第70話 ここまでは
第70話です。
第五章本編の最終話です。
割れ岩まで続いた、新しい道。
もう一度そこへ向かい、昨日見つけた場所を、自分で行って帰れる場所へ変えていきます。
次の日。
朝の支度を終えてから、地面に描いた線の前へ座った。
拠点。
西側の岩場。
高いところ。
湿った場所。
水が通った跡。
細い流れ。
そして、その向こうにある割れ岩。
昨日伸ばした線を、枝先でゆっくりたどる。
「ここまでなら行けるんだよな」
行ける。
それだけではない。
昨日は、そこからちゃんと帰ってきた。
途中で迷ったわけでもなく、暗くなる前に拠点へ戻っている。
最初に西へ進み始めた時とは、ずいぶん違った。
「もう一回行ってみるか」
今日の目的は、その先ではない。
割れ岩まで。
昨日と同じところへ行き、同じ道で戻る。
それができれば。
少なくとも、あの岩までは一度きりの場所ではなくなる。
立ち上がる。
ハクアもすぐに体を起こした。
「今日は昨日と同じところまでな」
白い耳が動く。
「その先は行かない」
返事はない。
それでいい。
西側の岩場へ向かう。
歩き始めてしばらくすると、いつもの目印が見えてきた。
倒木。
根。
少し傾いた木。
以前なら、一つ見つけるたびに足を止めていた。
今は歩きながら確認できる。
西側の岩場を越え、地面が緩く上がり始める。
苔が減る。
下草が少なくなる。
頬に少しだけ風が触れた。
「高いところ」
足は止めない。
初めてここへ来た時は。
地面が上がっていることを確かめるだけで、何度も振り返った。
今日は。
上り始める前から、その先に何があるのか分かっている。
根が増える。
石が増える。
少し乾く。
そして。
傾きがなくなる。
「ここ」
少し高い場所へ出る。
立ち止まって周囲を見る。
相変わらず木しかない。
景色が大きく開けるわけでもない。
でも。
もう迷わない。
「こっち」
反対側へ下る。
地面が少しずつ湿り始めた。
苔が増える。
黒っぽい土。
柔らかいところを避ける。
切れにくい草が生えている場所を通った。
何本かが風に揺れている。
「まだあるな」
最初に見つけた時は、一本切るだけでもずいぶん手間がかかった。
今は拠点に短い紐が何本かある。
全部がうまくいったわけではない。
それでも、ここに生えているものの使い方を少し知っている。
さらに進む。
白い根の生えている辺り。
地面には、前に動物が掘った跡が残っていた。
崩れて形は分かりにくくなっている。
少し離れたところへ目を向ける。
以前見つけた、小さく整った掘り跡。
「あれも、この辺だったな」
今は落ち葉が入り込み、最初に見た時ほどはっきりしていない。
それでも場所は覚えている。
草の滑らかな切り口。
整った掘り跡。
どちらも、結局何だったのかは分かっていない。
「……まあ、今日はいいか」
止まらずに進む。
白い根の場所を越える。
その少し先。
地面の浅い窪み。
寄った落ち葉。
細かな砂。
「水の跡」
もう探さなくても分かる。
跡に沿って進む。
以前は。
落ち葉が同じ向きになっている理由を考え。
砂が残っている場所を比べ。
どちらへ低くなっているのか、何度も確かめた。
今は。
「こっち」
自然に足が向く。
しばらくすると、水音が聞こえてきた。
「もうすぐ」
木々の間に細い流れが見える。
浅い水。
砂。
丸い石。
根。
「着いた」
流れそのものは、昨日までと大きく変わっていない。
水が細く。
同じように流れている。
渡れる根のところまで移動する。
「ここ」
表面を確かめる。
湿ってはいる。
でも滑りそうではない。
片足を乗せる。
一歩。
もう一歩。
向こう岸へ降りる。
「よし」
ハクアはすでに先へ進んでいる。
「待てって」
白い姿が止まる。
「今日は迷わないからって、先に行っていいわけじゃないぞ」
ハクアはこちらを見てから、歩く速度を少し落とした。
「分かったのか?」
たぶん違う。
俺も追いつく。
昨日歩いた森。
流れの近くはまだ湿っているが、少し離れると地面が固くなる。
小石が増える。
大きめの石が土から出ている場所もある。
