第58話 少し高い場所
第58話です。
昨日まで少しずつ上がっていた地面。
今日はその先まで歩き、木や根だけではなく、森そのものの形を少しずつ見ていきます。
翌朝、空き地を出た時には、昨日までより少しだけ足取りが軽かった。
西側の低い岩場までの道は、もうほとんど迷わない。
そこから先も、完全に知っているとは言えないものの、二股の木や倒木、幹の剥がれた木と三つの石を順番に見つければ、昨日の最遠地点までは行ける。
「三日目だからな」
前を歩くハクアへ言う。
「そろそろ毎回迷ってたら困る」
白い耳がこちらを向いた。
「いや、迷ってないけど。ちょっと止まってるだけで」
言い訳みたいになった。
ハクアはそのまま前へ顔を戻す。
「……別にいいけどさ」
杖を地面へつきながら歩く。
西側の岩場を越える。
そこからは、前より少しだけ意識して周囲を見るようにした。
二股の木。
低い倒木。
大きく盛り上がった根。
「ある」
次。
幹の表面が広く剥がれた木。
根元には石が三つ。
今日は全部見えている。
「こっちも」
同じ場所でも、光や落ち葉の具合で見え方は変わる。
それでも、木一本だけではなく周りまで一緒に見れば、前より迷いにくかった。
さらに進む。
昨日、初めて気づいた緩い上りへ入る。
「ここからだったよな」
足元を見る。
急な坂ではない。
何も考えず歩いていれば、平らな森だと思っていたかもしれない。
けれど、前と後ろを見比べながら進むと、少しずつ地面が上がっている。
「今日も上がってる」
昨日の感覚は間違いではなさそうだった。
そのまま歩く。
しばらくすると、別の違いにも気づいた。
「…………」
足が止まる。
地面を見る。
「苔、少なくなってる?」
昨日まで歩いていた場所では、木の根元や倒木、湿った土の上に緑色の苔が広がっているところが多かった。
ここには、それが少ない。
なくなったわけではない。
木の陰や根の近くには残っている。
でも、足元全体を見た時の緑色が明らかに減っていた。
「下の草も少ないな」
膝より低いところに生えていた草も、少し疎らになっている。
その代わり。
「根が多い」
木の根が地面から露出している。
拳より小さな石も、さっきまでより目につくようになった。
少し進む。
靴の裏へ硬いものが当たった。
「また石」
足をどける。
土から半分ほど出た、小さな灰色の石だった。
「昨日より増えてる……よな」
しゃがみ込み、地面へ指を当てる。
表面の土を軽く撫でる。
「…………乾いてる?」
土そのものが乾き切っているわけではない。
指を少し入れれば、内側には湿り気がある。
ただ、拠点の周辺や西側岩場までの道に比べると、表面がさらりとしていた。
指先へまとわりつく土も少ない。
「高くなってるのと関係あるのかな」
分からない。
でも。
地面が上がる。
苔が減る。
下草が少なくなる。
土の表面が少し乾く。
根と石が増える。
「…………」
一つだけなら、たまたまと考えていたかもしれない。
いくつも一緒に変わっていると、何か理由がありそうに思える。
「まあ、今は覚えとけばいいか」
原因まで決める必要はない。
立ち上がり、先へ進む。
ハクアは少し前を歩いていた。
地面から出た根を軽く越え、石の多いところも大して気にせず進んでいく。
「お前は歩きやすそうだな」
耳が動く。
「こっちは一個踏むだけでも結構痛いんだぞ」
靴は履いている。
それでも、尖った石を踏めば足の裏へ感触は伝わる。
「四本あると違うのか?」
ハクアを見る。
「…………」
自分で言ってから首を傾げた。
「いや、関係ないか?」
ハクアは答えない。
「そりゃそうだよな」
そのまま少し歩く。
草が少ないおかげで足元は見やすい。
一方で、出ている根や石を避けなければならず、歩きやすいのか歩きにくいのかよく分からない。
「どっちもあるな」
根を跨ぐ。
