閑話 それぞれの一日
第四章、章末閑話です。
同じ場所で暮らしていても、一人と一匹が一日中ずっと一緒にいるわけではありません。
今回は、主人公の見ていないところで過ごしていたハクアの一日です。
朝。
「おはよう、ハクア」
いつもの声がした。
耳を動かす。
火の匂いがあり、人間が動く音がする。
それだけで、もう顔を上げる必要もない。
しばらくすると火が少し強くなり、細い枝の燃える音が聞こえた。
「水行くぞ」
今度は顔を上げる。
人間が樹皮の入れ物を持っている。
水。
いつもの道。
身体を起こして伸びをすると、そのまま先に歩き出した。
「今日は来る?」
後ろから声がする。
聞くまでもない。
もう歩いている。
「先行くのか」
少し楽しそうな声だった。
森へ入る。
湿った土。
木の根。
昨日と同じようで、少し違う匂い。
夜の間に通った小さな生き物の跡もある。
人間はそれに気付かず、いつもの道を歩いている。
途中。
足を止めた。
森の横。
少し遠いところに、匂いがある。
知らないものではない。
ただ、近くもない。
こちらへ来ているわけでもなかった。
「何かいる?」
後ろの足音も止まった。
人間はすぐに近付いていかない。
同じ方を見る。
耳を澄ませている。
少し待つ。
匂いは遠ざかっていく。
なら、もういい。
歩き出す。
「今日は分からないな」
人間もついてくる。
前なら、もっと近くへ行こうとしたかもしれない。
今は待つ。
分からなければ、そのままにすることもある。
少し変わった。
水場に着き、人間はいつものように周りを見てから水を汲み始めた。
こちらは少し下流へ行き、水へ口をつける。
「今日も普通だな」
耳を向ける。
「別に悪い意味じゃないぞ。むしろ、普通が一番いい」
普通。
その言葉の意味は分かる。
いつもと同じ。
それで困らない。
水を飲み終え、また同じ道を戻った。
空き地へ着くと、人間は忙しく動き始める。
棚。
屋根。
地面の細い溝。
枝と葉を重ねた低いもの。
あちらへ行き、こちらへ戻り、少し直してはまた別の場所へ向かう。
「直してばっかりだな」
自分で作ったものへ話しかけている。
いつものことだった。
しばらく倒木のそばにいたが、陽が高くなり始める頃には森の匂いが気になった。
立ち上がる。
「今日はそっちか」
人間の声。
「行ってらっしゃい」
振り返らず、森へ入った。
追ってくる足音はない。
それも、いつものこと。
木々の間を進む。
空き地の匂いが薄れ、代わりに森の匂いが濃くなる。
土。
葉。
古い木。
小さな生き物。
遠くの水。
気になる匂いを追い、少し脇へ逸れる。
低い草の向こう。
何かが動いた。
身体を低くする。
待つ。
もう少し。
前へ。
地面を蹴った。
獲物が逃げる。
白い尾が草の向こうへ消えた。
「…………」
止まる。
逃げられた。
匂いだけが残っている。
無理に追わない。
前より遠くまで走れる。
でも、追えば必ず捕まるわけではない。
少し歩き、木陰へ入る。
水の匂いがする場所まで行き、喉を潤す。
それから、柔らかい草の上で身体を休めた。
風が通る。
鳥の声。
枝の揺れる音。
火の弾ける音はここにはない。
人間の声も聞こえない。
森で一人。
それも普通だった。
少し休んだあと、また立ち上がる。
別の匂いを見つけた。
今度は小さい。
草の間を動くもの。
急がず、風下へ回る。
近付く。
待つ。
動いたところへ飛び込む。
短く暴れたあと、口の中に獲物の重さが残った。
その場で食べる。
腹が満ちれば、それ以上追う必要はない。
食べ終え、口元を舐める。
そのあとも森を歩いた。
知っている匂い。
知らない匂い。
以前通った場所。
まだ人間が歩いていない方角。
どこへ行くかは、自分で決められる。
陽が少しずつ傾いていく。
身体が止まった。
「…………」
何かを考えたわけではない。
戻るか。
戻らないか。
そんなことを決める必要もなかった。
