第61話 切れない草
第61話です。
昨日見つけた、湿った場所。
今日は杖で足元を確かめながら、そこで見つけた簡単には切れない草を調べます。
翌朝、空き地を出る前に、俺は杖の先を地面へ何度かついていた。
「よし」
昨日、湿地で何度も地面の硬さを確かめた杖だ。
先にはまだ少し黒い泥が残っている。
「今日は最初から使うからな」
別に杖へ言い聞かせる必要はない。
それでも、昨日みたいに普通に見える地面へ足を置いて沈むよりはましだった。
石斧の固定も確かめる。
水も持った。
空を見る。
今のところ雨が来そうな感じはない。
「ハクア」
倒木の近くを見る。
白い身体はすでに起きていて、前脚を伸ばしていた。
「昨日のところ行くぞ」
耳がこちらを向く。
「今日は泥に足突っ込まない予定」
ハクアが立ち上がった。
「予定だからな。絶対とは言ってないぞ」
白い顔が一度こちらを見たあと、森へ向く。
「……何で先に言い訳してるんだろうな」
俺も歩き出した。
西側の岩場まで。
そこから緩く上る。
苔が減り、根や小石が増え、地面の表面が少し乾いてくる。
弱い風が頬へ当たる頃には、もう何度か来ている少し高い場所だった。
「ここ」
立ち止まる時間は短い。
反対側へ身体を向ける。
「で、こっちを下る」
昨日と同じ方向。
少し進めば苔が増え、土が湿り始める。
「分かりやすくなったな」
初めて来た時には、どこを見ても同じ森だった。
今は少し違う。
高いところ。
乾いた地面。
湿っていく下り。
一本の木を覚えていなくても、大まかな場所を考えられる。
「まあ、まだこの辺だけだけど」
森全部が分かるようになったわけではない。
少しだけ。
本当に、少しだけだ。
下る。
昨日より歩く速度を落とす。
苔の多い根には足を乗せない。
地面の色が暗ければ、先に杖をつく。
「ここは」
杖を押す。
少し沈む。
「横」
隣を確かめる。
今度は硬い。
「こっちなら大丈夫」
一歩進む。
昨日は、柔らかい地面と滑る根の両方に振り回された。
今日は最初から分かっている。
それだけでもかなり違った。
「慣れたって言うには早いけどな」
前を歩いていたハクアが、湿った地面を軽く踏んでいく。
「お前は昨日から普通だもんな」
白い耳が動く。
「こっちは色々考えてるんだよ」
ハクアはそのまま進む。
「聞いてないな」
昨日覚えた、幹の途中が大きく曲がった木が見えてくる。
「これ」
その少し先。
苔に覆われた太い倒木。
根元が二股に広がった木。
「合ってる」
湿地の外側へ戻ってきた。
昨日足を沈ませた辺りへ近づく。
「この辺だったな」
杖を出す。
柔らかい。
少し横。
そこも柔らかい。
「昨日より分かる」
見ただけでは判別しにくい。
それでも、苔の厚さや落ち葉の沈み方を意識すると、少し怪しいところは見えてくる。
「こっちは歩けそう」
湿地の奥へまっすぐ入るのではなく、外側を回る。
昨日、自分で決めた通りだ。
まず歩けるところ。
どのくらい広いのか。
何が生えているのか。
それを見る。
「…………」
少し進んで。
目の前へ細長い葉が入り込んだ。
「ん?」
手で避ける。
腰より少し高いくらいの草だった。
周囲にも何本か生えている。
特別目立つ色ではない。
湿地には昨日から色々な草が生えていたので、その時点では気にしなかった。
「邪魔だな」
横へ避けようとする。
茎が服へ引っ掛かった。
「あ」
そのまま一歩進んだせいで、茎が大きく曲がる。
「ごめん」
反射的に言ってから、足を止めた。
「…………」
草に謝ってどうする。
そう思ったが。
「切れてない?」
引っ掛かった茎を見る。
かなり曲がっている。
普通なら途中で折れてもおかしくなさそうなのに、まだつながっていた。
「強いな」
服から外そうと指でつまむ。
茎を少し曲げる。
「…………」
折れない。
さらに曲げる。
表面に筋が入り、ようやく一部が裂けた。
でも。
「まだ残ってる」
裂けた部分の中から、細い筋のようなものが何本も伸びていた。
「繊維?」
指で一本つまむ。
引く。
茎に沿って、縦へ裂けていく。
「お」
短く千切れるのではない。
かなり長くつながったまま剥がれてきた。
「これ……」
もう少し裂く。
表面の柔らかい部分と一緒に、細長い筋が残る。
「池のあれと似てる……」
口にしてから、止まる。
「いや、違うな」
池の近くで使ってきた葦に似た植物を思い出す。
あれも裂き、乾かし、撚って使う。
石斧の固定や棚の軽い結束にも使ってきた。
ただ。
「こっちの方が曲がる」
手の中の茎を見る。
池の植物とは、太さも葉の付き方も少し違う。
何より。
折ろうとしても、繊維が残って簡単には離れない。
「別の草だよな」
