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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第四章「一人と一匹の暮らし」

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閑話 帰るところ

第四章、章頭閑話です。


今回はハクアの視点から、名前を受け取ったことと、森の中に「戻る場所」ができるまでを描きます。

あの人間は、少し前から妙なことをしていた。


「そこ、ちょっとどいて」


 言われたから、どく。


「……そっちじゃなくて、こっち」


 今度は指した方へ動く。


 それだけなのに、あの人間は目を丸くしていた。


「お前……言葉、分かってる?」


 何を今さら、と思った。


 声にはいろいろな意味がある。


 来る。


 待つ。


 危ない。


 食べる。


 水。


 あっち。


 こっち。


 全部が分かるわけではない。それでも、何度も聞いていれば、どの音が何を指しているのかくらいは分かる。


 なのに、あの人間はずっと気付いていなかった。


「やっぱ犬って賢いんだなぁ」


 耳が動いた。


 少しだけ顔を逸らす。


「……ん?」


 あの人間は首を傾げた。


 やっぱり、分かっていない。


 そのままにしておいた。


 あの人間は、分からないことが多い。


 森のことも、生き物のことも、時々驚くほど知らない。


 けれど、知らないものへすぐ手を出さないことは覚えてきた。


 危ない場所では止まり、知らないものはよく見て、自分で作ったものが壊れれば何度でも直す。


 最初の頃より、少しだけ森の中で動くのが上手くなった。


 それでも、やっぱり変な人間だった。


 追えば逃げるものを、追わない。


 食べ物を置いても、近付いてこない。


 傷へ触れる時も待ち、嫌なら手を止めた。


 火のそばへ来ても、そこにいろとは言わなかった。


 森へ戻れば、追ってこない。


 だから、また近付いた。


 近付いても大丈夫だったから、もう少し近付いた。


 そうしているうちに、あの人間の声を聞く時間が増えた。


 ある時、その声の中に新しい音が混じった。


「白亜……」


 あの人間がこちらを見ている。


 白い毛を見て、耳を見て、何かを考えているらしい。


「ハクア……うん。ハクア」


 知らない音だった。


 警戒を促す声でも、移動を求める声でもない。


 食べ物でも水でもない。


 ただ、その音を口にする時、あの人間の目はこちらへ向いていた。


「ハクア。どう?」


 もう一度。


 ハクア。


 自分へ向けられた音。


 それは分かった。


「ワフ」


 短く返す。


 尾も一度だけ動いた。


 あの人間の顔が緩む。


「じゃあ決まりな。よろしく、ハクア」


 また、その音。


 それから何度も聞いた。


「ハクア」


 顔を上げる。


「ハクア、そっちいる?」


 耳を向ける。


「おい、ハクア」


 呼ばれただけなら、動かないこともある。


「……来ないのかよ」


 あの人間は少し笑う。


 その音を受け取ったからといって、何かが変わったわけではなかった。


 森へ行きたければ行く。


 水を飲みたければ水場へ向かい、匂いを追いたければ木々の奥へ入る。


 眠る場所も、自分で選べる。


 あの人間も、それを止めなかった。


 だから、その日も森へ入った。


 湿った土を踏み、知っている匂いを確かめながら歩く。


 風の中には小さな獣の匂いがあり、木の上から鳥の声が落ちてくる。水を飲み、少し離れた場所まで歩き、草の柔らかいところで休んだ。


 ここには火の匂いはない。


 木を削る音も、ぶつぶつ話す人間の声も聞こえない。


 いつもの森だった。


 それでいい。


 森は広く、どこへ行くかは自分で決められる。


 けれど、陽が傾き始めると、ふと別の匂いを思い出した。


 煙。


 焼いた魚。


 乾いた草。


 濡れた樹皮。


 それから、あの人間。


 火は今でも少し苦手だった。


 熱く、明るく、突然音を立てる。


 近付きすぎたくはない。


 それでも、あの火の近くなら雨を避けられる場所があり、身体を休められる草がある。


 食べ物がある時もある。


 そして、あの人間がいる。


 近付いても追わず、離れても追ってこない人間。


 妙な声でよく話し、時々失敗して困った顔をして、それでも次の日にはまた何かをしている。


 そのそばには、森の中とは少し違う、変な静けさもあった。


 何なのかは分からない。


 怖いものではない。


 ただ、そこにある。


「…………」


 身体を起こす。


 まだ、森にいてもいい。


 別の場所で眠ってもいい。


 それでも足は、来た道とは少し違う道を通りながら、知っている空き地の方へ向かった。


 近付くにつれて、煙の匂いが濃くなる。


 木々の間に橙色の光が見えた。


 ぱち、と火が弾ける音がして、耳が動く。


 少し足を緩め、それでも止まりはしなかった。


 森を抜ける。


 あの人間がこちらを向いた。


「……おかえり、ハクア」


 知っている音が二つあった。


 おかえり。


 ハクア。


 自分へ向けられている。


「ワフ」


 短く返し、火には近付きすぎないよう少し外を回る。


 倒木のそば。


 何度か身体を休めた場所へ向かい、草の上を一度踏んでから身体を丸めた。


「今日は何してたんだ?」


 あの人間が聞く。


 答えない。


「まあ、聞いても分からないか」


 少し違う。


 聞いていることは、だいたい分かる。


 答えられないだけだ。


「腹減ってる?」


 顔を上げる。


「それは分かるのか?」


 あの人間が笑う。


 やっぱり、少し分かっていない。


 それでよかった。


 火が小さく揺れ、煙が上へ昇っていく。


 近くでは、あの人間が明日の分らしい枝をまとめていた。


 森へ行くことも、どこへ行くかも、自分で決められる。


 ここにいなければならない理由はない。


 明日になれば、また森へ行く。


 遠くまで歩く日もある。


 自分で食べるものを探し、別の場所で休むこともある。


 それでも、陽が傾けば思い出すものができた。


 煙の匂い。


 小さな火。


 乾いた草。


 追ってこない人間。


 そして。


「ハクア」


 こちらを呼ぶ声。


 耳を向ける。


「いや、呼んでみただけ」


 あの人間はそう言って、また火へ顔を戻した。


 何も求められていない。


 だから、こちらも動かない。


 ただ目を閉じる。


 森の音は、ここからでも聞こえている。


 風も、木々も、獣の匂いも消えてはいない。


 森は変わらず、自分が歩く場所だった。


 その森の中に。


 ひとつだけ。


 戻ってくる場所ができていた。

第四章章頭閑話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


ハクアにとって名前を受け取ることは、誰かのものになることではありません。


森を自由に歩き、自分で食べ、自分で戻る。


その自由は何も変わらないまま、陽が傾いた時に思い出す場所と、自分を呼ぶ声が一つ増えました。


第四章は、そんな一人と一匹の暮らしから始まります。

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