第59話 高いところから
第59話です。
昨日見つけた、少し高い場所。
今日は先へ進む前に、そこを「一度行った場所」から「帰るために使える場所」へ変えていきます。
朝の水汲みを終えたあと、俺は地面に描いた線の前でしゃがみ込んでいた。
「…………」
拠点。
西側の低い岩場。
そこから先へ伸びる線。
何日かかけて覚えた木や倒木の位置を、大体の場所に小さく残してある。
そして、その先。
昨日見つけた少し高いところ。
「これ、ちょっと分かりにくいな」
枝を手に取る。
最初は、歩いた順番を忘れないために線を伸ばしていただけだった。
岩場を越える。
二股の木を見つける。
低い倒木。
幹の剥がれた木。
三つの石。
そこから、さらに先。
「でも昨日は……」
木を探すより先に、地面そのものが変わっていることに気づいた。
少しずつ上がっていく地面。
減っていく苔と下草。
増えていく根と小石。
乾き気味になる土。
その先にあった、風が少し通る高い場所。
「一個ずつじゃなくて、全部つながってるんだよな」
今まで描いた線の一部を手のひらで軽く消す。
土が崩れ、昨日までの跡が薄くなった。
「最初から……いや、全部消す必要はないか」
拠点と西側の岩場はそのまま残す。
そこから先だけ描き直す。
「岩場から……こっち」
枝先を動かす。
目印にした木を全部描く必要はない。
自分が思い出せればいい。
二股の木を、小さな分かれた線で。
三つの石は、小さな点を三つ。
「この辺から」
そこから先の線を、少しずつ上がるように伸ばす。
「上る」
もちろん、地面の地図に本当の高さを描けるわけではない。
だから、線の先へ土を少し寄せる。
「で、ここ」
昨日立った場所。
周囲より少し高く、ある程度の幅があるところ。
指先で浅く盛り上げる。
「高いところ」
言ってから、少し笑う。
「そのままだな」
尾根。
たぶん、そういう地形に近い。
でも、合っているかは分からない。
誰かに説明するわけでもないのだから、自分に分かる名前でいい。
枝をその向こうへ動かす。
「反対は……下り」
短く線を引く。
すぐ止めた。
昨日確認したのは、下がり始めているところまでだ。
その先には行っていない。
「ここからは空白」
昨日聞こえた気がした水の音も描かない。
音がした。
水だったかもしれない。
それだけで地図へ水場を増やしたら、知らない場所を知っていることにしてしまう。
「分かったところだけ」
枝を置く。
少し離れて地面を見る。
今までより、何となく見やすくなった。
ただ線が伸びているのではなく。
途中から地面が上がり。
少し高いところへ出て。
その反対側へ下がっていく。
「…………」
昨日歩いた感じに近い。
「よし」
立ち上がる。
今日は、その地図が合っているかを確かめる。
高いところの先へ進む前に、もう一度そこまで行く。
そして。
「帰りは、あそこを基準にして戻る」
木を順番に探すだけではなく。
地面の形から、自分がどこにいるのかを考えてみる。
「ハクア」
倒木の近くへ声をかける。
白い顔が上がった。
「今日は昨日のところまで」
ハクアの耳が動く。
「その先は行かないぞ」
少し待つ。
ハクアは身体を起こし、大きく前脚を伸ばした。
「来る?」
白い身体が歩き始める。
「来るんだな」
俺も石斧と杖、水を持って森へ入った。
最初は、いつもの道だ。
水場へ行く道ほどではないが、西側の岩場までの景色もかなり馴染んできている。
足元の根。
斜めに伸びた木。
石の多いところ。
以前なら目印として一つずつ確かめていたものが、今は歩きながら自然に目へ入った。
「ここはもう大丈夫そうだな」
木々の間に灰色の岩が見えてくる。
西側の低い岩場。
「一個目」
と言ってから首を横へ振る。
「いや」
ここから先は、数えるように歩かない。
岩場を越える。
以前なら、すぐ二股の木を探していた。
今日は、まず周囲を見る。
「…………」
地面。
まだ苔は多い。
下草も普通に生えている。
土も湿っている。
「ここは低い方」
そう考えてから歩く。
少し進む。
二股の木が見えた。
その横。
低い倒木。
「ある」
目印は見つかった。
でも、それだけで安心しない。
「まだ平ら……かな」
足元を見る。
もう少し。
幹の剥がれた木。
三つの石。
一つ。
二つ。
三つ。
「こっちも」
さらに歩く。
やがて。
「…………」
足の裏で、ほんの少し傾きを感じた。
「ここからだ」
前を見る。
木々だけなら、さっきまでとほとんど変わらない。
でも。
振り返る。
「やっぱり上がってる」
来た方向が、少し低い。
昨日覚えた変化を探す。
苔。
