第66話 細い流れ
第66話です。
水が通った跡の先から聞こえた、かすかな音。
今日は、その続きをたどります。
次の日、朝の支度を終えると、昨日歩いた場所へ向かった。
西側の岩場を越え、高いところを通って反対側へ下り、湿った場所へ入る。
ここまでは、もう何度も歩いている。
「今日は、その先だな」
ハクアが少し前を歩く。
白い根を見つけた場所を通り、昨日たどった浅い窪みへ向かった。
落ち葉が寄っている。
細かな砂もある。
草は同じ方向へ倒れていた。
「残ってるな」
昨日見たものを一つずつ確認しながら進む。
途中からは、記憶にある場所だ。
根の裏に溜まった砂。
枝が引っ掛かっていたところ。
そして、昨日引き返した辺り。
「ここからか」
足を止め、耳を澄ます。
昨日より分かりやすい。
葉の音に混じって、かすかに水の音が聞こえた。
「やっぱりあるな」
低い方、水の跡が続いている方向だ。
今日は、もう少し進む。
地面は相変わらず湿っている。
場所によっては靴底が少し沈むため、真っ直ぐ進まず、固いところを選んだ。木の根を使う時も、苔が濡れていないか確かめてから足を乗せる。
以前より進むのは楽になった。
湿った場所が歩きやすくなったわけではない。どこを避ければいいのか、少し分かるようになっただけだ。
「ここは駄目」
つま先で押した地面が柔らかい。
少し横へずれる。
「こっちは……大丈夫」
体重を乗せても沈まなかった。
ハクアはその先で待っている。
「お前は気楽でいいな」
白い耳がこちらを向く。
「いや、待ってくれてるのは分かってるけど」
ハクアが前を向き、そのまま進んだ。
少しずつ、水の音がはっきりしてくる。
今までは耳を澄まさなければ分からなかったが、歩いていても聞こえるようになった。
「近いな」
水の跡も変わっている。
浅い窪みが少し深くなり、細かな砂が増えていた。ところどころに、小さな丸い石も混じっている。
「石まである」
拾わずに眺める。
角があまりなく、泥の中に半分埋まっているものもあった。
さらに進むと、前方の木々の間に少しだけ光るものが見えた。
「……あれか?」
近づくにつれて、水の音が一段大きくなる。
最後の湿った地面を避け、太い根の脇へ出た。
そこで足が止まった。
「水だ」
森の中を、細い流れが通っていた。
広くはない。
向こう岸まで、一歩では届かないくらいだ。狭いところなら三十センチほどだろうか。少し広がった場所でも、一メートルあるかどうかに見える。
深さもない。
水の下には砂や小石が見えていて、深いところでも足首くらいにしか見えなかった。
「川ってほどじゃないな」
しゃがみ込む。
水はゆっくりというより、細く流れ続けている。
木の根を避け、小さな石の間を抜け、少し曲がりながら先へ続いていた。
「沢……なのかな」
正しい呼び方は分からない。
とりあえず、細い流れでいい。
昨日まで追っていた浅い跡を見ると、その先がこの流れの脇へつながっている。
「雨が降った時に、こっちへ流れ込むのか?」
湿った場所に溜まった水がここへ来るのか。それとも、この流れから水が広がることがあるのか。
まだ分からない。
流れの上を見る。
木の根と下草に隠れ、すぐ先で曲がっている。下流らしい方も同じで、少し先で木々の間へ消えていた。
「どこから来て、どこまで行くんだろうな」
今日はそこまで調べない。
まずは、この場所を見る。
水へ手を伸ばしかけて、止めた。
「……飲むのはなしだな」
見た目は澄んでいる。
底も見える。
嫌な匂いも、ここからでは感じない。
それでも、上流がどうなっているのかは分からない。動物もいる。湿った場所には、あの大きめの足跡も残っていた。
水が綺麗に見えることと、飲めることは別だ。
今は拠点近くの湧き水がある。わざわざ知らない水を試す理由はなかった。
「見るだけ」
自分に言い聞かせる。
ハクアは流れの脇へ行き、鼻を近づけていた。
「お前も飲むなよ」
顔が上がる。
「今日はな」
ハクアは水から離れた。
「……分かったのか?」
白い尾が一度動く。
たぶん、偶然だ。
流れに沿って少し歩く。
岸と呼ぶほど大げさなものではない。少し高くなった土の縁があり、その下を水が通っている。
泥。
砂。
小石。
露出した根。
「ここにも足跡あるな」
柔らかい泥の上に、形の崩れた跡が残っていた。
以前見たものに似ている。
大きさも近い。
一つだけではない。少し離れたところにもあった。
「やっぱり、この辺まで来てるのか」
動物が水を飲みに来るのかもしれない。流れを渡っている可能性もある。
足跡の近くには、草が倒れた場所もあった。
追わない。
どちらへ続いているかも、深くは見なかった。
「会わない方がいいな」
姿を知らない相手だ。
こちらから近づく必要はない。
さらに少し歩くと、一本の太い根が流れを横切っていた。
