第69話 今日はここまで
第69話です。
細い流れの向こうには、まだほとんど歩いていない森があります。
今日は、渡った先をもう少しだけ進んでみます。
朝の支度を終え、いつものように火の周りを確認する。
乾かしている草。
短い紐でまとめた枝。
丸い石で押さえた植物。
沢の砂を混ぜた土の欠片。
少しずつ増えたものを見てから、立ち上がった。
「行くか」
ハクアも体を起こす。
今日は何かを採りに行くわけではない。
白い根も、砂も、今は足りている。
目的は、細い流れの向こう側だった。
西側の岩場を越える。
そこから、少しずつ高くなっていく地面を進む。
最初にこの辺りへ来た時は、何度も立ち止まった。
木の形を見て。
倒木を確認して。
戻る方向を振り返って。
少しでも分からなくなれば、前に置いた目印を探した。
今も目印は見る。
ただ、それだけではなくなっている。
地面が少しずつ上がる。
苔が減る。
根や小石が増える。
風が少し通る。
「高いところ」
口にする前から分かっていた。
緩い尾根へ出る。
そこから反対側へ下れば、今度は土が湿り始める。
苔が増え、下草が濃くなる。
足元の柔らかいところを避けながら進むと、切れにくい草の生えている場所が見えた。
さらに先には白い根。
その辺りから、水が通った跡が低い方へ続いている。
「ここも、もう迷わないな」
ハクアは少し前を歩き、時々こちらを振り返っていた。
「今日はちゃんとついてってるだろ」
白い耳が前を向く。
「前よりはな」
水の跡をたどる。
寄った落ち葉。
細かな砂。
倒れた草。
やがて、聞き慣れてきた水音が近づいてきた。
木々の間に、細い流れが見える。
「着いた」
ここまで来るのに、前ほど時間はかからなかった気がする。
実際にどれくらい違うのかは分からない。
ただ、立ち止まる回数が減っていた。
流れの脇へ行く。
水は変わらず浅い。
砂と小石の間を抜け、根の下を曲がりながら流れている。
昨日まで何度も見た場所だ。
少し横へ進む。
「ここだな」
流れを横切る太い根。
前に渡った場所。
表面を手で触る。
昨日と大きく変わっていない。
湿ってはいるが、滑りそうな感じもない。
ハクアは待つこともなく、先に向こう側へ渡った。
「分かってたよ」
片足を根へ乗せる。
体重を少しずつ移し、一歩進む。
水が足元を流れていく。
もう一歩。
最後に向こう岸へ足を置いた。
「よし」
振り返る。
帰りもここを使えばいい。
まず、それを確認する。
流れ。
横切る根。
少し曲がった木。
岸の近くに出ている大きな根元。
「これなら戻れるな」
前に来た時は、ここからほんの少し周囲を見ただけだった。
ハクアが森の奥の匂いを気にしたこともあり、それ以上は進まなかった。
今日は、その先を見てみる。
「遠くまでは行かないぞ」
ハクアを見る。
「少しだけな」
白い姿が歩き始めた。
俺も後ろから進む。
向こう岸も、最初は湿った場所とあまり変わらない。
下草。
苔。
濡れた土。
ただ、流れから離れるにつれて、少しずつ地面が固くなっていく。
歩くたびに沈む心配はなくなった。
「こっちは歩きやすいな」
完全に乾いているわけではない。
落ち葉の下には湿り気がある。
それでも、湿った場所の中心ほど足元を選ばなくても進める。
少し先でハクアが止まった。
何かあるのかと思ったが、地面の匂いを嗅いだだけでまた歩き始める。
「今日はあっち気にしないな」
前に長く鼻を向けていた森の方を見る。
特に何も見えない。
音も変わらない。
「いなくなったのか、最初からいなかったのか」
匂いだけだった。
今も答えはない。
そのまま進む。
流れの音は、少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
何度か振り返る。
木々に隠れて、もう水面は見えない。
ただ、戻る方向は分かる。
「まだ大丈夫」
進む。
大きな変化はない。
木。
下草。
倒木。
露出した根。
森はずっと同じように続いている。
