第42話 そのうち帰ってくる
第42話です。
ハクアには、空き地の中でよく休む場所ができました。
けれど、そこに居場所があることと、ずっとそこにいることは別の話です。
朝の水汲みを終えて空き地へ戻ると、ハクアは昨日少しだけ整えた場所に伏せていた。
倒木の横、地面の草が丸くへこんでいるところだ。
「やっぱりそこ使うんだな」
白い耳がこちらを向く。
俺は汲んできた水をいつもの場所へ置き、焚き火へ細い枝を一本足した。
火、水、薪、食べ物。
朝の確認を済ませてから、棚の上へ目を向ける。
「今日は道具の手入れでもするか」
昨日は枝の置き場を変えたせいで、思っていたより時間を使った。
大きな作業を始めるつもりはない。
石斧の結び目を確認し、欠けた石片を分け、使えそうな植物繊維をまとめる。それだけでも、やっておけば後で困ることは減る。
「…………」
石斧を手に取ったところで、草を踏む音がした。
顔を上げる。
ハクアが立っていた。
「どこか行く?」
白い耳が動く。
ハクアは俺へ近付かず、そのまま森の方を見る。
「…………」
少し前なら、森へ向かう姿を見ただけで、帰るのか、それともまた来るのかと考えていた。
今は、ただ一言だけ告げる。
「気をつけてな」
ハクアが一度こちらを見る。
それから、白い身体が森の中へ入っていった。
木々の間に姿が消える。
俺は少しだけその方向を見たあと、手元の石斧へ視線を戻した。
「さて」
結び目を指で押す。
少し緩い。
「またか」
植物で作った紐なのだから、使っていれば緩む。水に濡れたり乾いたりすれば、状態も変わる。
「使う前に見ればいいだけなんだけどな」
以前、足へ枝を落とした時のこともある。
道具があることに慣れても、道具そのものが丈夫になったわけではない。
巻いてある繊維を少し締め直し、石の刃が動かないか確かめる。
「これなら」
軽く振る。
問題なさそうだ。
次は石片。
棚の端へ置いてあるものを一つずつ見る。
「これはまだ使える」
薄い縁が残っているもの。
「これは……」
先が大きく欠けている。
「微妙だな」
捨てるほどではない。
木の表面を削るくらいなら使えるかもしれない。
「用途分けるか」
そう言ってから、少し笑う。
用途分けると言っても、棚の上で左右へずらすだけだ。
「まあ、今はそれで十分」
使いやすいものと、削るだけのものへ大まかに分ける。
作業を続けているうちに、太陽が少し高くなった。
森を見る。
ハクアはいない。
「まだか」
口に出してから、石片を棚へ置く。
「まあ、朝出たばっかりだしな」
森で暮らしていたやつだ。
俺が知らない場所へ行くこともある。
自分で水を飲み、自分で食べるものを探し、自分で休む。それが普通だ。
「俺のところにいる方が、後から増えたんだもんな」
そう考えると、空き地から姿が見えない時間がある方が、むしろ自然だった。
俺も自分の昼飯を用意する。
残っていた木の実と、昨日までに安全を確認している草。
「今日も普通」
火の近くへ座り、食べる。
反対側を見ると、いつもハクアがいる場所は空いていた。
「静かだな」
以前なら、これが普通だった。
俺一人、火の音、森の音、自分が何かを動かす音。それだけだ。
今は少し違う。
いないことには気付く。
でも、食事を止めてまで森を見続けることはなかった。
「そのうち帰ってくるだろ」
木の実を一つ口へ入れる。
「たぶん」
最後に付け足して、自分で笑った。
絶対に戻ると、そこまで決めつけるつもりはない。
ハクアは俺のものではないし、戻らなければならない理由もない。
それでも、昨日まで何度も戻ってきた。
名前を呼べば顔を上げ、朝になれば近くにいる。
だから。
「まあ、そのうち」
食事を終え、午後は薪を少し整理した。
太い枝、細い枝、すぐ火へ入れられる乾いたもの、まだ少し湿り気があるもの。
「こっちは後」
乾ききっていない枝を端へ寄せる。
その途中で、倒木の横へ目を向けた。
ハクアの休む場所。