「減ってきた」
下草。
「こっちも」
根と石。
「増えてる」
しゃがんで土へ触れる。
表面が少し乾いている。
「合ってるな」
木一本を見失っても。
地面の変化は、もっと広い範囲に続いている。
「…………」
少し嬉しくなる。
昨日までは、目印を見つけるたびに「これで合っている」と思っていた。
今日は逆だ。
地面が上がり始めた。
だから、この先に昨日見た木があるはずだ。
「順番が変わったな」
歩く。
少し先。
斜めに伸びた幹。
その横に細い木が三本。
「あった」
予想したところに目印が出てきた。
「こういうことか」
地形だけで全部分かるわけではない。
木だけでも不安が残る。
でも。
「両方使えばいいんだ」
地面の高さ。
苔や草。
木。
根。
石。
どれか一つを答えにしない。
いくつかが合っていれば、かなり間違いにくくなる。
前を歩いていたハクアが振り返った。
「何となく分かってきた」
白い耳が動く。
「お前は匂いで分かるんだろうけどな」
ハクアはそのまま歩き出した。
「はいはい。行きますよ」
さらに上る。
傾きは急ではない。
昨日もそうだった。
何も考えなければ、平らな森を歩いているようにも見える。
それでも今は。
来た方向を見るだけで分かる。
「上ってる」
そして。
しばらくすると。
足元の傾きが消え始めた。
「そろそろだな」
まだ昨日の高い場所そのものは見分けられない。
木々に囲まれ、何か特別な岩が立っているわけでもない。
でも。
土は乾き気味。
苔は少ない。
露出した根と小石が多い。
頬へ弱い風が当たる。
「…………着いた」
昨日と同じ。
少し高いところ。
周囲を見る。
「今日も木しかないな」
昨日と同じことを言って、少し笑う。
もちろん、一日で森が開けるわけはない。
右。
木。
左。
木。
向こうも木。
それでも。
「ここだって分かる」
何も目立たない。
なのに、昨日よりずっと場所として分かりやすかった。
「これ、結構でかいな」
木の一本なら、見失う。
倒れることもある。
落ち葉や石は動く。
でも、この辺り全体が少し高くなっていることは、見えなくならない。
「絶対じゃないけど」
大雨で崩れることもあるだろう。
長い時間が経てば変わるかもしれない。
それでも、今使っている目印の中ではかなり大きい。
「西の岩場から上って、高いところ」
頭の中で言葉にする。
「ここまで来れば」
反対側を見る。
昨日確認した下り。
「次は、向こうに行ける」
今日は行かない。
それは決めている。
ハクアは昨日と同じように、下り側へ少し歩いていった。
「ハクア」
呼ぶ。
白い顔が振り返った。
「今日はそっちじゃない」
俺は来た方向を見る。
「帰る方を確かめる」
ハクアはしばらくこちらを見ていたが、やがて戻ってきた。
「そう」
言ってから笑う。
「いや、お前は別に戻らなくてもいいんだけど」
白い身体が俺の横を通り過ぎる。
「聞いてないな」
今日は、ここからが本番だった。
高い場所へ来ることはできた。
次は。
ここを出発点にして、自分の拠点側へ戻れるか。
「まず地面」
一歩進む。
今度は下りだ。
高い場所から離れると、少しずつ地面が下がり始める。
「これでいい」
木を探さない。
最初は地面の傾きを見る。
根と小石はまだ多い。
苔も少ない。
「もうちょっと」
下る。
徐々に変わっていく。
「あ」
木の根元に、緑色が増えた。
苔。
その少し先では、下草も多くなっている。
「戻ってる」
昨日は上るほど減った。
今日は下るほど増える。
「分かりやすいな」
完全に同じ場所を歩いているかは、まだこれだけでは言えない。
だから、周囲を見る。
「この辺に……」
幹の剥がれた木。
どこだ。
すぐには見つからない。
「…………」
以前なら、少し焦っていたと思う。
今日はそうでもなかった。
少なくとも、高い場所から下ってきた。
地面の湿り方も戻っている。
大きく横へ逸れた覚えもない。
「周りを見る」
倒木。
根。
石。
「三つ」
小さな石が三つ。
その横へ視線を上げる。
「あった」
幹の表面が広く剥がれた木。
「よし」
道そのものを見つけたような安心感があった。
でも。
「今度は、この木がなくても大丈夫だったかもな」
たぶん。
その言葉をつける。
「まだ一回だけだし」
地形だけで戻れると決めるのも早い。
両方使う。
先へ進む。
二股の木。
低い倒木。
太い根。
「ここ」
見つける。
ただし、その前から。
苔が増えている。
土が湿っている。
傾きもほとんどなくなっている。
「もうすぐ岩場だな」
そう思ってから数分。
木々の間に灰色が見えた。
「ほら」