それでも、地面には少しずつ違いがあった。
流れの近くより乾いている。
小石が少し増えている。
ところどころ、地面から大きめの石も顔を出していた。
「岩が増えてきた?」
しゃがむほどではない。
歩きながら見る。
手のひらより大きなもの。
土に半分埋まったもの。
苔に覆われたもの。
どれも特別変わった石には見えない。
さらに少し進んだ。
その時。
木々の向こうに、暗い色が見えた。
「……ん?」
太い木の幹とは違う。
もっと横に広い。
灰色に近い。
近づくにつれ、それが何なのか分かってきた。
「岩か」
足を止める。
目の前に、大きな岩があった。
拠点の近くにある岩場とは違う。
あちらは低い岩がいくつか集まり、周囲の地面から少し持ち上がっているような場所だった。
これは一つの大きな塊に見える。
近づく。
俺の背より、ずっと高い。
見上げなければ上まで見えない。
横にも広く、木と木の間を塞ぐように立っていた。
「でかいな」
灰色。
場所によっては、もっと暗く見える。
表面には苔が付き、その間に白っぽいものや薄い緑色のものも広がっていた。
長い間ここにあることだけは、何となく分かる。
「これ……」
少し横へ移動する。
そこで、岩の真ん中にあるものが目に入った。
縦に伸びる大きな亀裂。
上から下まで、ほとんど真っ直ぐに近い形で入っている。
「割れてるのか」
近づいて見る。
細いところもあれば、手が入りそうなくらい開いたところもある。
ただ。
中へ入れるほどではない。
奥に空間が続いているようにも見えなかった。
「洞窟じゃないな」
顔を近づける。
暗い隙間はあるが、その先はすぐ岩だった。
風が出てくるわけでもない。
動物が出入りしているような跡も見当たらない。
「ただ割れてるだけか」
岩の正面を歩く。
亀裂の左右で形が少し違う。
大きな一つの岩が途中から割れたようにも見えるし、最初から別の岩がくっついていたようにも見える。
俺に岩のことは分からない。
「割れた岩……割れ岩でいいか」
自分が覚えられれば十分だ。
表面へ手を当てる。
冷たい。
ざらついている。
苔のないところを見る。
灰色の石。
何かきらきらしたものが大量に混じっているわけでもない。
色の違う筋がはっきり走っているわけでもなかった。
「掘るようなものでもなさそうだな」
そもそも、掘る道具がない。
金属もない。
何か使えるものがあるかどうかを見分ける知識もない。
見たところ。
大きな岩。
それだけだった。
岩の端まで歩いてみる。
ハクアもついてくる。
「向こう、どうなってる?」
岩が森を完全に塞いでいるわけではない。
横を回れば、その先へ行ける。
少しだけ回り込む。
そこにも。
森があった。
木々が続いている。
下草。
倒木。
その先は見えない。
「まだあるのか」
どこまで行っても森。
高いところへ上った時も。
湿った場所を見つけた時も。
細い流れを渡った時も。
その先には森が続いていた。
ここも同じだ。
割れ岩の向こう側。
まだ歩いたことのない場所が、そのまま続いている。
「……」
少し進めば、また何か見つかるかもしれない。
別の植物。
違う地形。
もっと大きな水。
何か使えるもの。
それとも。
あの足跡を残した動物。
ハクアが気にしていた匂いの主。
何があるのかは分からない。
空を見る。
木々の間から差す光は、まだ十分明るかった。
日暮れまでは余裕がある。
少しくらいなら、先へ行けそうだった。
「もうちょっと……」
足を出しかける。
止まる。
後ろを見る。
割れ岩。
その向こうに、細い流れ。
さらに戻れば、湿った場所。
高いところ。
拠点。
ここまで来るのに。
今までより迷わなくなったとはいえ、それなりに歩いている。
この先へ進めば。
帰り道は、その分だけ長くなる。
知らない場所から戻る時間も増える。
「……今日はここまでにするか」
口にすると、少しだけ残念な気もした。
まだ進める。
体も疲れ切ってはいない。
明るさも残っている。