朝まで身体を丸めていたため、草の中央にはまだへこみが残っている。
白い毛も一本落ちていた。
俺は拾わなかった。
「戻ってきたら、また使うだろ」
そう思っただけで、薪を抱えて別の場所へ運ぶ。
以前なら、白い姿が戻ってこない時間が長くなるほど、作業の手が止まっていたかもしれない。
今日は気にはなるものの、手は動いた。
薪を置き、火の様子を見て、水を少し飲む。
棚から石斧を取り出し、朝に締め直した部分をもう一度確かめる。
「大丈夫」
午後の光が、少しずつ傾いていく。
ハクアはまだ戻らない。
「長いな」
今度は、少しだけ気になった。
朝に森へ入ってから昼を過ぎ、もう夕方に近い。
森へ視線を向ける。
何かあったのか。
怪我をしたのか。
大きな獣に出会ったのか。
そういう考えが浮かぶ。
「いや」
すぐに止めた。
何も分からないのに、悪いことばかり考えても仕方がない。
それに、ハクアは俺より森に慣れている。
俺が助けに行くつもりで森の奥へ入り、逆に迷ったり危険なものへ近付いたりすれば意味がない。
とはいえ、何もしないと決めるのも違う気がした。
空を見る。
まだ明るい。
「日が落ちるまで」
そこを区切りにする。
「暗くなるまで戻らなかったら、知ってる道の周りだけ見てみるか」
水場へ向かう道。
池へ向かう道。
何度か歩いた生活圏の周辺。
そこだけだ。
「森の奥までは行かない」
自分へ言い聞かせる。
「俺が迷ったら、何しに行ったか分からないし」
もし出るなら、石斧と杖を持つ。
火を持っていくのは難しいし、暗くなり始めるなら、それ以前に戻る必要もある。
行くなら早めだ。
でも。
「まだ待つ」
俺は焚き火へ戻った。
薪を足し、夕方になる前に水も確認する。屋根の下へ置いた材料を片付け、いつでも動けるようにしておく。
森へ飛び込むのではなく、必要になった時に動けるようにする。
「これでいいか」
陽が木々の向こうへ近付いていく。
空き地の端に長い影が伸び始めた。
「…………」
そろそろ。
そう思って立ち上がり、杖へ手を伸ばしたところで、視界の端に白いものが見えた。
「え?」
振り向く。
倒木の横。
朝まで使っていた休息場所で、ハクアが身体を丸めていた。
俺はしばらく黙って見た。
「いつ戻った?」
耳が動く。
顔は上げない。
全然気付かなかった。
森から出てきた音も、空き地へ入ったところも聞こえていない。
「いつの間に」
杖から手を離す。
少し力が抜けた。
安心した。
それは間違いない。
でも、以前のように帰ってきたこと自体を大きな出来事のように感じるのとは少し違った。
「戻ってたのか」
ハクアが顔を上げる。
「おかえり」
白い耳がこちらへ向く。
森で何をしていたのか、どこまで行ったのか、食べたのか、何かを見たのか。俺には分からない。
「まあ」
聞いたところで答えられない。
「無事ならいいか」
ハクアはもう一度、顎を前脚へ乗せた。
「疲れた?」
耳が一度動く。
「そういうことにしとくか」
俺も焚き火の前へ座る。
出かけるために手元へ寄せていた石斧を元の場所へ戻した。
朝、ハクアは森へ行った。
俺はここで自分のことをした。
昼になっても戻らず、夕方まで別々に過ごした。
そして今は、同じ空き地にいる。
全部、一日の中のことだった。
ずっと一緒にいる必要はない。
どこにいるのか、いつも知っている必要もない。
「そのうち帰ってくる」
昼に言った言葉を、もう一度口にする。
今度は、さっきより自然に聞こえた。
ハクアの耳が、小さく動いた。
第42話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ハクアには空き地へ戻る場所がありますが、森へ自由に出ていくことも変わっていません。
主人公も心配しなくなったわけではなく、必要なら自分に分かる範囲だけ探す準備をします。
それでも、離れている時間も含めて一日の暮らしとして受け止められるようになり始めました。




