第55話 一人と一匹の食卓
第55話です。
今回で第四章は最終話となります。
第四章で増えたものは、どれも暮らしを大きく変えるようなものではありません。
それでも、少しずつ直し、試し、失敗しながら残ったものは、いつの間にか毎日の中で使うものになっていました。
朝、目を覚まして身体を起こすと、最初に目へ入ったのは棚の横に置いてある歪な小鉢だった。
「……まだ割れてないな」
昨日できたばかりなのだから当然なのだが、つい確かめてしまう。
縁は波打ち、左右で高さも違う。焼きむらのある表面には指の跡まで残っているが、ちゃんと器の形を保っていた。
「今日も使ってみるか」
昨日まで葉の上へ置いていた木の実をいくつか入れると、ころころと底へ転がり、縁に止まった。
「うん。やっぱりこれだけで結構違うな」
地面へ転がり落ちない。ただそれだけなのに、妙に使いやすい。
倒木の近くでは、ハクアがまだ身体を丸めている。
「おはよう、ハクア」
白い耳が動いた。
「今日は起きないの?」
今度は顔だけが上がる。
「起きてるならいいか」
火を確かめ、灰の下に残っていた火種から炎を戻す。細い枝が燃え始める頃には、ハクアも立ち上がって身体を伸ばしていた。
「水行くぞ」
樹皮の容器を持ち上げる。
「今日は来る?」
ハクアは俺を見てから、そのまま水場へ向かう道の方へ歩き始めた。
「先行くのか」
少し笑いながら後を追う。
何度も歩いた道だ。木の根、曲がった木、白っぽい岩。もう目印を一つずつ意識しなくても、足がある程度道を覚えている。
ハクアは俺の少し前を歩いていた。
途中で、その足が止まる。
「…………」
俺も自然に立ち止まった。
「何かいる?」
ハクアは森の横を見ている。俺も同じ方向へ目を向け、耳を澄ませた。
少し待ってみたが、特に姿は見えない。遠くで葉が動いたような気もするものの、それが何なのかまでは分からなかった。
「今日は分からないな」
ハクアがまた歩き始める。
「行くなら行くか」
俺も進んだ。
以前なら、ハクアが止まった理由を確かめようと、その場でもっと考え込んでいたかもしれない。
今は、止まったら自分も止まり、まずは見る。それで何も分からず、ハクアが進むなら、こちらも警戒しながら進む。
それで十分だった。
水場へ着き、自分で周囲を見てから水を汲む。ハクアは少し下流で水を飲んでいた。
「今日も普通だな」
口にすると、白い耳がこちらを向いた。
「別に悪い意味じゃないぞ」
水をいっぱいにした容器を持ち上げる。
「むしろ、普通が一番いい」
空き地へ戻り、水を決めた場所へ置く。
「よし」
次に棚を見ると、昨日使った石片が一つ、少し端へ寄っていた。
「また戻し方雑だったな」
中央へ置き直す。
屋根を見ると、支柱と枝を結んでいる植物繊維の一つが少し緩んでいた。
「ここもか」
指で引いてみる。切れそうではない。
「締め直せばまだ使えるな」
結び目を少し直す。
それから排水溝へ向かった。雨は降っていないが、浅い溝には落ち葉が二枚入っている。
「これ、放っておくとまた詰まるんだよな」
拾って外へ出す。
風除けの葉も一枚ずれていた。
「お前も」
差し直す。
「直してばっかりだな」
思わず笑った。
作った時は、一度できればしばらくそのまま使えるような気がしていた。
実際には、蔓は緩み、葉はずれ、溝にはゴミが溜まる。棚も少しずつ傾いていく。
「作るより、維持する方が長いのかもな」
ハクアを見る。
「お前のところはどう?」
倒木の横に敷いた乾いた草は、少し前に足したものも身体の形に馴染んでいる。
「そこは自分で踏んで直してるか」
ハクアは俺を見ただけだった。
昼前、ハクアは森へ入っていった。
「今日はそっちか」
白い身体が木々の間へ消える。
「行ってらっしゃい」
見送ったあと、俺は昨日のうちに短く煙へ当てておいた小魚を取り出した。
「さて」
前に一度だけ、翌朝まで残せたやり方だ。今回はそれをもう一度試している。
「大丈夫そうかな」
まず匂いを確かめる。
「…………変なのはない」
煙と魚の匂い。それ以外に嫌な匂いは感じない。
指で触れてみる。
「ぬめりもなし」
少し身を開き、中の色も確かめた。
「前と同じくらい……かな」
もちろん、見ただけで安全が分かるわけではない。
「もう一回ちゃんと焼く」
焚き火へ近付けて火を通す。表面が熱くなり、少し煙の匂いが強くなった。
「相変わらず、うまそうって感じではないな」
それでも、昨日の魚を今日食べられる。その意味は大きい。
「食べるか」
少し冷ましてから一口食べる。
「…………」
苦い。
「うん。前と同じ」
煙臭さもある。
「でも食べられる」
小鉢を持ってくる。昨日木の実を入れたばかりの器に、今日は魚を置いた。
「おお」
思わず声が出る。
「ちゃんと食べ物入れると、さらに器っぽいな」