「こっち」
迷わず進む。
昨日覚えた苔の多い倒木が見えた。
その先。
少し根の出た木。
さらに進む。
木々の間に灰色が混じる。
「見えた」
割れ岩だった。
昨日と同じ場所に。
同じように立っている。
当たり前なのに。
少し安心する。
「ちゃんと来られたな」
足を止める。
昨日。
初めてここへ着いた。
今日は。
一度知った場所へ、自分で戻ってきた。
ハクアの後を追ってきたわけではない。
偶然水音を見つけたわけでもない。
目印を探し続けて、何とか辿り着いたわけでもない。
高いところ。
湿った場所。
水の跡。
細い流れ。
渡れる根。
それを順番に通って。
ここまで来た。
「…………」
割れ岩へ近づく。
中央の大きな亀裂も、そのままだった。
上から下へ伸びる割れ目。
苔。
白っぽいもの。
薄い緑色のもの。
表面へ手を当てると、今日も冷たい。
「これなら目印としては十分だな」
高いところから。
湿った場所へ下り。
水の跡をたどって細い流れへ行く。
根を渡り。
そこから少し進めば、この岩。
頭の中で順番を並べる。
昨日より、はっきりつながった。
「帰りも同じだな」
まだ帰らない。
今日は割れ岩の周りを少し見る。
昨日は岩そのものと、その向こうに森が続いていることを確認しただけだった。
先へ進まない範囲なら、周囲を見るくらいはできる。
岩の左側へ回る。
地面は比較的固い。
岩の根元には、苔や小さな草が集まっている。
少し離れると、普通の森へ戻る。
「こっちは特に何もないか」
岩の裏側までは行かない。
見える範囲だけ確認し、正面へ戻る。
今度は反対側。
昨日、少しだけ回り込んだ方だ。
ハクアが先に歩く。
「遠く行くなよ」
岩の端を越える。
そこにも森が続いている。
昨日と同じだ。
木。
下草。
倒木。
その先にも。
まだ何も知らない森がある。
「…………」
今日は行かない。
昨日決めたところまで。
もう一度来る。
それが今日の目的だった。
代わりに、割れ岩の近くを見る。
倒木。
根。
下草。
地面に散った小石。
「目印になるもの、もう一個くらいあった方がいいかな」
割れ岩だけでも十分大きい。
でも、流れ側から来た時に、どの辺へ出るのか分かるものがあればもっと楽だ。
苔の多い倒木を見る。
少し根の露出した木。
その位置を確かめる。
「これと、あれ」
二つあれば。
次も同じところへ出られそうだ。
そう思いながら歩いていた時だった。
ハクアが少し前で止まった。
「ん?」
地面の匂いを嗅いでいる。
一度。
二度。
それから。
近くの下草へ鼻を向けた。
「何かある?」
近づく。
ハクアが見ている先には、細い茎の草が何本か生えている。
そのうち一本が。
途中で切れていた。
「……また?」
しゃがみ込む。
切れたところを見る。
茎の先。
断面。
「これ」
顔を近づける。
平らだった。
裂けた繊維がほとんど出ていない。
折れたというより。
何か鋭いもので切ったように見える。
「前のと似てる」
湿った場所の外側。
切れにくい草の中に一本だけあった、妙に滑らかな切り口。
あれとは植物が違う。
太さも違う。
それでも。
切れ方が似ている。
周囲を見る。
「他にも?」
少し離れたところに、もう一本。
こちらも先が短くなっていた。
近づく。
断面を見る。
同じように平らだ。
「二本」
前は一本だけだった。
だから。
偶然かもしれないと思った。
風。
石。
動物。
何か変な折れ方をしただけかもしれない。
でも。
今度は二本ある。
しかも。
昨日ここへ来た時には。
「…………」
見た覚えがない。
昨日。
この辺りは目印を探しながら歩いた。
全部の草を見ていたわけではない。
だから、絶対になかったとは言えない。
それでも。
少なくとも。
こんな切れた草に気づいた覚えはなかった。
腰の石片を出す。
近くにある同じくらいの太さの草を一本だけ選ぶ。
根元からは切らない。
先の方へ石を当てる。
ざり。
一度では切れない。
もう一度。
ようやく離れる。
自分が作った断面を見る。
繊維が潰れ。
