第71話 誰かがいる
第五章で、森の西から南西へ少しずつ広がった生活圏。
その先々には、主人公やハクアのものではない、小さな痕跡が残っていました。
第六章「銀髪の研究者」、始まります。
朝の水汲みから戻ると、ハクアは空き地の端で前脚を伸ばしていた。
俺は樹皮の容器をいつもの場所へ置き、焚き火へ細い薪を二本足す。火が落ち着いたのを見てから、雨避けの下に吊るしていた、湿地で採った草の束へ手を伸ばした。
「もう少し乾かしてもいいか」
指で一本ずつ確かめる。
湿地から持ち帰った頃より水分は抜けているが、全部が同じように乾いているわけではない。細いものは軽く、太いものにはまだ少しだけしなりが残っていた。
使えそうなものを分け、傷んだ端を石の刃で落とす。
ざり、と繊維が引っかかった。
「……相変わらずだな」
切れないわけではない。
けれど、押して、引いて、何度か刃を動かさなければならない。切ったあとの断面も、細い繊維が少し潰れて飛び出している。
それを見たところで、手が止まった。
「…………」
前にも、似たことを考えた。
湿地で最初にこの草を見つけた時。
何本かまとまって生えていた中に、一本だけ妙に綺麗に切られたものがあった。
折れた感じではなかった。
獣が噛み切ったようにも見えなかった。
今、目の前にある自分の切り口とは明らかに違っていた。
「これより、ずっと綺麗だったよな」
切ったばかりの草を持ち上げる。
斜めになった断面。
押し潰れた繊維。
何度見ても、あの時のものとは違う。
もちろん、俺の石の刃が悪いだけかもしれない。
もっと薄くて硬い石をうまく割れば、近い切り方ができる可能性はある。
それでも。
「一回だけなら、まだ分かるんだけど」
草を束へ戻す。
頭に浮かんだのは、湿地でもう一つ見つけた痕跡だった。
白い地下の部分を持つ植物を見つけた日。
大きめの獣が歩いた跡の近くに、地面を掘った跡があった。
獣のものらしい跡は広く土が崩れ、周りの草も倒れていた。
でも、その近くにあった小さな掘り跡は違った。
狭い。
整っている。
必要なところだけを少し掘ったような形だった。
あの時は、何なのか分からないからそのままにした。
滑らかな切り口も。
整った掘り跡も。
一つずつなら、知らない獣や、俺がまだ知らない自然の変化で説明できるのかもしれないと思っていた。
「でもなあ……」
昨日見たものが増えた。
割れ岩の近く。
前に行った時にはなかった、新しい植物の切断面。
それも、最初に湿地で見たものとよく似ていた。
自然に折れたものではない。
少なくとも、俺にはそう見えた。
「一回目」
指を一本立てる。
「草」
二本目。
「掘った跡」
三本目。
「昨日の切った跡」
そこまで数えてから、指を下ろした。
三つとも、同じものが残したと決まったわけではない。
滑らかな切り口と掘り跡に関係があるかも分からない。
でも、どれも西から南西へ歩くようになってから見つけた。
そして昨日の切り口は新しかった。
つまり。
「最近も、あっちに何かいる」
言ってから、少し違う気がした。
何か。
今までは、それでよかった。
森には自分が知らない生き物がいる。
ハクアみたいな存在だっていた。
足跡だけ見た中型くらいの獣もいるし、まだ姿を見ていないものだっていくらでもいるはずだ。
でも。
必要なところだけ掘る。
植物を綺麗に切る。
同じような跡を、離れた場所に残す。
それを全部ただの「何か」で片付けると、今度はそっちの方が不自然に思えた。
俺は焚き火の向こうへ目を向けた。
ハクアは起きている。
伏せたまま、こちらを見ていた。
「ハクア」
白い耳が動く。
「お前、前に湿地の先で匂い嗅いでたよな」
返事はない。
もちろん、あるとは思っていない。
でも、細沢を探していた時、ハクアが鼻を上げて少し長く匂いを取っていたことを思い出す。
何かいるのかと聞いた。
あの時も、ハクアは追いかけなかった。
警戒して唸ることもなかった。
「危ないやつじゃなかった?」
ハクアは俺を見たあと、鼻先を前脚の上へ戻した。
「分からないよな」
危険ではなかったから追わなかったのか。
興味がなかったのか。
そもそも俺が考えているものとは別の匂いだったのか。
そこはハクアに聞いても仕方がない。
立ち上がり、作業面の端へ置いていた石斧を手に取る。
柄との固定を確かめる。
少し緩んでいた。
「こっち先にやるか」
細い紐を外し、巻き直す。