西側の低い岩場。
「来た」
足を止める。
振り返る。
ここからは、高い場所は見えない。
木々が重なって、どこが一番高かったのかすら分からなかった。
「見えなくてもいいのか」
あの先へ行けば。
少しずつ地面が上がる。
苔と下草が減る。
根と石が増える。
土が少し乾く。
そして、弱い風が通る高い場所へ出る。
「…………」
頭の中では、つながっている。
「行った場所じゃなくなってきたな」
初めて岩場の先へ進んだ時は。
あの森全部が知らない場所だった。
今は。
「こっちへ行けば、高いところ」
それが分かる。
そして、高いところまで行けば。
拠点へ戻る側と、まだ知らない反対側を分けられる。
「基準にできる」
ちょうどいい言葉が見つかった気がした。
「高いところを基準にすればいいんだ」
森全体の方角が分かるわけではない。
太陽が見えない日もある。
正確な距離も測れない。
それでも。
自分の生活圏の中なら。
「岩場から上れば高いところ」
そこまでは言える。
「で、反対に下れば……」
そこで止める。
「まだ分からない」
知らないものは、知らない。
明日確かめればいい。
「帰るか、ハクア」
白い耳が動いた。
岩場から拠点までの道を歩く。
ここまで来れば、もう足はほとんど止まらない。
馴染んだ根。
見覚えのある石。
何度も通った木。
やがて、空き地が見えた。
「ただいま」
声に出す。
ハクアが横から先へ出て、そのまま倒木の近くへ向かった。
「はい、お前はそこな」
白い身体がいつもの場所へ伏せる。
俺は荷物を置き、水を飲んだ。
「…………」
思っていたより疲れていない。
歩いた距離が短かったわけではない。
昨日とほとんど同じところまで行っている。
「止まる回数が減ったからかな」
知らない森を歩くだけで疲れる。
足だけではなく、どこを見ればいいのか分からないことにも疲れていたのかもしれない。
「今日はちょっと楽だったな」
ハクアを見る。
前脚へ顎を乗せたまま、片耳だけがこちらを向いていた。
「お前は毎日こんな感じ?」
当然、返事はない。
「だよな」
少し休んでから、朝に描き直した地図へ戻る。
「さて」
枝を拾う。
西側の岩場。
「ここから上がる」
朝より少し分かりやすく、線を整える。
「この辺から、苔が減る」
小さな印。
「高いところ」
土を少し盛り上げた場所。
そこから、反対へ短い線。
「こっちは下り」
そこで止める。
昨日と変わらない。
その先は。
空白。
「…………」
昨日聞いた音も。
今日、探そうとはしなかった。
高い場所へ着いた時、少し耳を澄ませてみた。
でも、水らしい音は聞こえなかった。
「やっぱり気のせいだったのかな」
それも分からない。
風向きで聞こえなかっただけかもしれない。
だから。
「まだ何も描かない」
枝を地面へ置く。
少し離れて地図を見る。
線は昨日よりほとんど伸びていない。
今日、新しい場所を見つけたわけでもない。
持ち帰ったものもない。
それでも。
「ここまでは行ける」
西側の岩場を指す。
その先。
「ここまで上れば」
少し高い場所。
「ここへ出る」
そして。
「ここから帰れる」
昨日までより、その言葉に迷いがなかった。
一度行った。
もう一度行った。
今日も行けた。
帰りには、木だけではなく地面の変化を見て戻ってきた。
「よし」
短く息を吐く。
これなら。
次に高い場所まで行った時。
その反対側へ少し進んでも、まずここへ戻ってくればいい。
「次は」
空白を見る。
「こっちだな」
高い場所の反対。
南寄りへ下がっている側。
地図には、まだ短い線しかない。
「明日は下りてみるか」
倒木の近くから、白い顔が上がった。
「今日は行かなかったけどな」
ハクアの尾が草の上で一度動く。
「先に帰れる場所にしてからでも、遅くないだろ」
白い顔はまた前脚の上へ戻った。
「……それでいいよな」
返事はない。
でも。
俺も地面の地図へ視線を戻す。
高いところ。
その向こう。
まだ何も描いていない森。
空白は残っている。
昨日と同じだ。
ただ一つ違うのは。
そこへ行くために戻ってくる場所が。
昨日より少しはっきり分かるようになっていた。
第59話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は新しい場所へ進まず、見つけた「少し高い場所」を地理の基準として確かめました。
木や石だけではなく、地面の上り下り、苔や下草、土の状態まで合わせて見ることで、「一度行った場所」が少しずつ「自分で行って帰れる場所」へ変わっていきます。
高い場所の反対側は、まだ空白のままです。