足が向きを変える。
森の中を歩く。
少しずつ、知っている匂いが混ざり始める。
煙。
魚。
人間。
濡れた木。
それから最近増えた、焼いた土の匂い。
近付く。
ぱち、と遠くで火が鳴った。
以前なら耳と一緒に身体まで固くなった音も、今は耳が向くだけだった。
森を抜ける。
「おかえり、ハクア」
人間がいる。
火の前。
その手元には、歪な土の器があった。
「今日は何もなし?」
何も咥えてはいない。
さっき食べた。
だから持ってくるものもない。
「まあ、毎回何か捕ってくるわけじゃないよな」
人間はそれ以上聞かない。
火の近くまで行くと、魚の匂いが強くなった。
「食べる?」
少しだけ近付く。
「今日は欲しいのか」
魚が葉の上へ置かれる。
「煙臭いぞ」
匂いを嗅ぐ。
知っている魚。
煙は強い。
一口食べる。
腹は減っていない。
でも、食べられないほどではない。
「いける?」
もう一口。
「じゃあ、少しだけな」
少しだけ食べる。
それ以上はいらない。
「ハクア、もういらない?」
顔を逸らす。
「分かった。じゃあ俺が食う」
人間は残りを自分で食べた。
どうしてこちらが少ししか食べないのか、人間は知らない。
それでいい。
火のそば。
人間は歪な土の器を使っている。
何度も土を触り、割って、また作り、火の前で長い時間見ていたもの。
あれが壊れずに残った時、人間は嬉しそうな声を出していた。
今も使うたびに何度か見ている。
大事らしい。
食事が終わると、人間は器を水で軽く洗い、決まった場所へ戻した。
そこには最近、いろいろなものの場所が決まっている。
石。
水。
枝。
食べるもの。
火。
そして、自分が休む場所。
人間が決めたわけではない。
自分で何度も伏せたところを、人間があとから避けるようになった。
今日もそこへ向かう。
草の上へ身体を伏せる。
しばらくして、人間が空き地の端へ歩いていった。
森を見ている。
「だいたい、この辺ばっかりだな」
声が聞こえる。
その先には、まだたくさんの森がある。
人間が歩いたことのないところも多い。
「戻れるところまで。それくらいなら」
立ち上がり、少し近くへ行く。
「ハクア」
呼ばれる。
「お前は、この先も知ってるんだろうな」
耳を動かす。
知っている場所はある。
知らない場所もある。
「案内してくれって意味じゃないぞ。俺が歩く」
人間が森を見る。
「その時、ついてきたかったら来ればいい。来なくてもいいけど」
少しの間、同じ方向を見る。
人間が歩けば。
その時に決めればいい。
先に道を教える必要はない。
森は逃げない。
夕方。
また火のそば。
「ハクア」
耳を向ける。
「明日ってわけじゃないけど、そろそろ、もう少し先も見てみるか」
顔を上げる。
「遠くまでは行かないぞ。ちゃんと戻れるところまで」
火が弾ける。
耳だけが動く。
人間は火の前へ座った。
こちらも、また身体を丸める。
今日。
朝は同じ道を歩いた。
昼は別々だった。
人間は空き地で自分のことをして、自分は森で自分のことをした。
そして陽が傾けば、また同じ火の近くにいる。
明日も森へ行くかもしれない。
もっと長く離れる日もある。
どこへ歩くかは、自分で決める。
それでも。
煙の匂いがするこの場所へ戻ることを、もう毎回考える必要はなかった。
森は、どこへでも歩いていける場所。
そしてここは。
歩いたあとに戻ってくる場所。
今では、その二つはどちらも同じ一日の中にあった。
第四章章頭閑話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ハクアは、自分の意思で「戻る場所」を選びました。
主人公には主人公の一日があり、ハクアにはハクアの一日がある。
別々に森を歩きながら、陽が傾けば同じ場所へ戻ってくる。
第四章『一人と一匹の暮らし』では、そんな一人と一匹の日常を描いていきます。




