第56話 知らない方へ
第56話です。
帰れる場所ができたから、今度はその外へ。
遠くへ行くのではなく、自分で帰ってこられる範囲を少しずつ広げていきます。
第五章「森を少しだけ広く」、始まります。
朝の水汲みを終え、焚き火へ薪を一本足してから、俺は空き地の端へしゃがみ込んだ。
目の前には、何度も描き直してきた地面の線がある。
拠点。
北東側にある湧き水。
別の方向へ進んだ先にある池。
何度も使っている採取場所と、石を拾いに行く西側の低い岩場。
「最初よりは、だいぶ増えたな」
枝の先で一つずつなぞる。
正確な地図とは言えない。
距離は歩いた時間から考えた大体のものだし、方角も太陽や地形を見ながら決めているだけだ。それでも、自分がどこへ行き、何を見つけ、どこから戻ってきたのかを思い出すには十分役に立っている。
湧き水なら迷わず行ける。
池も、途中の目印をいくつか辿れば問題ない。
西側の岩場だって、今では石を拾う場所の一つになっていた。
「こっちは知ってる」
枝先を動かす。
「ここも」
もう一つ。
「問題は……」
西側の岩場で止める。
そこから先。
枝を地面へつけたまま、動かさない。
何も描いていない場所だった。
「こっちだな」
昨日、火のそばで考えたことを思い出す。
もう少し先を見てみる。
ただし、遠くまでは行かない。
ちゃんと戻れるところまで。
「言ったからには、一回くらい行ってみるか」
立ち上がり、森を見る。
以前見つけた大きな獣が使っていそうな道の方へ行くつもりはない。あそこは今でも、わざわざ近付く理由のない場所だ。
今日は西側の岩場まで行き、その先から少し南寄りへ外れる。
それ以上は決めていなかった。
「何か見つけるのが目的じゃないしな」
知らない場所へ行く。
そして戻る。
まずはそれだけでいい。
石斧の固定を確かめ、杖代わりに使っている棒を持つ。水は少量だけ持っていくことにした。
樹皮の容器は長く持ち歩くには頼りないので、遠出をするつもりなら別の方法も考えなければならない。
「今日はそこまで遠くないから、これでいいか」
火を見る。
屋根を見る。
棚の上を見る。
出かける前に一通り確かめてから、空を見上げた。
木の葉に隠れて太陽そのものは見えにくいが、まだ朝の光だ。
「昼を過ぎる前には戻り始めよう」
知らない場所で日が傾いてから帰り道を探す気はない。
余裕がありすぎるくらいでいい。
「ハクア」
呼ぶと、倒木の近くで伏せていた白い顔が上がった。
「俺、今日はあっち行くぞ」
西側を指す。
ハクアは指の先を見る。
「来る?」
少し待つ。
白い身体が起き上がった。
「来るんだな」
尾が軽く揺れる。
「でも、今日はお前についていかないからな」
ハクアがこちらを見る。
「俺が行く場所を決める」
もちろん、どこまで意味が通じているかは分からない。
「案内されたら、俺が道覚えられないし」
白い耳が動いた。
「まあ、お前は好きに歩けばいいけど」
俺が出発すると、ハクアも少し遅れてついてきた。
森へ入ってしばらくは、いつもの道だった。
盛り上がった根を跨ぎ、斜めに倒れた木の横を抜ける。
同じ場所を何度も歩いているせいか、意識しなくても避ける石や枝が増えている。
「ここ、最初は毎回引っかかってたよな」
地面から突き出した根を見る。
少し前までは、帰り道を間違えないよう木ばかり見ていた。
今は足元の形まで見覚えがある。
前を歩いていたハクアが横へ逸れ、木の根元へ鼻を近付けた。
「何かある?」
聞いても、ハクアは匂いを嗅いでいるだけだ。
「まあ、俺には分からないか」
そのまま歩く。
やがて、木々の向こうに灰色の石が見え始めた。
「着いた」
西側の低い岩場。
ここも、最初に見つけた頃は知らない場所だった。
今では加熱に使えそうな石を探したり、石器の材料を見たりする場所の一つになっている。
「ここまでは普通なんだよな」