端も少し荒れている。
さっきのものを見る。
滑らかだ。
「やっぱり違う」
もう一度。
自分の切り口。
見つけた切り口。
比べる。
「…………」
石の刃なら。
少なくとも俺の石では。
同じようには切れない。
動物が噛んだ。
風で折れた。
何かに挟まった。
考える。
でも。
二本とも。
噛み千切ったようには見えない。
折れたところにしては、繊維が乱れていない。
もちろん。
俺は動物の歯の跡に詳しくない。
植物の折れ方だって、全部知っているわけではない。
それでも。
「……これ、自然に折れたんじゃないよな」
声が小さくなる。
前の一本。
白い根の近くの、整った掘り跡。
そして。
ここにある二本。
頭の中で並ぶ。
別々のものかもしれない。
同じ原因だと決める理由もない。
それでも。
最初に見つけた時より。
偶然だと思いにくくなった。
ハクアが切れた草の周りを嗅ぐ。
そのあと。
顔を上げた。
鼻が森の方を向く。
「……また匂うのか?」
以前。
細い流れを渡った時。
ハクアは西寄りの森へ長く鼻を向けていた。
あの時も、唸らなかった。
毛を逆立てもしなかった。
今日も同じだ。
警戒しているようには見えない。
ただ。
何かを確認している。
「前と同じ?」
聞いても答えはない。
ハクアはしばらく鼻を動かし。
少し離れた地面を嗅いだ。
それから。
割れ岩の近くへ戻ってくる。
「…………」
俺も立ち上がる。
森を見る。
木々。
影。
下草。
何も見えない。
誰かが立っているわけでもない。
動物の姿もない。
音も。
いつもの森と変わらない。
何が切ったのか。
何が掘ったのか。
ハクアが何の匂いを嗅いでいたのか。
何一つ分からない。
「何なんだろうな」
気にはなる。
正体が分からないものだから。
少し怖くもある。
でも。
ここで追う気にはならなかった。
切れた草の先。
ハクアが鼻を向けた方向。
そこへ進めば、何か分かるかもしれない。
でも。
「行かないぞ」
ハクアを見る。
白い耳がこちらを向く。
「今日は割れ岩までだからな」
昨日も。
今日も。
そのつもりで来た。
分からないものを見つけたからといって。
予定を変えて追いかける必要はない。
「覚えておけばいい」
場所を見る。
割れ岩の右側。
少し離れた下草。
滑らかに切れた二本。
その近くに。
根元の曲がった木。
「ここ」
頭に残す。
切れた草には触らない。
持ち帰りもしない。
そのままにしておく。
「帰るぞ」
ハクアがもう一度だけ森へ鼻を向けたあと。
こちらへ戻った。
割れ岩の正面へ出る。
中央の亀裂。
昨日は。
ただ大きく割れた岩だと思っていた。
今日も岩そのものは変わらない。
その向こうに。
知らない森が続いていることも同じだ。
「また来ればいいか」
何かを追うためではない。
ここまでなら。
もう帰ってこられる。
次に来た時。
同じ跡があるのか。
増えているのか。
消えているのか。
それを見てもいい。
急いで答えを出す必要はない。
割れ岩を背にする。
来た道へ戻る。
小石が減る。
地面が少し湿ってくる。
やがて。
水音。
「もうすぐ」
木々の間に細い流れが見えた。
渡れる根もすぐに見つかる。
「ここ」
ハクアが先に渡る。
俺も続く。
片足を根へ乗せる。
一歩。
もう一歩。
向こう岸へ降りる。
「よし」
水の跡を戻る。
白い根の場所へ来た時。
少しだけ足が止まった。
以前見つけた整った掘り跡の方を見る。
今は崩れている。
形も薄れている。
「これも……」
草の切り口。
掘った跡。
今日見たもの。
やっぱり。
気になる。
でも。
「分からないままか」
今はそれでいい。
進む。
湿った場所を抜ける。
少しずつ地面が上がる。
苔が減る。
根や石が増える。
頬へ。
弱い風。
「高いところ」
着いた。
そこで一度、振り返った。
木々の向こう。
割れ岩は見えない。
細い流れも。
湿った場所の奥も。
それでも。
場所は分かる。
「あそこまでなら戻れる」
昨日一度。
今日もう一度。
同じ道を歩いた。
割れ岩へ行き。
そこから帰る。
ハクアに道を選んでもらったわけではない。