少し先で立ち止まり、振り返る。
ここまでの道は覚えている。
昨日よりも、帰る方向へ不安はなかった。
「よし」
また歩く。
上りは続いた。
ほんの少しずつ。
前を向いているだけでは、まだ上っているのか自信がなくなる程度の傾きだった。
けれど、時々振り返ると分かる。
「あっち、低いな」
今いる場所から見ると、来た方向の地面がわずかに下がっている。
「結構長いぞ」
昨日気づいた場所から、もうしばらく歩いている。
一か所だけ地面が盛り上がっていたわけではないらしい。
「この辺全部が上がってるのか?」
まだ分からない。
先を見る。
「どこまで続くんだろうな」
好奇心が出てくる。
でも、速度は上げない。
知らない場所で急いで進み、帰りが分からなくなっては意味がない。
昨日までと同じように、時々後ろを見る。
斜めに伸びた木。
三本並んだ細い木。
大きな根。
「ある」
一つ確認してから、また先へ。
そうして歩いているうちに。
「…………ん?」
何となく足を止めた。
前を見る。
「坂……終わった?」
さっきまであった、わずかな上りがほとんど感じられない。
数歩進んでみる。
「…………」
平ら。
少なくとも、今までのように上がっている感じはない。
右へ少し歩く。
大きくは変わらない。
左。
こちらも、ほとんど平らだった。
「ここが上?」
振り返る。
来た方は緩く下がっている。
そのまま周囲を見回した。
山の頂上みたいな場所を想像していたわけではない。
それでも、少し高いところまで来たなら、木が減ったり、空が広くなったりするのかと思っていた。
実際には。
「木しかないな」
右を見ても木。
左も木。
正面も、その向こうも木だった。
空は枝葉の隙間から見える程度。
遠くの山も、広い平地も見えない。
「まあ、森の中だもんな」
少し笑う。
「高いところに来たからって、急に景色が開けるわけじゃないか」
ハクアは少し離れたところで、地面の匂いを嗅いでいた。
俺はもう一度、足元を見る。
上りが終わっている。
でも、細い一本の場所だけが高いわけではない。
右へ歩いても、左へ歩いても、しばらくは同じくらいの高さに見える。
「広いな」
道みたいに細長く盛り上がっているというより、この周辺全体が少し高くなっている。
「こういうの、何て言ったっけ」
前の世界で聞いた言葉を探す。
山歩きをした経験はない。
けれど、本やテレビで地形の話を見たことくらいはあった。
「尾根……?」
山から伸びる、高いところ。
たしか、そんな意味だった気がする。
「…………」
周囲を見る。
山らしい山がどこにあるのかも分からない。
ここが本当に尾根と呼べる場所なのかも、俺には判断できない。
「まあ、違ってても困らないか」
誰かに説明するわけでもない。
「高いところ、でいいや」
自分の中で分かれば十分だ。
そう思った時。
頬へ、何かが触れた。
「ん?」
顔を上げる。
葉が小さく揺れている。
「風?」
弱い。
ほんの少しだけ。
でも、確かに空気が動いていた。
少し待つ。
また、頬へ風が当たる。
「ここ、風通るのか」
拠点でも風は吹く。
森の中でも、葉が揺れる日はある。
ただ、木々に囲まれているせいか、空気がほとんど動かない時間も多い。
ここではさっきから、弱い風が途切れながら通っている。
「高いから?」
それも分からない。
「これも覚えとくか」
地面が少し乾いている。
苔が少ない。
下草も少ない。
根と小石が多い。
長い上りの先で傾斜が緩くなった。
それから、少し風が通る。
「こうやって見れば、結構違うな」
木だけ見ていたら、いつもの森とほとんど変わらない。
でも足元や空気まで見れば、同じではなかった。
ハクアが少し先へ歩き出す。
「そっちは?」
後を追う。
しばらくは平らに近い地面が続いた。
大きな変化はない。
「広いな」
思っていたより、高い場所は幅があるらしい。