岩へ手を触れる。
いつもと同じ、少し冷たい感触。
その向こうを見る。
木々が続いていた。
当然と言えば当然だ。
岩場の先だけ森がなくなるわけではない。
ただ。
「ここから先は、ほとんど知らない」
少しだけ息を吐く。
「行くか」
岩場を回り込み、その先へ足を踏み出した。
数分も歩かないうちに、自然と歩く速さが落ちた。
森そのものが急に変わったわけではない。
同じような木があり、落ち葉があり、遠くから鳥の声が聞こえてくる。
それでも。
「全然違うな」
見覚えのあるものがない。
どの木を見ても初めて見る木で、倒れている枝も、地面から出た根も、何一つ覚えていない。
少し進んで、振り返る。
「…………」
今通ってきた場所を見る。
こちらから来たはずだ。
それは分かる。
でも、さっき前を向いていた時とは木の形が違って見えた。
「帰る時は、こっち側から見るんだよな」
一本の木へ目を向ける。
途中から幹が二つに分かれている。
その横には、低く倒れた古い木。
足元には太い根が大きく地面から出ていた。
「これ、覚えとくか」
木一本だけでは似たものがありそうだ。
だから、周りも一緒に見る。
二つに分かれた木。
低い倒木。
太い根。
「三つ一緒なら、少し分かりやすいだろ」
もう一度前へ向き、歩き出す。
十数歩進む。
振り返る。
「…………あれ?」
さっきの二股の木は見つかった。
けれど、こちら側から見ると、倒木の一部が別の木に隠れている。
「もう違って見えるな」
少し横へ動く。
「ああ、ここなら見える」
帰り道から何が見えるのか。
それを確かめてから、また進む。
次に見つけたのは、幹の表面が広く剥がれた木だった。
根元近くには、拳ほどの石がいくつか集まっている。
「これも使えそう」
一つ。
二つ。
三つ。
「三つだな」
ハクアが近付き、そのうちの一つへ鼻を寄せた。
「お前は匂いで覚えられるのか?」
白い顔がこちらを向く。
「俺には無理だから、見て覚えるよ」
そう言って歩き出す。
ハクアは少し先へ出た。
そのまま右へ寄ろうとする。
「ハクア」
呼ぶと、白い耳がこちらへ向いた。
「今日はそっちじゃない」
俺は少し左寄りを見る。
「こっち」
ハクアが止まる。
しばらくこちらを見たあと、ゆっくり向きを変えて戻ってきた。
「そう。今日は俺が決める」
言ってから、少し笑う。
「別に言うこと聞けって意味じゃないけどな」
ハクアはそのまま俺の横を通り過ぎた。
「聞いてないな」
それでいい。
ハクアがこの先を知っていたとしても、俺が知らないことには変わりない。
自分で歩いて、自分で戻れなければ、俺にとっては行ける場所にはならない。
さらに進む。
知らない範囲へ入るほど、立ち止まる回数が増えた。
前を見る。
足元を見る。
少し進んで、後ろを見る。
特徴のある木や倒木を探し、来た方向を頭の中でつなげていく。
「思ったより進まないな」
時間がかかる。
いつもの道なら、同じ時間でももっと歩けるはずだ。
でも、今日は距離を稼ぎたいわけではない。
「急ぐ必要ないか」
そう思って、また一歩進む。
細い倒木を跨ぐ。
その先で、大きく曲がった根を避ける。
もう少し。
「…………」
足が止まった。
何となく後ろを振り返る。
「…………ん?」
さっき見た木。
どれだ。
剥がれた幹。
石が三つ。
その次に細い倒木を越えた。
そこまでは覚えている。
でも、今いる場所から見ると、それらしい木が二本あった。
「どっちだ?」
右。
左。
少し身体を動かして見比べる。
分からない。
「…………」
ハクアは少し先で地面の匂いを嗅いでいた。
「ハクア」
呼ぶ。
顔が上がる。
聞こうとして、やめた。
「いや」
戻る道を聞いたところで答えてもらえない。
それに、今日は自分で覚えるために来た。
「適当に行くのはやめとこう」
今いる場所から、帰りだと思う方へ何となく進む。
それが一番危ない気がした。