「お」
木の根元から伸びた根が、向こう側まで続いている。
流れの上へ橋のように出ていた。
完全に真っ直ぐではなく、表面には苔もある。それでも周囲より少し高く、水には浸かっていなかった。
「渡れそうだけど……」
すぐには乗らず、手で触る。
湿っている。
ただ、ぬるぬるするほどではない。
足を軽く乗せる。
滑らない。
少し体重をかけても、根は動かなかった。
「ゆっくりならいけるか」
ハクアは先に向こう側へ渡っていた。
根の上を使ったのかと思ったが、最後のところだけ軽く飛んだらしい。
「お前はそれができるよな」
俺は無理をしない。
根へ片足を乗せ、もう片方を近づける。両手は空けておいた。
一歩。
止まる。
もう一歩。
水が足元を流れている。
深くはない。
落ちても、たぶん大事にはならないだろう。でも、濡れた靴で長い帰り道を歩くのは嫌だった。
「あと少し」
向こう岸へ足を置く。
土は固い。
体重を移す。
「よし」
振り返る。
細い流れ。
その上を横切る根。
「ここなら渡れるな」
場所を覚えておく。
流れそのものだけでなく、渡れるところも大事だ。帰る時に別の場所を探す必要がなくなる。
向こう側は、こちらと大きく変わらない。
木々が続いている。
地面は湿っているが、水際から少し離れると比較的固い。
「少しだけ見るか」
流れから離れすぎない範囲で周囲を見る。
知らない場所だ。
今日は渡れたことを確認するだけでもいい。
何本かの木。
倒木。
下草。
その向こうは、また森だった。
「まだ続いてるな」
ここまで来ても、森は終わらない。
ハクアが少し前へ進んだ。
「遠く行くなよ」
白い姿が止まる。
ハクアの鼻が上を向いた。
「ん?」
いつものように地面を嗅ぐのではない。
顔を少し上げ、鼻を動かしている。
向いているのは流れの先でも、俺たちが来た方でもなかった。
もう少し西寄り、森の奥だ。
「何かいるのか?」
ハクアは答えない。
その方向を見たまま、何度か鼻を動かす。耳も少し前へ向いていた。
俺も見る。
木。
下草。
影。
特に何も見えない。
音もない。
「動物?」
以前見た足跡を思い出す。
あれを残したものかもしれない。別の何かかもしれない。
ハクアを見る。
唸ってはいない。
毛を逆立ててもいない。
飛び出そうとする様子もない。
ただ、いつもより少し長く匂いを嗅いでいる。
「……危ない感じじゃないのか?」
聞いても分からない。
俺に分かるのは、ハクアが何かの匂いを気にしているということだけだ。
「なら、行かない」
何の匂いか確かめるために森へ入るつもりはない。
今日は水を探しに来た。
細い流れを見つけた。
渡れる場所も見つけた。
それで十分だ。
「戻るぞ」
ハクアはもう一度だけ西寄りの森へ鼻を向け、それからこちらへ戻ってきた。
「何だったんだろうな」
答えはない。
根のところまで戻る。
帰りも慎重に渡った。
一歩。
止まる。
足元を確かめる。
最後に岸へ降りる。
「よし」
流れを振り返る。
水は変わらず流れている。
どこから来て、どこへ行くのかは分からない。
飲めるかどうかも分からない。
それでも、ここに水があること、渡れる場所があること、その周りを動物も使っているらしいことは分かった。
向こう側で、ハクアが何かの匂いを気にしたことも。
「今日は多いな」
覚えるものが増えた。
来た道へ戻る。
昨日追った水の跡を逆にたどり、白い根の場所を通る。
湿った場所を抜け、上り、高いところを越えて拠点へ戻った。
水を飲み、一息ついてから地面の線の前へ座る。
昨日描いた、水が通った跡。
その先を少し伸ばす。
「ここに……水」
細い線を横切るように、もう一本の線を描く。
太くしない。
池でもない。
大きな川でもない。
「細い流れ」
その横に、渡った場所を小さく印にする。
「根」
これで、次に行った時も同じ場所を探せる。
流れの先は描かない。
上も下も、まだ見ていない。
向こう岸も、今日歩いたほんの少しだけだ。
その先は空白のままだ。
「また増えたな」
高いところ。
湿った場所。
水が通った跡。
そして、細い流れ。
一つずつつながっていく。
ハクアが近くへ来て伏せた。
俺は枝を置く。
少し迷ってから、聞いた。
「さっき、何の匂いだった?」
白い耳が動く。
それだけだった。
「……まあ、分からないよな」
俺にも、ハクアが何を感じたのかまでは分からない。
ただ、あの方向に何かの匂いがあった。
今は、それだけ覚えておけばいい。
第66話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
水の跡をたどった先で、森の中を流れる細い流れを見つけました。
どこから来て、どこへ続いているのかは、まだ分かりません。
流れを渡った先でハクアが気にしていた、森の奥の匂いも同じです。




