第39話 名前のある朝
第四章、第39話です。
名前が決まったからといって、朝の暮らしが急に変わるわけではありません。
ただ、いつもの一日の中に、呼ぶことのできる名前が一つ増えました。
目を覚ますと、雨避けの外はまだ朝の薄い光に包まれていた。
森の奥から鳥の声が聞こえ、湿った土と灰の匂いが混じっている。身体を起こして寝床から出ると、夜の間に弱くなった焚き火へ目を向けた。
「残ってるかな」
灰を枝でそっと寄せると、奥に赤い火種が見えた。
「よし、今日も大丈夫そうだ」
乾いた葉と細い枝を重ね、息を吹き込む。白い煙が少し上がったあと、小さな炎が葉の端を舐めるように広がった。
火が戻ったことを確認して顔を上げると、倒木の近くに白い姿がある。
昨日までと変わらない場所で、ハクアが身体を丸めていた。
「おはよう、ハクア」
考えるより先に、その言葉が口から出た。
片方の耳がぴくりと動く。
「……おはよう」
もう一度言うと、今度はゆっくり顔が上がった。
「ちゃんと自分の名前だって分かってるよな」
ハクアはこちらを見るだけで、近付いてはこない。
「まあ、呼んだからって来る必要はないけど」
そう言うと、白い顔が少し横を向いた。
「分かってるって顔?」
返事の代わりに耳が動く。
名前が決まる前なら、「白いやつ」と呼ぶか、そもそも声をかけずに済ませていた場面だ。
今は、そこにいる相手へ自然に向けられる言葉がある。
それだけの違いなのに、妙に口へ馴染んでいた。
「さて、水も行かないとな」
樹皮の容器を確かめる。
大きく漏れているところはない。持ち手代わりの蔓もまだ使えそうだった。
「ハクア、水行くぞ」
容器を持って歩き出す。
数歩進んだところで草を踏む軽い音が後ろから聞こえた。
「今日は来るんだな」
振り返ると、ハクアが少し離れてついてきている。
「別に呼んだから来たってわけじゃないか」
昨日までだって、一緒に水場へ向かうことはあった。
名前をつけた途端、何でも俺の言う通りになるわけではないし、そうなってほしいとも思わない。
森の道を歩く。
ハクアは前へ出たり、少し横へ逸れて匂いを確かめたりしながら進み、俺はいつもの目印を確認しながら水場へ向かった。
右足を地面へつく。
「もう、ほとんど気にならないな」
少し前まで傷めていた足も、普通に歩くぶんには痛みを意識しなくなっていた。
前を歩くハクアを見ると、こちらも右前脚を庇っているような様子はない。
「そっちも良さそうだな」
名前を呼んだわけでもないのに、ハクアの耳がこちらを向いた。
「聞こえてる?」
歩きながら笑う。
水場へ着くと、周囲を見てから樹皮の容器へ水を入れる。
ハクアは少し下流へ移り、直接水へ口をつけた。
「お前は容器いらないからいいよな」
水を飲んでいるハクアへ言う。
「こっちは漏れないか毎回心配なんだぞ」
ハクアが顔を上げ、口元から水を垂らしたままこちらを見る。
「……別に羨ましがってないからな」
何を言っているんだろうと思いながらも、こうして声をかけるのは嫌ではなかった。
空き地へ戻り、水をいつもの場所へ置く。
朝の食事には残っていた木の実と、昨日採っておいた草を使うことにした。
「これで足りるかな」
大きな葉を一枚敷き、食べられる分を乗せていく。
途中で手が止まった。
「…………」
何となく、木の実を二つの塊へ分けていた。
「俺と……ハクア?」
自分でやっておいて少し笑う。
「いや、お前が食べるとは限らないか」
ハクアは倒木のそばで前脚を舐めている。
森へ出れば自分で何かを食べてくるし、俺が用意したものを食べない日もある。昨日だって、俺の知らないところで何をしていたのかは分からない。