最後に確実だった場所を思い出す。
幹の剥がれた木。
石が三つ。
その少し先に細い倒木。
「そこまで戻ればいい」
先へ進むのをやめ、今来たばかりの足元をゆっくり戻る。
一歩。
もう一歩。
見覚えのある根を越える。
「あ」
木の間に、明るい部分が見えた。
近付く。
幹の表面が大きく剥がれている。
足元を見る。
一つ。
二つ。
三つ。
「……あった」
息が抜けた。
別に迷子になったわけではない。
戻ったのも、ごく短い距離だ。
それでも、一瞬だけ帰る方向に自信がなくなった。
「この感じ、覚えとこう」
まだ明るい。
時間にも余裕がある。
このままもう少し先へ行くことはできる。
けれど。
「今日はいいか」
森の奥を見る。
何かを見つけたわけではない。
珍しい木も、食べられそうなものも、新しい水場もない。
ただ知らない場所を歩いただけだ。
それで十分だった。
「帰るぞ、ハクア」
ハクアが顔を上げる。
「今日はここまで」
俺が向きを変えると、ハクアも動いた。
白い身体が少し前へ出る。
「待て待て」
ハクアが振り返った。
「俺が先」
横を通り過ぎる。
「帰り道も俺が見るから」
今度はハクアが後ろからついてきた。
帰りは、行きより難しかった。
二つに分かれた木も、反対側から見ると枝の重なり方が変わる。
行きではよく見えた倒木が、別の幹に隠れている。
「これ……だったよな」
一度立ち止まる。
木だけを見る。
分からない。
そこで足元へ視線を落とした。
「石」
一つ。
二つ。
三つ。
「ああ、ここだ」
顔を上げれば、その横に幹の剥がれた木がある。
「木一本じゃなくて、周りも見る」
口に出す。
その方が覚えやすい。
次。
太い根。
低い倒木。
幹の途中で二つに分かれた木。
「これもあった」
一つずつ拾う。
少しずつ、知らない場所が後ろへ遠ざかっていった。
そして。
「見えた」
木々の間に灰色の岩が現れる。
西側の低い岩場。
肩から力が抜ける。
「戻ったな」
ハクアが岩場の横を通る。
「ここからなら分かる」
さっきまで何度も足を止めていたのに、岩場を越えた途端、歩く速さが戻った。
知っている木。
知っている根。
何度も通った地面。
やがて、木々の向こうに空き地が見えた。
「ただいま」
自然に口から出る。
ハクアは俺を追い越し、倒木の近くにあるいつもの場所へ向かった。
「お前、帰ってきた途端それか」
白い身体が草の上へ伏せる。
「まあ、俺も休みたいけど」
荷物を置き、水を飲む。
火の状態を確かめてから、朝に見ていた地面の線へ戻った。
「西の岩場」
枝先で示す。
「その先」
何もなかったところへ、短い線を一本だけ伸ばす。
「このくらい……かな」
正確ではない。
今日どれだけ歩いたのかも分からない。
だから、長くは描かない。
ほんの少しだけ。
「今日分かったのは、ここまで行ったってことくらいか」
新しい資源は見つけていない。
使えそうな場所もない。
ただ、一度知らない森へ入り、帰ってきた。
「でも、一回行っただけじゃ道にはならないよな」
今日覚えた木を、明日も見つけられるのか。
光が変わっても分かるのか。
反対側から見ても気付けるのか。
「もう一回行けば、少し分かるかな」
枝を地面へ置く。
短く伸びた線の先には、まだ何もない。
ほとんど全部が空白だった。
「……明日、もう一回行ってみるか」
倒木の近くから、白い尾が草の上を一度だけ叩いた。
第56話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
第五章最初の探索では、何か新しいものを見つけることよりも、「知らない場所から自分で帰る」ことを優先しました。
木一本だけではなく、倒木や根、石などを組み合わせて目印にし、分からなくなったら無理に進まず、一つ前の確かな場所まで戻る。
まだ地図に増えたのは短い線一本だけです。




