第40話 立ち止まる理由
第40話です。
同じ道を歩くことが増えても、人とハクアでは見えているものも、聞こえているものも違います。
今回は、その違いを主人公が少しだけ意識するようになります。
朝の水汲みへ向かう頃には、森の中まで十分に明るくなっていた。
「ハクア、水行くぞ」
樹皮の容器を持ち上げて声をかけると、倒木の近くにいたハクアがこちらを見る。
「今日はどうする?」
少し待ってみると、ハクアは身体を起こした。
「来るんだな。じゃあ行くか」
先に歩き出すと、少し遅れて草を踏む音がついてくる。
昨日と同じような朝だった。
火を起こし、水を汲み、食べるものを考える。毎日まったく同じではないけれど、大まかな流れは少しずつ決まってきている。
水場へ向かう道も、もう何度通ったか分からない。
「ここ、根っこ出てるから気をつけないとな」
自分に言いながら盛り上がった根を跨ぐ。
その少し先では、ハクアが俺より前を歩いていた。
まっすぐ道を進む俺とは違い、ときどき横へ鼻を向けたり、木の根元で足を緩めたりする。
「何見てるんだ?」
声をかけると、白い耳がこちらへ向いた。
「まあ、俺に見えてないものなんだろうけど」
匂いなのか、音なのか、それとも俺が気付いていない何かの痕跡なのかは分からない。
犬に近い見た目をしている以上、鼻や耳は俺よりずっと利くだろうとは思っている。
ただ。
「だからって全部分かるわけじゃないよな」
ハクアは森で生きてきた。
それでも、この森にいるもの全部を知っているとは限らない。
「俺だって人間だからって何でも分かるわけじゃないし」
言ってから苦笑する。
「むしろ分からないことばっかりだな」
ハクアがちらりと振り返った。
「今のは否定してくれてもいいんだぞ」
白い顔はそのまま前へ戻る。
「そうですか」
いつもの調子で歩いていた、その時だった。
前を歩くハクアの足が止まった。
「ん?」
俺も数歩遅れて足を止める。
「どうした?」
ハクアはこちらを見ていなかった。
身体は道の先へ向けたまま、顔だけを森の横へ向けている。
耳は立ち、さっきまで緩く下がっていた尻尾も動いていない。
「…………何かいる?」
視線の先を見る。
木々。
低い茂み。
その向こうには少し暗い森が続いている。
少なくとも俺の目には、何も見えない。
「どこだ?」
一歩、そちらへ踏み出しかける。
その足を止めた。
「……いや、行く必要ないか」
以前、水場へ向かう途中で大きな足跡や爪痕を見つけた時のことを思い出す。
知らないものがある。
だから確かめに行く。
それが安全とは限らない。
「ハクア」
呼んでも顔は動かない。
「そんなに気になる?」
返事はない。
俺もその場で耳を澄ませる。
鳥の声。
葉が擦れる音。
どこか遠くで枝が鳴る音。
「…………」
何が普通で、何が違うのか。
森に慣れてきたと言っても、まだ俺には分からないことの方が多い。
「見えないな」
すぐに進むのもやめ、戻るのもやめた。
「じゃあ、ちょっと待つか」
容器を静かに地面へ置く。
見る。
聞く。
待つ。
ハクアが何に反応したのかは分からないが、少なくとも今はいつものように歩いていない。それなら、俺まで急ぐ必要はない。
「…………」
しばらくすると、森の横から、かさりと葉の擦れる音がした。
「今の?」
ハクアの耳がわずかに動く。
もう一度。
少し奥で枝葉が揺れた。
「…………いるな」
姿は見えない。
大きさも分からない。
ただ、風とは違う動き方に見えた。
葉が揺れた場所が、一つ奥へ移る。
さらにその先でも、枝が軽く動いた。
「離れていってる……のか?」
小声で呟く。
断定はできない。
そう見えるだけだ。
俺は動かず、ハクアもそのまま森の横を見ていた。
やがて枝葉の動きがなくなり、少し時間を置いてからハクアの耳が緩む。
「あ」
白い顔が前を向く。
そして、何事もなかったように歩き始めた。
「終わり?」
ハクアは止まらない。
「いや、終わりって言われても分からないけど」
地面へ置いた容器を拾う。
そのまま後ろをついて歩きながら、さっきの場所を一度だけ振り返った。
「何だったんだろうな」
確かめに行く気はない。
何かが離れたのなら、それで十分だ。
水場へ着くと、ハクアはいつものように少し下流へ向かった。
「待った」
