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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第五章「森を少しだけ広く」

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第60話 下った先

第60話です。


帰るための基準にできる場所が一つ増えたので、今日はその反対側へ。


高いところから南西へ下り、これまでとは少し違う森へ足を踏み入れます。

 翌朝。


 昨日描き直した地面の地図を見ながら、俺は枝の先を高い場所の印へ置いた。


「ここまでは大丈夫」


 西側の岩場。


 その先を少しずつ上り、苔や下草が減って、根と石の多い場所へ変わっていく。


 そして、風が少し通る高いところ。


 昨日はそこまで行き、自分で戻ってきた。


 枝を、その反対側へ動かす。


「今日はこっち」


 短く描かれた下り。


 その先は何もない。


「どこまで行くかは……」


 少し考える。


「行ってから決めるか」


 ただし、昨日までと同じだ。


 先へ進めるから進むのではなく、帰れるうちに戻る。


 高いところまで戻れれば、そこから先は分かる。


「まず、あそこを見失わないこと」


 枝を置いて立ち上がる。


 石斧。


 杖。


 水。


 一通り確認する。


「ハクア」


 倒木の近くにいた白い姿が顔を上げた。


「今日は向こう側、下りてみるぞ」


 指で南西側を示す。


 もちろん、ここから見えるわけではない。


 それでもハクアは立ち上がった。


「来る?」


 白い身体がこちらへ歩いてくる。


「じゃあ行くか」


 森へ入る。


 西側の岩場までは、もうかなり慣れた。


 以前なら一つずつ探していた目印も、今では歩いている途中に自然と見つかる。


「ここ」


 斜めに伸びた木。


「次」


 少し石の多い地面。


 そして。


「岩場」


 木々の間に灰色が見える。


「ここまでは早くなったな」


 ハクアが少し前へ出る。


 俺も続く。


 岩場を越え、まだ湿り気のある森を進む。


 二股の木。


 倒木。


 幹の剥がれた木。


 三つの石。


 以前なら、それらを見つけるたび足を止めていた。


 今日は確認だけして歩き続ける。


 やがて地面が少しずつ上がり始めた。


「ここから」


 苔が減る。


 下草が減る。


 土の表面が乾いてくる。


「合ってる」


 根と小石が増える。


 頬へ弱い風が当たった。


「そろそろ」


 傾きが緩くなる。


 数歩進む。


「着いた」


 少し高いところ。


 昨日と同じ場所だ。


 相変わらず、周りには木しかない。


「今日も景色は変わらないな」


 そう言いながらも、もうここがどこなのか迷わない。


 高いところ。


 拠点側から来れば、上りの終わり。


 そして。


 反対側へ進めば。


「下り」


 足元を見る。


 昨日、少しだけ確認した方向。


 そこから先へ今日は進む。


「まず」


 振り返る。


 帰る方向を確認する。


「こっちへ戻ればいい」


 目印になる木だけではなく。


 乾いた地面。


 少ない苔。


 露出した根。


 それから、傾きがなくなる場所。


「よし」


 身体を南西側へ向ける。


「行くぞ」


 ハクアは少し先へ出た。


「今日は俺もそっちだからな」


 白い尾が軽く動く。


 下り始める。


 最初は、本当に緩い坂だった。


 急な場所ではない。


 杖を使わなくても普通に歩ける。


「思ったより楽だな」


 昨日上ってきた側と、大きな違いはないように見える。


 木。


 落ち葉。


 根。


 土。


 どこまで行っても森だ。


 ただ。


「…………」


 しばらく歩いて。


 俺は一度足を止めた。


「苔」


 木の根元を見る。


 高いところではかなり減っていた苔が、また増えている。


「こっちも」


 倒木。


 表面に緑色が広がっていた。


「下草も増えてるな」


 少し先には、膝より低い草が密に生えている。


「上ってきた時の逆か」


 高い場所へ向かうほど乾き。


 こちらへ下るほど。


「湿ってくる?」


 しゃがんで土へ触れる。


「…………」


 指先へ黒っぽい土がついた。


 さっきまでより柔らかい。


「やっぱり」


 少しだけ湿りが強い。


 昨日見た変化と反対だった。


「高いところから下りてるから……」


 言いかけて止める。


「まあ、そうとは限らないか」


 低いところ全部が湿っているわけではないだろう。


 土の種類。


