。


 俺だって履いている。


 問題は。


「俺じゃないんだよな」


 周囲を見る。


 木。


 草。


 湿った地面。


 いつもと変わらない。


 人の声も聞こえない。


 枝を踏む音もしない。


 ハクアが警戒している様子もない。


 それでも、足元には自分以外の履物らしい跡がある。


「…………」


 一つではなかった。


 少し離れた場所にも、似た形の窪みがある。


 さらにその先。


 薄くて分かりにくいが、もう一つ。


 一定の間隔で続いていた。


 四本足の獣なら、もっと違う並び方になる。


 少なくとも、俺がこれまで見たものとは違う。


「二本……?」


 立ち上がり、自分が歩いた跡を振り返る。


 右。


 左。


 右。


 地面には交互に跡が残る。


 見つけた跡も、似たような間隔で続いているように見えた。


「二本足で歩いてる?」


 頭の中で、昨日までのものがまたつながる。


 草を綺麗に切る。


 地面を必要なところだけ掘る。


 履物らしいものを使う。


 二本足で歩く。


「人……」


 そこまで言って、止めた。


「いや、まだ分からないか」


 人間とは限らない。


 そもそもハクアみたいに、俺が知らない生き物がいる世界だ。


 二本足で歩いて靴のようなものを履く存在が、人間だけだと決める理由はない。


 でも。


 昨日よりは、ずっと近い。


 ただの獣ではないかもしれない。


 何かを使い、何かを採りながら、この森を歩いている存在。


「誰か、か」


 今度は昨日ほど、その言葉に違和感がなかった。


 足元で、ハクアがまた匂いを嗅ぐ。


「あ」


 そうだった。


 俺は少し身体をずらし、ハクアの邪魔をしないようにする。


 白い鼻先が足跡の縁をなぞる。


 次に少し先の地面へ移り、また嗅ぐ。


 耳は立っている。


 けれど唸らない。


 身体を低くして警戒する様子もない。


「ハクア」


 顔が上がる。


「前に嗅いでたやつか?」


 湿地の先。


 細沢の近く。


 今まで何度か、ハクアが俺には分からない匂いを拾っていた。


 それと同じなのか。


 聞いてみたものの、ハクアは俺を見ているだけだった。


「…………」


 俺も見返す。


「同じ?」


 耳が一度動く。


「違う?」


 今度は何も動かない。


「どっちだよ」


 もちろん答えが返ってくるとは思っていない。


 前の匂いを覚えていたとしても、同じかどうかを俺へ説明する方法があるわけでもない。


 ハクアはもう一度地面へ鼻を近づけた。


 少し嗅いだあと、顔を上げる。


 そして。


 そのまま俺の横へ戻ってきた。


「追わないのか?」


 白い顔がこちらを向く。


 足跡は先へ続いている。


 たどれば、何か分かるかもしれない。


 昨日考えた「誰か」が本当にいるのか。


 どんな姿なのか。


 どこへ行ったのか。


 もしかしたら、その先に答えがある。


「…………」


 足跡の続く方を見る。


 知らない森ではない。


 少なくとも、湿地の周辺は何度も歩いている。


 だから少しくらいなら。


 そう考えかけて、やめた。


「追わないって決めたもんな」


 自分で言ったことだ。


 痕跡を見つけても追わない。


 必要な時にいつもの範囲を歩き、その中で気づいたことだけを見る。


 今日は湿地へ来た。


 そして、たまたま見つけた。


 なら、それで十分だ。


「気になるけど」


 かなり気になる。


「……かなり気になるけど」


 もう一度言った。


 ハクアが俺を見る。


「分かってる。行かない」


 別に止められたわけでもないのに、そう答える。


 足跡の先から視線を外した。


 代わりに、周囲を確認する。


 すぐ近くに、前から採っている繊維の取れる草が生えている。


 本来の目的はこっちだ。


「今日はこれ」


 使えそうなものを何本か選ぶ。


 全部は採らない。


 根元近くを石の刃で切ると、ざりざりとした抵抗が手へ伝わった。


「やっぱり全然違うな」


 切断面を見る。


 昨日も比べたばかりだ。


 自分のものは粗い。


 前に見つけたものは、もっと滑らかだった。


 そして今日、その近くには履物らしい跡がある。


「同じやつがやった……?」


 可能性はある。


 でも、まだ分からない。


 切断跡を残した存在と、この足跡の主が別ということだってある。


 今は勝手につなげない方がいい。


 採った草をまとめる。


 その間も、何度か足跡の方へ目が向いた。


 追いはしない。


 ただ、どこにあったかは覚えておく。


「この辺」


 周囲を見る。


 少し曲がった木。


 根元に苔の多い倒木。


 湿地の水が広がり始める手前。


「覚えられるな」


 帰ったら簡略地図にも小さく印をつけておこう。


 何の足跡か決めつけず、見つけた場所だけ。


 それでいい。


 繊維の取れる草を必要な分だけ採り終える。


 白い地下部分を持つ植物の様子も少し見たが、今日は掘り起こさない。


 細沢まで行く予定もやめた。


 危険を感じたわけではない。


 ただ、足跡を見つけた後で、その先へ進むと自分でも「追っている」のか「いつもの探索」なのか分からなくなりそうだった。


「今日はここまで」


 ハクアへ声をかける。


「帰ろう」


 白い身体が先に向きを変えた。


「お前は迷わないな」


 来た道を戻る。


 湿地を離れ、緩尾根へ上がる頃には、さっきの足跡はもう見えない。


 森の景色も、行きと何も変わっていなかった。


 それでも頭の中では、昨日より一つだけ増えている。


 滑らかな切断面。


 整った掘り跡。


 そして。


「靴みたいな跡」


 自分でも、もう一度口にする。


 履物を使う。


 二本足で歩くらしい。


 少なくとも、そんな存在がこの森を通った可能性がある。


「人、っぽくなってきたな」


 断定はできない。


 まだ姿すら見ていない。


 それでも。


 昨日まで木々の向こうにぼんやりと想像していた「誰か」は。


 ほんの少しだけ。


 形を持ち始めていた。

第72話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


南西の湿地で見つけたのは、主人公でも獣でもない履物らしい足跡。


「誰か」の存在は、少しずつ具体的になってきました。


それでも、主人公は足跡を追いません。

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