第57話 昨日の木
第57話です。
昨日歩いた場所へ、もう一度。
一度見た木や根を手掛かりに、同じ場所へ自分で戻れるのかを確かめます。
翌朝。
水を汲み、火の様子を確かめ、簡単に腹へ入れてから、俺は昨日と同じように地面の線の前へしゃがみ込んだ。
「ここまで」
西側の岩場。
そこから先へ伸ばした、短い線。
昨日初めて歩いた場所だ。
何かを見つけたわけではない。
使えそうなものを持ち帰ったわけでもない。
ただ、知らない森へ入り、途中で帰る方向に少し自信がなくなって、それでも自分で戻ってきた。
「今日は……」
枝の先で、その短い線をなぞる。
「同じところまで行けるか、だな」
一度歩いた。
だから、もう分かる。
そんな気にはならなかった。
むしろ昨日、帰り道から見た木々が行きとは違って見えたことの方が頭に残っている。
二股に分かれた木。
低い倒木。
地面から大きく出た根。
幹の表面が剥がれた木。
その根元にあった三つの石。
「覚えてる」
たぶん。
「……たぶん、は怖いな」
自分で言って立ち上がる。
今日も、昨日と同じくらいの時間には戻る。
先へ行けそうだから進むのではなく、帰り道に自信があるうちに戻る。
石斧を確認し、杖を持つ。
「ハクア」
倒木のそばを見る。
白い身体は、もう起きていた。
「昨日のところ、もう一回行くぞ」
ハクアの耳が動く。
「来る?」
問いかけると、ハクアは少し身体を伸ばしてから立ち上がった。
「よし」
俺が森へ向かうと、横を白い影が通り過ぎる。
「いや、だからお前が先に行っても、今日はついていかないぞ」
ハクアが振り返る。
「昨日の道を俺が覚えてるか確かめるんだから」
言葉が全部通じているかはともかく、ハクアはそれ以上先へ急がず、少し横を歩き始めた。
「それならいい」
まずは知っている森を進む。
いつもの目印。
盛り上がった根。
少し傾いた木。
何度も通った地面。
ここでは迷わない。
意識しなくても、身体が次にどこへ足を置けばいいかを覚えているところまである。
「昨日も、ここまでは何も考えなかったんだよな」
木々の間に灰色の岩が見えてくる。
西側の低い岩場。
「着いた」
ここからだ。
岩場の向こうへ目を向ける。
昨日と同じ森。
――に見えた。
「…………」
少し首を傾げる。
「こんな明るかったっけ?」
昨日来た時より、木々の間へ光が入っている。
時間は大きく違わないはずだ。
それでも雲や枝葉の揺れ方だけで、地面へ落ちる光は変わるらしい。
「いきなりこれか」
昨日覚えた景色と、もう少し違う。
けれど、だからといって戻る必要はない。
「木を探せばいい」
岩場を回り込む。
少し進むと、昨日のように歩く速さが落ちた。
「最初は……」
どれだった。
見回す。
似た太さの木はいくらでもある。
まっすぐなもの。
少し曲がったもの。
根元が苔で覆われているもの。
「二つに分かれてる木」
昨日覚えた特徴を思い出す。
前を見る。
「…………あれ?」
一本見つける。
幹の途中で二つに分かれている。
「これか?」
近付く。
何となく違う。
昨日、その横には低い倒木があったはずだ。
下を見る。
「ないな」
周囲へ視線を動かす。
「じゃあ違う」
木だけなら似たものがある。
昨日それを自分で確かめたばかりだ。
「二股の木、倒木、太い根」
三つ。
昨日覚えた組み合わせ。
そのまま少し横へ歩く。
「あ」
今度はすぐ見つかった。
幹の途中で二つに分かれた木。
その右側に、地面へ沿うように倒れた古い木。
手前には、土から大きく盛り上がった根。
「これだ」
昨日とは光の当たり方が違う。
木の片側が明るくなっていて、倒木も半分ほど影に入っていた。
それでも。
「三つなら分かるな」
昨日自分で決めたことが、今日も使えた。
少し嬉しくなる。
「まず一個」
ハクアを見ると、少し離れたところで木の根元の匂いを嗅いでいる。
「お前はもっと簡単なんだろうな」
白い耳が動く。
「でも、俺はこれでいい」
次へ進む。
昨日より足は少し軽かった。
完全に知っている道ではない。
それでも、どこに目を向ければいいかは昨日より分かっている。
木を見る。
足元を見る。
時々振り返る。
「次は……」
幹の剥がれた木。