同じものが場所によって姿を変えただけ。
その可能性を完全に否定できるほど植物に詳しくはない。
けれど。
「見た感じは違う」
今はそれで十分だ。
食べるわけでもない。
毒があるかどうかを確かめたいわけでもない。
問題は。
「これ、使えるかな」
茎を指で擦る。
水分が多い。
表面も少し滑る。
でも中には長い繊維がある。
「紐に……」
そこまで言って、口を閉じた。
「いや、まだ早い」
裂けた。
繊維が長い。
簡単には切れない。
分かったのはそれだけだ。
撚れるとは限らない。
乾かしたら弱くなるかもしれない。
水に濡れれば駄目になるかもしれない。
「前もそうだったな」
知っている。
見た目が使えそう。
だから使える。
そんなに簡単ではない。
「持って帰って試せばいいか」
周囲を見る。
同じ草は、湿地の奥よりも少し地面の硬いところに多かった。
完全に乾いているわけではない。
それでも、昨日足が沈んだ場所ほど柔らかくない。
「外側に多い?」
一本。
二本。
その先にも。
まとまって一面に生えているわけではないが、探せば何本も見つかる。
「全部いらないな」
試すだけなら数本でいい。
まず一本。
根元近くを手で曲げる。
「…………」
曲がる。
さらに力を入れる。
「切れない」
繊維が残り、完全には離れない。
「やっぱ石か」
腰につけていた石片を取り出す。
茎へ当てる。
引く。
ざり。
「…………」
一回では切れない。
「固いっていうより、粘る?」
もう一度。
ざり。
三度目でようやく切れた。
「面倒だな」
切り口を見る。
潰れている。
細い繊維が何本も飛び出していた。
「でも、この残るやつが使えるかもしれないんだよな」
一本目を確保する。
二本目。
少し離れた株から採る。
同じところだけ切って減らす必要はない。
「これくらいならいいか」
三本目。
また石片を当てる。
「…………」
数回。
切れる。
「石だと綺麗には無理だな」
採った茎を見る。
どれも切り口は粗い。
潰れていたり、裂けた繊維が出ていたりする。
「まあ、使うならこの辺は取るだろうし」
茎をまとめる。
「四本……」
もう一本くらい。
そう考えて周囲を見た時だった。
「…………ん?」
少し離れた一本が目に入った。
他と同じ草。
でも。
「短い?」
近付く。
根元から生えている茎が、途中でなくなっていた。
折れたのだと思った。
湿地だ。
動物が踏むこともあるだろう。
風で倒れることだってある。
「…………」
しゃがむ。
切れている場所を見る。
「何だこれ」
茎の先。
断面が見えている。
さっき俺が石で切ったものとは違った。
「…………綺麗だな」
顔を近付ける。
自分が切った茎を横へ持ってくる。
比べる。
俺の方は。
潰れている。
繊維が飛び出している。
少し斜めになっている。
目の前の一本は。
「平ら?」
完全な平面かどうかなんて測れない。
それでも。
俺の石片で切ったものより、ずっと滑らかに見える。
「折れたにしては、綺麗だな」
指先を近付ける。
触れる前に止める。
「…………」
別に毒があると思ったわけではない。
ただ。
何となく、そのまま見た方がいい気がした。
折れた。
噛まれた。
何かに擦れた。
「どれだ?」
周りを見る。
この草だけだ。
少し離れたところには普通に伸びたものがある。
倒れた草もない。
大きく踏み荒らされたようにも見えない。
「動物が噛んだとか?」
断面を見る。
「…………分からないな」
動物が噛んだ茎を詳しく見比べた経験なんてない。
歯の形によっては、綺麗に切れることもあるかもしれない。
硬いものが何かの拍子に当たっただけかもしれない。
「一本だけだし」
それ以上の答えは出なかった。
ハクアを見る。
少し離れたところで、地面の匂いを嗅いでいる。
「ハクア」
白い顔が上がった。
「これ、何だと思う?」
当然答えはない。
「だよな」
ハクアはこちらへ来るわけでもなく、また地面へ鼻を向けた。
「気にしてない?」
耳が一度動く。
「それだけじゃ分からないか」
以前、ハクアが森の何かへ反応して立ち止まった時のことを思い出す。
ハクアが反応しないから安全。
ハクアが気にするから危険。
そう決めないようにしている。
今回も同じだ。
「分からないなら、そのまま覚えとけばいいか」
もう一度だけ断面を見る。
自分が石片で切った茎と。
滑らかな一本。
「違う」
それだけは分かる。
原因は分からない。
「まあ、今日は草の方だな」
採った数本を見る。
切断面のことだけを考えて、周囲を探し回るつもりはなかった。
今までだって、森には分からない痕跡がいくつもあった。
一個見つけるたび全部追っていたら、いくら時間があっても足りない。