そのまま少し進む。
そして。
「…………」
また足が止まった。
杖の先を見る。
「下がってる?」
一歩進む。
もう一歩。
今度は間違いない。
地面が緩く下っていた。
「反対側は下りるのか」
来た方向を見る。
あちらは、ずっと上ってきた。
今いるところで一度傾斜が緩み。
こちら側へ進めば、今度は下っていく。
「…………」
頭の中でつなげる。
岩場。
その先。
少しずつ上がる地面。
高い場所。
その向こうの下り。
「ああ」
何となく分かった。
「一本の坂じゃないんだ」
坂を上った。
その先が平らだった。
それだけではない。
もっと広い範囲で地面そのものが盛り上がっていて、その反対側へ下りている。
「こっち全体が高くなってるのか」
振り返る。
木。
根。
石。
どれも今まで目印にしてきたものだ。
でも、それよりずっと大きい。
「森の形っていうか……地面の形か」
数十分歩いた道。
その全部をまとめて一つの形として考えたのは、初めてだった。
これまでにも坂はあった。
窪みもあった。
雨が流れる場所も見ている。
けれど、それは目の前の数歩や、せいぜい木一本分くらいの範囲で見ていた。
「これなら」
来た方を見る。
「目印にできるかもしれないな」
木一本なら倒れることがある。
枝も折れる。
落ち葉や石なら動くこともある。
でも。
「この高い場所全部が急になくなることは……まあ、ないよな」
言ってから少し考える。
地面が崩れることくらいはあるだろう。
大雨で形が変わることもあるかもしれない。
「絶対じゃないけど」
それでも、今まで覚えていたものよりは大きな基準になる。
「高いところまで来た」
それが分かれば、自分がどの辺りにいるのか考えやすい。
「いいな、これ」
少し嬉しくなった。
何か新しい食べ物を見つけたわけでもない。
便利な材料があったわけでもない。
それでも、森の中に自分で分かるものが一つ増えた。
ハクアが下り側へ数歩進む。
「ハクア」
呼ぶ。
白い身体が止まり、こちらを見る。
「今日は下りないぞ」
その向こうを見る。
緩く下がる地面。
もちろん、進めないほど急ではない。
今なら時間にも余裕がある。
少し行って戻るくらいならできそうだった。
けれど。
「ここまでって決めてたわけじゃないけど……」
もう十分だ。
昨日確かめたかったものは分かった。
上りの先まで来た。
高い場所があった。
反対側は下っている。
「一回で全部行く必要ないよな」
先へ行きたい気持ちはある。
だからこそ、そこで止める。
「次も来られるか確かめてからでいい」
ハクアがこちらへ戻ってくる。
「そうそう」
白い顔が横を向く。
「別に言うこと聞いたわけじゃない?」
尾だけが軽く動いた。
「はいはい」
俺も帰ろうと身体の向きを変えた。
その時だった。
「…………ん?」
何か聞こえた。
動きを止める。
「今の何だ?」
耳を澄ませる。
鳥。
葉が擦れる音。
どこか遠くで枝が鳴る。
それから。
「…………」
もう一つ。
低く。
細く。
ずっと続いているような音。
「水?」
思わず呟く。
水が流れている時の音に少し似ていた。
でも、湧き水や小川で聞く音より遠い。
「どっちだ?」
顔を動かす。
右。
違う。
左。
「…………」
分からない。
風が通る。
葉が一斉に揺れ、その音が全部を隠した。
「消えた」
少し待つ。
聞こえない。
「気のせい?」
ハクアを見る。
白い耳は立っていた。
ただ、身体を固くしているわけでも、何か一方向を気にしているわけでもない。
「お前には聞こえてた?」
答えはない。
「まあ、聞こえてても教えられないよな」
もう一度耳を澄ます。
やっぱり分からなかった。
「…………」
探しに行こうとは思わない。
本当に水なのかも分からない。
方向すら曖昧だ。
それに。
「今日は帰る」
決めたことを、聞こえたかどうかも分からない音一つで変える必要はない。