根元に石が三つ。
覚えている。
しばらく進むと、それらしい木が見えた。
「…………」
幹の表面が広く剥がれている。
「これだな」
近付いて、下を見る。
一つ。
二つ。
「…………」
二つしかない。
「違う?」
しゃがみ込む。
枯れ葉。
細い枝。
石が二つ。
「昨日は三つだったよな」
記憶違いか。
それとも。
手で枯れ葉を軽く避ける。
「あった」
三つ目の石。
今日は葉が上へ落ちて、半分隠れていた。
「そういうのもあるのか」
昨日と同じ場所でも、そのまま残っているとは限らない。
葉くらいなら風で動く。
枝だって落ちるかもしれない。
雨が降れば地面の見え方も変わるだろう。
「目印って、絶対じゃないんだな」
石を元の場所へ戻す。
わざわざ並べ直しはしない。
自然にあるものを見て覚える。
今のところはそれでいい。
「でも、木と地面と周り」
一つだけに頼らない。
それなら、何か一つの見え方が変わっても気付きやすい。
また進む。
昨日、方向に自信がなくなった辺りが近付いてきた。
自然と歩く速度が落ちる。
「この先だよな」
細い倒木。
大きく曲がった根。
昨日はそこを越えて少し進み、振り返った時にどの木だったか分からなくなった。
「…………」
立ち止まる。
前を見る。
昨日は、ここで先へ行った。
今日は。
「まず後ろ」
振り返る。
幹が剥がれた木は見えない。
けれど、少し左へ身体を動かすと。
「あった」
その根元。
三つの石。
「大丈夫」
さらにその向こうには、低い倒木が木々の間から少し見える。
「昨日より分かるな」
景色を覚えたというより。
何を見るかが分かってきたのかもしれない。
「じゃあ」
細い倒木を跨ぐ。
曲がった根を避ける。
昨日、止まった場所まで進む。
「…………」
振り返る。
右。
左。
昨日は似た木が二本に見えた。
「こっちじゃない」
一本目。
幹だけなら似ている。
けれど足元が違う。
「こっち」
もう一本。
少し離れたところに曲がった根があり、その奥へ細い倒木が見える。
「合ってる」
息を吐く。
昨日の最遠地点。
「来られたな」
たったそれだけなのに、昨日初めてここへ来た時とは感じ方が違った。
偶然進んできた場所ではない。
昨日見たものを覚えて。
今日、もう一度自分で来た。
「一回より、二回の方がちょっと安心するな」
ハクアが横を通り、少し先へ出る。
「待て」
白い身体が止まる。
「……いや」
森の先を見る。
「今日は、少しだけ行くか」
ここまで戻ってこられた。
時間にもまだ余裕がある。
昨日より少し先へ。
「少しだけな」
自分に言い聞かせる。
前へ進む。
昨日の最遠地点を越えた瞬間、また森が知らない場所へ変わった。
同じような木々。
同じような落ち葉。
でも、見覚えはない。
「またここからか」
数歩進み、振り返る。
昨日の最遠地点そのものに目立つものは少ない。
「これは覚えにくいな」
周囲を見る。
右側に根元が大きく盛り上がった木。
少し後ろには細い倒木。
反対側には、幹に深い筋が何本も入っている木がある。
「これと、これと……」
組み合わせて見る。
「よし」
先へ。
今度は初めから、歩いては振り返る。
昨日ほど一歩ごとに不安になることはないが、知っているつもりになるのが一番怖い。
「…………」
しばらく歩いて。
ふと足を止めた。
「ん?」
何かが変だ。
森の様子は大して変わっていない。
木の種類が急に変わったわけでもない。
下草も普通にある。
「…………」
足元を見る。
前へ一歩。
「これ」
少し上がっている。
ほんのわずかだ。
坂道と呼ぶほどでもない。
「さっきから?」
後ろを見る。
自分が歩いてきた方。
平らに見える。
前も、ほとんど平らに見える。
でも、少し離れた木の根元の高さを見比べると、こちらの方がわずかに高い気がする。
「気のせいか?」
杖の先を地面へつけて歩く。
数歩。
また数歩。
「…………上がってる?」
昨日までは、足元の根や窪みばかり見ていた。
水が流れそうな低い場所。
雨が溜まりそうなところ。
木一本の周りにある小さな傾き。
そういうものなら、拠点の周辺でも何度も見ている。
でも。
「この辺全部が?」
もっと広い。