今すぐ南西へ行くつもりはなかった。
気になる。
かなり気になる。
でも、気になるから探しに行く、というのは違う気がする。
森の中で知らないものの跡を見つけたからといって、追いかけて確かめる必要はない。
大きな獣の道を見つけた時も、近付かないようにした。
知らない場所へ進む時も、行けるところまでではなく、帰れるところまでで止めた。
それと同じだ。
「相手が何なのか分からないしな」
紐を締める。
石斧を軽く振って、ぐらつかないことを確かめた。
「人……?」
口に出してみる。
自分で言ったのに、しっくりこない。
この森へ来てから、人を一度も見ていない。
そもそも、ここがどこなのかも分からない。
森の外に何があるのか。
近くに人が暮らしているのか。
それすら知らない。
だから、人がいると決めるのは早い。
「人じゃないかもしれないし」
ハクアを見る。
「お前みたいなのもいるしな」
白い顔が上がった。
「いや、お前が草を綺麗に切るって言ってるわけじゃないぞ」
じっと見られる。
「……たぶんやらないよな?」
ハクアは顔を逸らした。
「そこは何か反応してくれてもいいだろ」
少しだけ笑う。
それでも、考えは消えなかった。
人かどうかは分からない。
獣とも限らない。
でも、ただ風で折れた草や、雨で崩れた土とは違う。
何かが意図して残したように見える。
そう考えるなら。
相手を「何か」と呼ぶより。
「誰か、いるのか……?」
声にすると、森の見え方がほんの少し変わった。
空き地の外。
木々の向こう。
いつもと同じ森なのに、そのどこかに自分でもハクアでもない誰かがいるかもしれない。
今までなら、知らない獣がいることと大して変わらない話だったはずだ。
けれど、植物を切ったり、地面を掘ったりする相手だと考えると、妙に気になる。
「…………」
会えるかもしれない。
そんな考えが一瞬浮かんだ。
すぐに、首を振る。
「いや」
会える、じゃない。
会って大丈夫かどうかも分からない。
こっちを見つけたら襲ってくる相手かもしれないし、近付かれること自体を嫌がるかもしれない。
俺だって、森の中でいきなり知らない何かに追いかけられたら困る。
「探すのはやめとくか」
決めると、思ったより簡単だった。
わざわざ足跡を探す。
ハクアに匂いを追わせる。
割れ岩の向こうまで進む。
そういうことはしない。
今まで通り、自分の生活をする。
水を汲む。
薪を集める。
食べられるものを確かめる。
道具を直す。
必要があれば、湿地や細沢へ行く。
その時だけ、少し周りを見る。
「それでいいな」
ハクアの耳がこちらへ向いた。
「次にあっち行く時、ちょっと気をつける」
石斧をいつもの場所へ戻す。
「何かあっても追わない」
少し考えて付け足す。
「危なそうなら帰る」
ハクアが立ち上がった。
「お」
白い身体がこちらへ来る。
「今のは賛成ってことでいい?」
俺の横を通り過ぎ、そのまま水の入った容器の近くで止まった。
「あ、水か」
分かりやすい。
「はいはい」
容器を寄せる。
ハクアが飲んでいる間に、俺は今日やることを頭の中で並べ直した。
乾かしている草。
石斧の固定。
少なくなっている薪。
食べ物も少し見ておきたい。
南西へ行かなくても、やることはいくらでもある。
「今日はこっちだな」
薪を拾うための籠代わりのものを持ち、森へ向かう。
空き地を出る前に、一度だけ西から南西の方角へ目を向けた。
木々しか見えない。
声もしない。
昨日までと何も変わらない森だった。
それでも。
滑らかな切り口。
整った掘り跡。
新しい切断面。
頭の中では、もう別々の「分からないもの」ではなくなり始めていた。
誰かがいるかもしれない。
まだ、それだけだ。
だから、探さない。
次にあの辺りへ行く時だけ、少し注意して見る。
「行くか、ハクア」
振り返ると、白い身体が少し遅れてついてきた。
森の中へ入る。
今日は南西とは違う方へ。
いつもの生活を続けるために。
ただ一つ。
これまでとは違って、木々の向こうに自分たち以外の誰かがいる可能性だけを、頭の片隅へ残したまま。
第71話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
滑らかな切断面や整った掘り跡。
主人公の中で、それらは「誰か」がいる可能性へとつながり始めました。
ただし、正体も目的もまだ分かりません。