 木の生え方。


 水の通り道。


 他にも理由はあるかもしれない。


「でも、今は変わってるって分かればいい」


 立ち上がる。


 先へ進む。


 ハクアが少し前で地面の匂いを嗅いでいた。


「そっちも何か違う?」


 白い耳が動くだけだ。


「まあいいか」


 また歩く。


 少しずつ、足元の落ち葉が厚くなった。


「…………」


 踏む。


 柔らかい。


 乾いた落ち葉が積もった時の軽さとは違う。


 下に湿ったものが詰まっている感触がある。


「腐葉土……かな」


 前の世界でも聞いたことはある。


 落ち葉や枝が積もって、時間をかけて崩れたもの。


「たぶん」


 杖の先で軽く地面を押す。


 ずぶ、とまではいかないが、簡単に沈んだ。


「柔らかいな」


 それでも歩けないほどではない。


 ハクアも普通に進んでいる。


「これなら大丈夫か」


 一歩。


 もう一歩。


 少し大きな木の横を回る。


 地面は普通に見えた。


 落ち葉。


 薄い苔。


 何も変わらない。


 そこへ右足を置いた。


「っ」


 足が沈んだ。


「うわ」


 思わず杖へ体重をかける。


 靴底だけではない。


 足の縁まで、柔らかい土へ沈み込んでいた。


「…………」


 慌てて足を抜く。


 べちゃ、と湿った音がした。


「何だここ」


 地面を見る。


 見た目は、その少し前まで歩いていた場所と大して変わらない。


「こんなに柔らかいのか」


 杖で同じ場所を突く。


 簡単に沈む。


「うわ……」


 もう一度。


 ずぶ。


「これ、足から行ったら危ないな」


 深い穴というわけではない。


 泥沼みたいに腰まで沈むこともなさそうだ。


 それでも、何も考えず足を置けば、靴ごと取られるくらいには柔らかい。


 右足を見る。


「…………汚れたな」


 泥が靴の側面までついている。


「まあ、洗えばいいか」


 問題はそこではない。


 前を見る。


 同じような地面が続いている。


「見ただけじゃ分からないところもあるのか」


 杖を一歩先へつく。


 硬い。


「ここは大丈夫」


 その横。


 柔らかい。


「ああ」


 これなら。


「先に確かめればいいのか」


 一歩ごとに全部突く必要まではない。


 ただ、地面の色が暗い場所。


 苔が厚いところ。


 落ち葉が妙に沈んでいるところ。


 そういう場所は杖を先に出す。


「歩き方変えないとな」


 高いところまでは。


 石や根を踏まないよう、足元を見ていた。


 ここでは。


 地面そのものが沈むかもしれない。


「同じ森なのにな」


 少し笑う。


「見るところ増えるな」


 ハクアは数歩先でこちらを見ていた。


「お前は沈まないの?」


 白い身体は俺より軽い。


 足の形も違う。


「ずるいな」


 もちろん、ハクアのせいではない。


 歩き出す。


 今度は少し慎重に。


 杖。


 足。


 杖。


 足。


「ここ」


 硬い。


「こっちは」


 柔らかい。


 少し避ける。


 しばらく進むと、木の根が地面の上へ出ている場所があった。


「ここなら沈まないか」


 根の横へ足を置く。


 次。


 苔のついた根を踏んだ。


「っ」


 靴底が滑った。


「うわっ」


 身体が横へ傾く。


 慌てて杖をつき、近くの幹へ手を当てる。


「…………」


 止まった。


「危な」


 息を吐く。


 根を見る。


 表面には濃い緑色の苔がついている。


「これ、滑るのか」


 さっきまで地面へ沈まないよう根の近くを選んでいた。


 今度は、その根自体が滑る。


「どっちだよ」


 思わず言う。


 ハクアがこちらを見ている。


「いや、お前はいいよな。そういう足で」


 耳が動く。


「俺が下手なだけ?」


 白い顔が前へ戻った。


「…………」


 否定してほしかった。


 もう一度、足元を見る。


「沈むところを避けて」


 でも。


「苔の根は踏まない」


 完全に避けられない時は。


 足の裏全体を乗せず。


 ゆっくり。


 体重を一気にかけない。


「こう?」


 試しに、苔の少ない太い根へ足を置く。


 杖を先につき。


 体重を少しずつ移す。


「…………」


 滑らない。


「これなら」


 一歩。


 もう一歩。


 少し楽になった。


「速く歩こうとしなきゃいいんだな」


 知らない場所なのだから。


 急ぐ理由はない。


 歩く速度を落とす。


 足を置く場所を決めてから動く。


 地面が柔らかいなら避ける。


 根が滑りそうなら、その横へ。


「…………」


 さっきまでより遅い。