目の前の一歩だけではなく、さっきから歩いてきた地面全体が少しずつ上がっているように感じる。
「…………」
もう少し確かめたくなった。
前を見る。
まだ時間はある。
けれど。
「いや」
今日は昨日より少し先へ進む。
そう決めていた。
どこまで続くかを確かめるところまでは決めていない。
「ここまでにするか」
特徴のある木を探す。
少し斜めに伸びた幹。
その根元に、平たい石が一つ。
横には細い木が三本並んでいる。
「これ」
振り返る。
帰る側からも確認する。
「……見える」
少し位置を変える。
平たい石は根に隠れる。
「こっちからだと見えないな」
なら、木だけでは足りない。
三本並んだ細い木。
斜めの幹。
その奥にある大きな根。
「こっちの方がいいか」
頭に入れる。
「帰るぞ、ハクア」
白い顔がこちらを向く。
「今日はここまで」
俺が来た方向へ歩き出す。
今度は昨日のように、ハクアを前へ行かせないよう意識する必要もなかった。
白い身体は少し横へ逸れたり、俺より先へ出たりする。
それでも俺は、自分で目印を探す。
「三本の細い木」
ある。
「斜めの幹」
ある。
「大きな根」
見える。
「よし」
進む。
次。
昨日の最遠地点。
「…………」
一度、迷った。
帰り側から見ると、行きに目立っていた幹の筋がほとんど見えない。
「どれだ?」
少し立ち止まる。
昨日なら、ここで不安になったら一つ前まで戻っていた。
今日も、それでいい。
「でも、周り」
木だけを探すのをやめる。
地面を見る。
細い倒木。
大きく曲がった根。
「あ」
見つかった。
「こっちだ」
そこから少し進むと、昨日方向が分からなくなった場所へ戻った。
「今日は分かる」
自分でも分かるくらい、昨日より声が軽かった。
次。
幹の剥がれた木。
三つの石。
「…………」
木はすぐ見つかった。
石は。
一つ。
二つ。
三つ。
「ある」
さらに進む。
二股の木。
低い倒木。
太い根。
「これも」
昨日ほど何度も足を止めない。
迷わないわけではない。
一瞬、これで合っていたかと考えることはある。
でも、木一本だけで答えを出そうとしなくなった。
「昨日よりは、道っぽいな」
もちろん、本当に道ができたわけではない。
草も踏み固められていないし、枝を払ったわけでもない。
自分の中で、次に見るものがつながってきただけだ。
やがて、木々の先に灰色が見えた。
「岩場」
知っている場所へ戻る。
「よし」
そこから拠点までは、ほとんど迷うことなく歩けた。
空き地が見える。
「ただいま」
昨日と同じ言葉が自然に出た。
ハクアは少し先に空き地へ入り、そのまま倒木の近くへ向かう。
「お前は今日もそこか」
白い身体がいつもの草の上へ伏せる。
「俺も休む」
持っていたものを置き、水を飲む。
少し座ってから、地面の地図へ向かった。
「昨日がここ」
西側岩場から伸びた短い線。
その先へ、ほんの少しだけ続きを足す。
「今日が……ここくらい?」
正確な距離は分からない。
でも、昨日よりは進んだ。
「それと」
少し考える。
新しい場所を描き足したいわけではない。
今日気になったこと。
「地面が……上がってる」
線の先へ、小さく傾きを示すような跡をつける。
「たぶん」
まだ確信はない。
短い範囲だけの傾斜かもしれない。
少し進めば、またすぐ下がるかもしれない。
「明日行けば分かるか」
地図を見る。
昨日、一度だけ行った場所。
今日は、もう一度そこへ行けた。
そして、少し先まで進んで戻ってきた。
「一回よりは分かる」
でも。
二回だけだ。
「分かったつもりになるには早いな」
枝を置く。
倒木のそばでは、ハクアがもう目を閉じていた。
「明日、もう少しだけ上まで見てみるか」
片方の白い耳が、ゆっくり動いた。
第57話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
昨日見た木も、光や落ち葉が変われば同じ姿には見えません。
主人公は木一本だけを目印にするのではなく、倒木や根、石、地面の形まで組み合わせながら、前日の最遠地点へもう一度たどり着きました。
そして、その少し先では、足元だけではなく周囲の地面全体が緩やかに上がっているように感じ始めます。