偶然歩いていたら着いたわけでもない。
自分で。
そこまでの場所をつないで。
行って。
帰った。
「…………」
最初は。
拠点の周りだけだった。
湧き水。
池。
近くの岩場。
それから。
西側の岩場の先へ少し出た。
あの時は。
一本の木を見つけるだけで安心して。
似た木を見つければ不安になって。
少し分からなくなれば。
最後に確実だったところまで戻った。
今は。
高いところを越え。
湿った場所を歩き。
白い根の場所を通り。
水の跡を追い。
細い流れを渡って。
その先の割れ岩まで行ける。
「前よりは広いな」
俺が知っている森。
俺が自分で帰ってこられる範囲。
少なくとも。
少しだけ広くなっていた。
でも。
割れ岩の先は知らない。
細い流れがどこから来るのかも。
どこへ行くのかも分からない。
湿った場所の全部を歩いたわけでもない。
高いところの先が、他にどこまで続いているのかも知らない。
森全体から見れば。
俺が歩いた場所なんて。
たぶん。
ほんの一部だ。
「帰るか」
高いところを下りる。
西側の岩場。
その先。
拠点へ。
木々の間から空き地が見えてきた。
「戻った」
いつもの倒木。
雨避け。
火。
乾かしているもの。
置いてある石。
短い紐でまとめた枝。
昨日と変わらない。
「ただいま」
声に出す。
ハクアは俺より先へ出て。
いつもの場所へ向かった。
「はい、お前はそこな」
白い身体が伏せる。
俺は水を飲む。
荷物を置く。
火を見る。
それから。
地面に描いた線の前へ座った。
「さて」
枝を拾う。
拠点。
西側の岩場。
そこから先。
以前は。
細い線しかなかった。
今は。
「ここから上る」
少し高いところ。
「反対へ下る」
湿った場所。
「この辺に」
切れにくい草。
白い根。
「低い方」
水が通った跡。
その先。
「細い流れ」
沢。
その横に。
「渡れる根」
さらに向こうへ。
線を伸ばす。
「ここ」
大きな印。
中央に一本。
「割れ岩」
一つずつ。
今日歩いた順番と同じようになぞる。
「ここまでは合ってる」
枝を止める。
割れ岩の先。
何も描かない。
昨日と同じ。
空白だ。
「…………」
その横へ。
小さな印を一つだけ足した。
滑らかに切れていた草。
忘れないための印。
何が残したものかは書けない。
分からないからだ。
「これでいいか」
枝を置く。
少し離れて。
地面を見る。
拠点から。
割れ岩まで。
線がつながっている。
高いところ。
湿ったところ。
水。
植物。
歩ける場所。
渡れる場所。
一つずつ。
自分で見てきたものだけが残っている。
その先は。
空白。
まだ知らない森。
最初と同じだ。
森には。
分からない場所の方が多い。
ただ。
空白が始まるところは。
前より少しだけ遠くなった。
近くで。
ハクアが伏せている。
俺は地図を見る。
割れ岩の横の小さな印。
滑らかな切り口。
整った掘り跡。
ハクアが気にした匂い。
何なのか。
まだ分からない。
人がいる。
そう決められるものもない。
知らない動物かもしれない。
俺が知らないだけで。
自然にできる跡なのかもしれない。
でも。
「また見ればいいか」
今は。
それでいい。
俺が分かるようになったのは。
森の全部じゃない。
西側の岩場の先。
高いところを越え。
湿った場所を通り。
細い流れを渡り。
割れ岩へ行って。
ここへ帰ってこられること。
それだけだ。
地面の線を。
もう一度見る。
「……まだ、ほんの少しだな」
第五章 「森を少しだけ広く」 了
第70話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
もう一度同じ道をたどり、割れ岩まで行って、同じ道で帰る。
第五章で少しずつ覚えてきた場所が、「一度行った場所」から「自分で行って帰ってこられる場所」へ変わりました。
そして割れ岩の近くには、これまでにも見つけたものと似た、滑らかな植物の切断跡が残されています。
何が残したものなのかは、まだ分かりません。
第五章「森を少しだけ広く」完結です。