 でも。


「こっちの方がいい」


 転びそうになるよりずっといい。


 進むにつれ。


 周囲の湿り気はさらに強くなってきた。


 木の幹にも苔が増えている。


 倒木の下には、湿った黒い土。


 下草も高い場所よりずっと多い。


「結構違うな」


 空気まで少し重く感じる。


 気のせいかもしれない。


 それでも、高い場所で頬へ当たっていた風はほとんど感じなくなっていた。


「風も減った?」


 木々の上を見る。


 葉は時々揺れている。


 でも、地面近くの空気はあまり動いていない。


「…………」


 歩く。


 柔らかい地面。


 厚い落ち葉。


 苔。


 湿った土。


 ところどころに浅い窪み。


「これ」


 足を止める。


 少し先。


 地面の低い部分に、水が溜まっていた。


「水溜まり?」


 大きくはない。


 数歩で回り込めるくらい。


 表面には落ち葉が浮いている。


「雨、最近そんなに降ってないよな」


 雨が降った後なら、拠点周辺にも小さな水溜まりはできる。


 でも、ここは。


 周りの地面そのものが湿っている。


「…………」


 別の方向を見る。


 少し離れたところにも、黒く濡れた地面。


 さらにその先にも。


「一か所じゃない」


 しゃがむ。


 杖を地面へつく。


 柔らかい。


「この辺全部、湿ってる?」


 周囲を見る。


 高いところから下ってきた。


 苔が増えた。


 下草が増えた。


 土が柔らかくなった。


 足が沈んだ。


 水溜まりもある。


「…………」


 池とは違う。


 池なら、はっきり水面がある。


 岸があり、その先は水だ。


 ここは。


「森のままなんだよな」


 木が生えている。


 草もある。


 普通に歩ける場所もある。


 ただ。


「地面がずっと湿ってる」


 杖を別の場所へつく。


 そこも少し沈む。


「湿地……ってやつ?」


 前の世界で聞いた言葉を思い出す。


 沼。


 湿原。


 湿地。


 違いを詳しく説明できるほど知っているわけではない。


「でも、池じゃない」


 それだけは分かる。


 ずっと水に覆われている場所ではない。


 木々のある森の中。


 地面の水分が多くて。


 場所によっては足が沈む。


「森の中にもこういう場所あるんだな」


 立ち上がる。


 少しだけ周囲を見てみたくなる。


 どこまで続いているのか。


 どのくらい広いのか。


 水がどこから来ているのか。


 昨日聞いた気がした音と関係があるのか。


「…………」


 考える。


 そして。


「今日はやめとくか」


 ハクアを見る。


 白い身体は少し先の比較的乾いたところに立っている。


「ここまで」


 今いるのは、湿っている場所の端に近い。


 まだ奥へ大きく入り込んでいない。


 帰り道も、さっき歩いたばかりだ。


「湿ってる場所を見つけた」


 それで今日は十分。


「明日また来ればいい」


 もう少し先まで確かめるなら。


 足元が滑ることを分かったうえで来た方がいい。


「それに」


 空を見る。


 木々に隠れて太陽は見えにくい。


 でも、朝からそれなりに時間が経っている。


 高いところまで戻り。


 そこから拠点へ帰ることを考えれば。


「今くらいでちょうどいいか」


 杖で、自分が立っている場所の近くを見る。


「目印……」


 特徴的な木を探す。


 少し先に、根元が二股に大きく広がった木がある。


 その横には、苔に覆われた太い倒木。


「これと」


 地面。


 浅い水溜まり。


「こっちは変わるかもしれないな」


 雨が降れば広がる。


 乾けば消えるかもしれない。


「木と倒木」


 それだけでは弱い。


 少し戻る。


「あ」


 下ってきた方向に。


 幹の途中が大きく曲がった木があった。


「これ」


 曲がった木。


 その先を下ると。


 苔の太い倒木。


 二股の根元。


「これなら」


 帰り側からも見えるか確かめる。


「…………」


 少し位置を変える。


「見える」


 頭に入れる。


「よし」


 ハクアへ声をかける。


「帰るぞ」


 白い耳が動く。


「今日はここまで」


 来た方向へ歩き始める。


 帰りは。


 行きより少しだけ楽だった。


「ここ柔らかかった」


 覚えている。


 足を置かず、横を通る。


「この根は滑る」


 苔の多いところを避ける。


 別の地面へ杖をつく。


「大丈夫」


 歩く。


 それでも一度、靴が少し沈んだ。


「うわ」


 今度は慌てない。


 杖へ体重を預け、ゆっくり足を抜く。