「食べるなら置いとくけど、いらなかったら俺が食うぞ」
木の実を少しだけ葉の端へ寄せる。
「ハクア」
呼ぶ。
顔が上がる。
「これ、食べる?」
木の実を指す。
ハクアはしばらくこちらを見ていたが、動かない。
「いらない?」
今度は顔を逸らした。
「分かりやすいな」
木の実を自分の方へ戻す。
「じゃあ、いただきます」
食べ始めると、ハクアはまた前脚へ顎を乗せた。
同じ場所にいるからといって、何でも一緒にする必要はないらしい。
俺が食べる時にハクアも食べる日があれば、そうでない日もある。
「その方が普通か」
木の実を噛みながら呟く。
朝食を終えたあとは、薪を少し集め、使った石片を確認し、棚の上に置いてある植物繊維をまとめ直した。
「ハクア、それ取るぞ」
倒木の近くに落ちていた枝へ手を伸ばす。
名前を呼ばれたハクアは顔を上げたが、枝から離れるわけでもない。
「いや、そこどいてって意味じゃなくて……」
言いかけて止まる。
「名前って、命令じゃないもんな」
少し回り込み、別の角度から枝を取った。
「ほら、これでいい」
ハクアは興味をなくしたように目を閉じる。
呼べば必ずこちらを見るわけでもなく、来るわけでもない。
それでも、必要な時に名前を向けられる。
それで十分だった。
昼を過ぎる頃、ハクアは一度森へ入っていった。
「行ってらっしゃい」
白い背中が木々の間へ消える。
俺はそのまま作業を続けた。
少し前なら、いつ戻るのかと森を気にする時間がもっと長かったかもしれない。
今日は、薪を揃え、火を見て、水の残りを確認しているうちに時間が過ぎた。
「…………」
夕方になり、火へ薪を足す。
食べるものを葉の上へ出しながら、ふと倒木の方を見ると白い姿があった。
「いつ戻ってた?」
ハクアがこちらを見る。
「全然気付かなかった」
森から出てくるところを見逃したらしい。
「まあ、いいか。おかえり、ハクア」
耳が動く。
「腹減ってる?」
呼びかけながら、今日の食べ物を見る。
「これは……食べる?」
少しだけ取り分けて見せると、ハクアが立ち上がった。
「今日は食べるんだ」
近くの葉へ置き、少し距離を空ける。
ハクアが匂いを確かめてから口にする。
「朝はいらなかったのにな」
返事はない。
「森で何食べてるのかも分からないし、毎回俺が用意する必要はないか」
自分の分を手に取る。
一人と一匹で、同じ火のそばにいる。
片方は葉の上の食べ物を食べ、もう片方は少し離れたところで自分の分を食べる。
特別なことは何もない。
火を守り、水を汲み、食べ、森へ出て、戻ってくる。
昨日までだってしていたことだ。
「ハクア」
何となく呼んでみる。
食べていた顔が上がった。
「……いや、何でもない」
ハクアは少しこちらを見たあと、また食事へ戻る。
その様子がおかしくて、小さく笑った。
「名前があるだけで、呼びたくなるんだな」
火がぱちりと鳴る。
ハクアの耳が動いたが、もう火から逃げることはなかった。
朝と同じ。
いつもの火。
いつもの空き地。
いつもの森。
ただ、そこにいる白い姿には名前がある。
「ハクア」
今度は顔を上げない。
「聞こえてるくせに」
白い尻尾の先だけが、草の上で小さく動いた。
それを見て、俺は笑いながら火へ一本だけ薪を足した。
第39話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
名前がついても、ハクアが呼べば必ず来る存在になるわけではありません。
森へ行くのも、食べるのも、休むのも自分で決める。
そんな関係のまま、「おはよう」「行ってらっしゃい」「おかえり」と名前を呼ぶことだけが、少しずつ普通の一日に馴染み始めました。