だからこそ。
戻れるうちに戻る。
何かに追われて帰るのではなく。
暗くなりそうだから慌てるのでもない。
「ここまででいい」
割れ岩を見る。
大きい。
目立つ。
次に来ても、見失いにくい。
ここを一つの終わりにすればいい。
今日は。
ここまで。
「ハクア、帰るぞ」
少し先へ行っていた白い姿が振り返った。
「そっちはまた今度だ」
ハクアがこちらへ戻ってくる。
その様子に少し笑う。
「お前はまだ行けそうだけどな」
白い尾が一度揺れた。
「俺は帰る」
割れ岩の前へ戻る。
もう一度、中央の亀裂を見る。
「目印にはちょうどいいな」
高いところとは違う。
湿った場所とも違う。
細い流れとも違う。
遠くからでも分かる、大きな目印。
場所を頭に残す。
割れ岩。
その手前に、少し根の出た木。
流れ側から来た時には、右手に苔の多い倒木がある。
帰る方向へ体を向ける。
今度は、来た道を逆にたどる。
地面の固いところ。
小石が増えていた辺り。
少し湿り始める場所。
やがて水音が聞こえてきた。
「戻れたな」
細い流れ。
少し横へ歩けば、渡れる根も見つかった。
位置を確認する。
「ここ」
ハクアが先に渡る。
俺も続いた。
片足を根へ乗せる。
一歩。
もう一歩。
向こう岸へ降りる。
「よし」
ここから先は、何度も歩いた場所だ。
水の跡を逆にたどる。
白い根。
湿った場所。
上り坂。
高いところ。
一度立ち止まり、後ろを振り返った。
もちろん、割れ岩は見えない。
細い流れも。
湿った場所の奥も。
木々に隠れている。
それでも、どこにあるのかは何となく分かる。
「向こうなんだよな」
最初にこの高い場所を見つけた時。
反対側は、何も知らなかった。
湿っていることも。
水があることも。
白い根も。
丈夫な草も。
砂も。
向こう岸に大きな岩があることも。
「結構増えたな」
ハクアがこちらを見る。
「いや、森は全然減ってないけど」
見えるのは木ばかりだ。
知らない場所の方が、ずっと多い。
それでも。
自分が歩いた場所は増えた。
帰る。
西側の岩場が見える。
その先。
拠点へ着いた時には、まだ木々の間に明るさが残っていた。
「ちゃんと帰れたな」
荷物はほとんどない。
今日は何も持ち帰っていない。
それでも、今までの探索とは少し違うものを持ち帰った気がした。
細い流れの向こう。
そこから少し進んだ先に。
割れ岩がある。
それだけ。
火を確認して、水を飲む。
少し休んでから、地面に描いた線の前へ座った。
高いところ。
湿った場所。
水の通った跡。
細い流れ。
渡れる根。
その先。
今までは、ほとんど空白だった。
枝を持つ。
「ここから少し進んで……」
線を伸ばす。
長くはしない。
正確な距離は分からない。
ただ、流れを渡ってからそれほど長く歩いてはいなかった。
その先に、大きめの印をつける。
中央へ一本、線を入れた。
「割れ岩」
自分で見れば分かる。
その先には何も描かない。
今日。
実際に見たのは。
岩の向こうにも森が続いているところまで。
だから。
そこから先は空白だ。
「まだこっちも続くんだよな」
枝を置く。
地面の線を見る。
拠点から始まり。
高いところ。
湿った場所。
細い流れ。
割れ岩。
線は以前より長くなっている。
でも、最後には空白が残っていた。
近くでハクアが伏せる。
「明日も行くかは……明日考えよう」
白い耳が一度動いた。
俺は割れ岩の印を見る。
今日は。
進めなかったわけじゃない。
自分で止めた。
それでいい。
森の先は、逃げない。
たぶん。
第69話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
細い流れを越え、その先で大きな割れ岩を見つけました。
まだ先へ進める時間は残っていました。
それでも、今日はそこを終わりにして、自分で引き返します。
知らない場所へ進むだけでなく、帰る場所まで戻れるところで止まることも、少しずつ身についてきました。