「帰る時間もあるし」
空を見る。
まだ日が傾くほどではない。
それでも、ここから高いところまで上り、岩場を越えて拠点へ戻るには時間がかかる。
「今日はこれでいい」
採った茎を数える。
一。
二。
三。
四。
「四本あれば試せるだろ」
根元から抜いたものはない。
周囲にはまだ同じ草が残っている。
「次に来てもある」
それも大事だった。
何かを見つけるたび全部持って帰れば、そのうち何もなくなる。
どれくらい増える植物なのかも知らない。
「少しだけ」
今はそれでいい。
「帰るぞ、ハクア」
白い耳がこちらを向く。
俺が来た方向へ歩き出すと、ハクアも少し遅れてついてきた。
湿地の外側を戻る。
杖で柔らかいところを確かめ。
苔の多い根を避ける。
「ここ」
昨日沈んだ辺り。
今日は足を入れない。
「ちゃんと覚えてる」
少し嬉しい。
何でもない地面だ。
でも、昨日失敗した場所を今日は避けられた。
「こういうのでいいんだよな」
一回失敗して。
次に少し変える。
それを続ける。
湿った場所を抜けると、足元が徐々に硬くなった。
苔が減る。
根や石が目立ち始める。
「上り」
もう迷わない。
しばらく進む。
弱い風。
「高いところ」
立ち止まり、振り返る。
下った先。
木々に隠れて湿地そのものは見えない。
でも。
「あっち」
分かる。
その中に。
今日見つけた草もある。
「湿ったところの外側に、切れない草」
頭の中へつなげる。
それから拠点側へ下る。
西側の岩場。
いつもの森。
空き地。
「ただいま」
戻ると、ハクアは俺より先に倒木の近くへ向かった。
「今日もそこか」
白い身体がいつもの場所へ伏せる。
「俺はこっち」
持ち帰った茎を作業面へ置く。
改めて見ると長い。
一本ずつ伸ばせば、俺の腰から胸の辺りまで届くものもある。
「結構でかかったんだな」
湿地では周囲の草も多かったせいで、そこまで意識していなかった。
一本を持ち上げる。
少し重い。
「水分多いな」
茎を軽く曲げる。
やっぱり折れにくい。
「これなら……」
紐。
結束。
何かを束ねる。
色々考えられる。
「だから、まだ早いって」
自分で止める。
まずは。
今の状態でどうなるか。
少し乾いたらどうなるか。
裂いたものはどうなるか。
「明日だな」
今日は採ってきただけでいい。
火のすぐそばへ置けば急に乾きすぎるかもしれない。
なので雨避けの下でも、火から少し離れた場所へ茎を置く。
「とりあえずここ」
地面へ直接置かず、余っている細枝の上へ渡す。
「勝手に乾く分には仕方ないけど」
どのくらい変わるのか。
それを見る。
それから。
地面の簡略地図へ向かった。
「高いところ」
枝でなぞる。
反対側へ下る。
「湿地」
昨日つけた印。
その少し外側。
「この辺」
小さな線を一本加える。
「丈夫な草」
何て呼ばれている草なのかは分からない。
知っている人が近くにいるわけでもない。
「切れない草、くらいでいいか」
今の俺が見分けられれば、それで十分だ。
枝を置く。
「…………」
頭の中に。
もう一つだけ残っているものがあった。
あの一本。
滑らかな切り口。
「何だったんだろうな」
折れたにしては綺麗だった。
俺が石で切ったものとも違った。
でも。
それだけだ。
誰かが切った。
何か特別なものがある。
そんな答えを出せるほどの材料は何もない。
「また見つけたら、その時考えるか」
一度だけなら偶然かもしれない。
違う原因かもしれない。
今は決めない。
作業面の上に置いた草を見る。
「こっちは明日」
触って。
裂いて。
乾き方を見て。
使えるかどうかを確かめる。
ハクアを見る。
「またやること増えたな」
白い耳がこちらへ向いた。
「森広げたら、物も増えるんだな」
別に大きく広がったわけではない。
拠点から歩いて。
岩場を越えて。
少し高いところを越えて。
湿った場所まで。
それだけだ。
それでも。
昨日までは泥しか持ち帰らなかった場所から。
今日は新しい草を持って帰ってきた。
「使えるかは、まだ分からないけど」
俺は一本の茎を指先で持ち上げる。
曲げても。
簡単には折れない。
「明日、試してみるか」
火の向こうで、ハクアの白い尾が一度だけ動いた。
第61話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
湿地の外縁で見つけたのは、曲げても簡単には折れず、縦に裂ける草でした。
主人公は何本かを持ち帰り、乾かして使えるか確かめることにします。
そのそばには、自分の石片で切ったものとは違う、滑らかな切り口も残されていました。
何が切ったのかは、まだ分かりません。