「…………」


 泥がつく。


「帰ったら洗うか」


 また進む。


 湿った場所から少し離れるにつれ。


 地面が変わり始めた。


「硬くなってきた」


 杖が沈みにくい。


 苔はまだ多い。


 でも。


「下草、ちょっと減った?」


 振り返る。


 後ろは。


 深い緑。


 湿った黒い地面。


 前は。


 少しずつ乾いた色へ戻っていく。


「分かるな」


 地形そのものだけではない。


 そこに生えているものや、土の状態も一緒に変わっている。


「湿った方へ下った」


 その逆へ戻る。


「乾いた方へ上る」


 しばらく歩く。


 傾きが少しずつ増す。


「これ」


 間違いない。


 高いところへ戻っている。


 根と石が増える。


 苔が減る。


 土が乾く。


 そして。


 弱い風。


「…………」


 頬へ当たった。


「来た」


 少し高い場所。


 肩の力が抜ける。


「戻れたな」


 ハクアは少し先へ歩き、こちらを見る。


「ここまで来れば大丈夫」


 昨日まで何度も確認した拠点側を見る。


「帰るぞ」


 今度は歩きやすい。


 緩い下り。


 知っている地面。


 覚えた木。


 岩場。


「よし」


 そこから先。


 もう迷うことはなかった。


 空き地へ戻る。


「ただいま」


 言いながら入ると、ハクアが横を抜けて倒木へ向かった。


「お前はまずそこなんだな」


 いつもの草へ身体を伏せる。


「俺は……」


 泥のついた右足を見る。


「これだな」


 水を少し使い、靴の泥を落とす。


 全部きれいにはならない。


 隙間にはまだ黒い土が残っている。


「まあ、森歩いてるんだし」


 少し汚れているくらいは仕方がない。


「でも泥だらけで寝床に入るのは嫌だな」


 できる範囲で落とす。


 それから水を飲み。


 少し休んで。


 地面の地図へ向かった。


「高いところ」


 指す。


「その反対へ下る」


 枝で線を少し伸ばす。


「ここから湿ってきて……」


 どの辺からだったか。


 正確には分からない。


 だから大まかに。


 線の途中へ小さな印をつける。


「この辺」


 さらに先。


「ここ」


 今日止まった場所。


 少しだけ土を指で広げる。


「湿ったところ」


 言ってから考える。


「湿地……でいいか」


 正式な名前なんて分からない。


 自分で分かればいい。


「南西の湿ったところ」


 それで十分だ。


 枝をその先へ動かしかける。


 止める。


「今日はここまで」


 奥へは行っていない。


 だから。


 その先は何も描かない。


「…………」


 地図を見る。


 拠点。


 西側の岩場。


 緩く上る場所。


 少し高いところ。


 そして、その向こうへ下り。


 地面の湿った場所。


「また一個増えたな」


 木一本ではない。


 今度も。


 場所そのもの。


「高いところの向こうは、湿ってる」


 これなら覚えやすい。


「…………」


 昨日まで。


 高いところの向こうは空白だった。


 今日。


 空白の一部が。


 湿った森になった。


「明日は」


 少し考える。


 その中を見てみたい。


 でも。


「外側からだな」


 いきなり中心へ入らない。


 足が沈む場所もある。


 根も滑る。


「歩けるところから」


 ハクアを見る。


 白い身体はもう目を閉じていた。


「お前は平気そうだったけど」


 耳が動く。


「俺は平気じゃなかったからな」


 今度は尾の先が少し動いた。


「笑ってる?」


 返事はない。


「……まさかな」


 俺は泥の残った靴をもう一度見る。


 少し高いところでは、石と根を避けた。


 その向こうでは、泥と滑る根を避けた。


 同じ森の中なのに。


 歩き方まで違う。


「面白いな」


 小さく呟く。


 知らない場所を見つけた。


 それ以上に。


 そこでは今までと同じ歩き方では駄目だと知った。


「また明日だな」


 地面の地図には。


 高い場所の反対側に。


 新しい印が一つ増えていた。

第60話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


西の緩尾根から南西へ下った先で、主人公は森林内の湿地を見つけました。


見た目は普通の地面でも靴が沈み、沈まない場所を選べば苔のついた根で滑る。


高い場所とは違い、同じ森の中でも歩き方そのものを変える必要があります。


今回は湿地の外縁まで。

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