思わず声が出た。
ハクアが振り返る。
「いや、お前じゃなくて俺」
水辺へ近付く前に立ち止まり、周囲を見る。
木の間。
地面。
水際。
大きく荒らされた跡はないか、見慣れない足跡がないか。
「…………」
特に分からない。
ハクアも気にしている様子はない。
以前なら、それを見てそのまま「大丈夫そうだ」と思っていたかもしれない。
「ハクアが平気そうだから安全……ってわけじゃないよな」
白い耳がこちらを向く。
「分かる範囲で、自分でも見る」
もう一度、周囲を確認する。
鳥の声は聞こえている。
森の中に妙な静けさがあるようにも感じない。
「よし。俺には変なのは見えない」
そこでようやく水辺へしゃがみ、樹皮の容器へ水を入れる。
ハクアは下流側で水を飲み始めた。
「さっきの何だったんだ?」
聞いてみる。
ハクアは水を飲むだけだ。
「教えてくれたら楽なんだけどな」
顔を上げたハクアの口元から、水がぽたりと落ちる。
「……無理だよな」
少し笑う。
「でも、止まったってことは覚えとく」
水を汲み終え、帰り道へ入る。
さっきハクアが止まった場所が近付くと、自然と歩く速度が遅くなった。
「この辺だったよな」
地面を見る。
落ち葉。
細い枝。
木の根元。
「…………何も分からない」
足跡らしいものは見つからず、枝に毛がついているわけでもない。
「俺には、だけど」
ハクアを見る。
今度は特に立ち止まらず、普通に歩いている。
「今は気にならない?」
耳だけが動く。
「その反応を安全証明にはしないからな」
言いながら、自分でも少しおかしくなる。
「……お前に宣言してどうするんだ」
でも、決めておいた方がいい。
ハクアが止まったら、俺も少し注意する。
だからといって、ハクアが普通に歩いていれば何も警戒しなくていいわけではない。
「俺は俺で見る。お前はお前で見る。それでいいか」
ハクアが一度だけこちらを振り返った。
「今のは同意ってことにしとく」
空き地へ戻る。
水の容器をいつもの場所へ置き、少し腕を休めてから、簡単に描いている地図を取り出した。
水場。
池。
よく使う道。
目印にしている岩や木。
まだ地図と呼ぶにはかなり雑なものだが、自分が歩いた場所を思い出すには役に立っている。
「今日の場所は……」
水場へ向かう途中。
曲がった木を越え、白っぽい岩へ着く少し前。
「この辺かな」
小さな印を一つ付ける。
「何かがいた場所、じゃない」
何だったのかは分からない。
「ハクアが止まった場所」
それだけ。
「…………」
書いてから少し眺める。
「こんなのまで地図に書くようになるとは思わなかったな」
倒木の近くで、ハクアが身体を伏せる。
「でも、また同じところで止まったら何かあるかもしれないし」
一度だけなら、たまたまかもしれない。
何度も続くなら、その時にまた考えればいい。
「分からないなら、分からないまま残しとくか」
地図をしまい、火のそばへ戻る。
ハクアはもう前脚へ顎を乗せていた。
「ハクア」
顔は上がらない。
「今日はありがとな」
片耳だけがこちらへ向く。
「でも、全部お前に任せる気はないから」
今度は顔が少し上がった。
「俺の命なんだから、俺もちゃんと見る」
ハクアはしばらくこちらを見ていたが、やがてまた顎を前脚へ戻した。
「……分かった?」
返事はない。
「まあ、いいか」
俺は焚き火へ細い枝を一本足す。
同じ森を歩いていても、俺とハクアでは気付くものが違う。
どちらかだけで全部を分かろうとする必要はない。
俺に見えないものへハクアが反応することもあれば、俺が自分で確かめなければならないこともある。
「使える情報は使う。でも、任せきりにはしない」
火が小さく揺れる。
「それくらいがちょうどいいよな、ハクア」
今度は白い尻尾の先が、草の上で一度だけ動いた。
第40話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、ハクアが何かに気付いたことで、主人公もその場で立ち止まりました。
ただし、ハクアの反応をそのまま「危険」「安全」の答えにはせず、自分でも見て、聞いて、判断するための情報の一つとして扱っています。
同じ森を歩く一人と一匹が、それぞれ違う感覚を持っていることを少しずつ意識し始めました。