小鉢の中には不格好な焼き魚があり、横には木の実が二つ並んでいる。
「…………」
立派な食事ではない。
「でもまあ」
十分だ。
俺は焚き火の前へ座り、魚を少しずつ食べ始めた。
半分ほど食べたところで、草を踏む音がした。
「ん?」
森の方を見る。
白い姿が現れた。
「おかえり、ハクア」
ハクアが空き地へ入ってくる。口には何も咥えていない。
「今日は何もなし?」
鼻先や毛を見ても、特に血のようなものは付いていなかった。
「まあ、毎回何か捕ってくるわけじゃないよな」
ハクアが焚き火の近くへ来る。
小鉢の魚へ鼻を向けた。
「食べる?」
顔が少し近付く。
「今日は欲しいのか」
小鉢から魚を少し取り、葉の上へ置く。
「煙臭いぞ」
十分に冷ましてから近くへ置いた。
ハクアが匂いを確かめる。
「…………」
一口食べた。
「いける?」
もう一口。
「じゃあ、少しだけな」
さらに小さく取り分ける。
俺も残りを食べた。
同じ火のそばで、俺は歪な小鉢から、ハクアは葉の上から魚を食べている。
「食卓って言うには、ちょっと寂しいな」
机はない。椅子もない。焚き火と地面、平たい石と葉、それに小鉢が一個あるだけだ。
「でも、飯は食える」
ハクアを見る。
「十分か」
白い耳が動いた。
「そうだよな」
勝手に同意として受け取る。
食事を終え、小鉢に残った細かな身を指で取る。
「ハクア、もういらない?」
ハクアは顔を逸らした。
「分かった。じゃあ俺が食う」
最後まで食べた。
午後、小鉢を少しの水で洗う。水を溜めておけるほどではないので、素早くすすぎ、指で汚れを落とした。
「これも壊さないようにしないとな」
水を捨てる。
「落としたら終わりそう」
棚の近く、昨日決めた位置へ戻す。
「ここ」
少し離れて眺める。
「うん。今のところ忘れてない」
火、水、棚、薪、材料、小鉢。倒木の横にはハクアがいる。
作ったものも、直したものも、使わなければ意味がない。
空き地の端へ歩き、森を見る。
いつもの水場へ向かう道。池へ向かう方向。薪を拾いに行くところ。食べられる草を探す範囲。
「だいたい、この辺ばっかりだな」
少し顔を上げる。
その向こうにも木々が続いている。
今まで、近くで暮らすことに必要なものだけで手いっぱいだった。
水、火、雨、食べ物、怪我、道具。
「それでも、少しずつ」
ここで暮らすためにやることが、完全になくなったわけではない。むしろ毎日ある。
それでも、水汲みはできる。火も保てる。魚も少しなら食べられる。雨避けも、まだ粗いけれど使える。
少しだけ、視線を先へ向けてもいい気がした。
大きく遠くへ行くつもりはない。
「戻れるところまで」
森を見る。
「それくらいなら」
横から白い姿が近付いてきた。
「ハクア」
足元へ来るわけではない。少し離れたところで立ち止まり、同じ森の方を見ている。
「お前は、この先も知ってるんだろうな」
ハクアの耳が動く。
「案内してくれって意味じゃないぞ」
思わず付け足した。
「俺が歩く」
自分で、戻れる範囲を少しずつ。
「その時、ついてきたかったら来ればいい」
ハクアがこちらを見る。
「来なくてもいいけど」
しばらく、一人と一匹で森を見た。
何かが見えるわけではない。木、草、影。今までと同じ森だ。
夕方、火へ薪を足す。
暗くなる前に道具を棚へ戻し、水の残りを確かめた。ハクアは倒木の近くへ伏せている。
「ハクア」
白い耳がこちらを向く。
「明日ってわけじゃないけど」
火を見る。
「そろそろ、もう少し先も見てみるか」
ハクアが顔を上げた。
「遠くまでは行かないぞ」
笑う。
「ちゃんと戻れるところまで」
火が小さく弾ける。
白い耳がその音へ動き、すぐにまた力を抜いた。
俺も焚き火の前へ座る。
今日使った小鉢は、いつもの場所に戻してある。浅い溝には落ち葉がなく、風除けも今のところ形を保っている。
水もある。
火もある。
ハクアもいる。
何か特別なことが起きた日ではなかった。
それでも、今はこういう一日が、この場所での暮らしになっていた。
第四章 一人と一匹の暮らし 了
第55話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
今回で第四章は最終話となります。
新しい技術を増やさず、これまで第四章で積み重ねてきたものを、一日の暮らしの中で使いました。
屋根や排水溝は直しながら使い、小鉢には食べ物が入り、短く煙へ当てた魚は状態を確かめてから食べる。
ハクアも森で自分の一日を過ごし、また同じ場所へ戻ってきます。
少しずつ整ってきた暮らしの先で、主人公の目も、これまでよりほんの少し遠い森へ向き始めました。
第四章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。