「もし本当にあるなら、また来た時に聞こえるかもしれないし」
そう言って、来た方向へ歩き出す。
今度は緩く下っていく。
「あ」
数分も歩かないうちに気づいた。
「帰りの方が分かりやすいな」
行きでは、本当に上っているのか何度も疑った。
帰りに歩けば、少しずつ地面が下がっていくのがよく分かる。
「やっぱり上ってたんだ」
足元も少しずつ変わる。
根や石が減る。
下草が増える。
地面の湿り気も、少し戻ってくる。
「これも目印になるな」
木だけではない。
地面そのものが変わっていく。
昨日まで覚えた場所へ戻る頃には、苔も目につくようになった。
「三本の細い木」
見つける。
「斜めの幹」
次。
「幹の剥がれた木」
その下には。
「一、二、三」
三つの石。
「ある」
さらに戻る。
二股の木。
低い倒木。
太い根。
そして。
「岩場」
木々の間に、見慣れた灰色が見えた。
肩の力が抜ける。
「戻った」
ここから先は知っている道だ。
ハクアが少し前へ出る。
「もう好きに行っていいぞ」
言うと、白い身体が歩く速さを少し上げた。
「分かってる?」
返事はない。
「まあいいか」
俺も後を追う。
空き地へ戻った時にも、空はまだ十分明るかった。
「ただいま」
ハクアはそのまま倒木の近くへ向かい、いつもの場所で身体を伏せた。
「毎回早いな」
荷物を置き、水を飲む。
少し休んでから、地面の簡略地図の前へしゃがんだ。
「昨日はここまで」
西側岩場から伸びた線。
その先。
少しずつ地面が上がっていると描いたところ。
枝を持つ。
「今日、さらに上って……」
線を少し伸ばす。
その先を、わずかに高くするように描いた。
「ここ」
高いところ。
名前は、それでいい。
「で」
少し先へ枝を動かす。
「反対側は下がる」
短く線を伸ばす。
そこで止めた。
「ここまで」
今日は下っていない。
だから、その先は描かない。
地面から少し身体を離して見る。
拠点。
西側の低い岩場。
そこから緩く上る場所。
少し高いところ。
そして、反対側へ下がる地面。
「…………」
昨日より、一本の線という感じがしなくなった。
「場所じゃなくて、形なんだな」
森に生えているものを覚えるだけではない。
森の地面がどうつながっているか。
それも、帰るための手掛かりになる。
「これは使えそう」
枝を地面へ置く。
地図の高いところを見る。
その先には、まだ短い線しかない。
さらに向こうは空白だ。
「…………」
さっきの音を思い出す。
水。
だったかもしれない音。
でも。
「まだ描けないな」
聞き間違いかもしれない。
場所も分からない。
だから何も足さない。
分かったものだけ描く。
「これでいい」
倒木の近くを見る。
ハクアはもう前脚へ顎を乗せていた。
「今日は結構歩いたな」
片耳がこちらを向く。
「次は……」
高いところの印を見る。
「まず、ここをちゃんと覚えた方がいいか」
一度見つけただけでは、まだ新しい場所だ。
もう一度行って。
同じ場所だと確かめて。
帰る時の基準にできるかを見る。
「その先は、それからだな」
ハクアの耳がゆっくり元へ戻った。
地面の地図には、昨日までなかった小さな高低が一つ増えている。
森全体から見れば、大したものではないのだろう。
それでも俺にとっては。
木一本よりずっと大きな、新しい目印だった。
第58話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
少しずつ上がっていた地面の先で、主人公は周囲より少し高くなった場所を見つけました。
苔や下草、土の乾き方、根や石、風の通り方。そして、来た側とは反対へ下がっていく地面。
一本の木ではなく、森の地形そのものが新しい目印になり始めます。
遠くで聞こえたものが本当に水音なのかは、まだ分かりません。




