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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第三章「白い子犬」

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第38話 一人と一匹

第三章最終話です。


第38話です。


名前がついても、急に何かが変わるわけではありません。


それでも、いつもの一日は少しだけ違って見えるようになりました。

朝。


 目を覚ますと、屋根の外はすでに明るくなっていた。


「…………」


 身体を起こす。


 火を見る。


 まだ少し残っている。


 水。


 昨日の分が少し。


 薪。


 問題なし。


「よし」


 いつもの確認を終えて、外へ出る。


「…………」


 ハクアはいた。


 倒木のそば。


 いつもの乾いた草の上ではなく、そこから少し離れた地面で身体を丸くして眠っている。


「…………」


 名前をつけた翌朝。


 だからといって、何かが変わるわけではなかった。


「おはよう、ハクア」


 白い耳が動く。


「…………」


 目は開かない。


「起きてるだろ」


 もう一度耳が動いた。


「…………」


「絶対起きてるじゃん」


 少し笑って、俺は火の方へ戻った。


 細い薪を足す。


 朝のうちに水も汲んでおきたい。


 樹皮の入れ物を手に取り、森の方を見る。


「水行ってくるけど」


 ハクアを見る。


「…………」


 まだ寝ている。


「今日は来ない?」


 返事はない。


「まあいいか」


 歩き出す。


 空き地の端まで来たところで。


 後ろから草を踏む音がした。


「…………」


 振り返る。


 ハクア。


「起きてたじゃん」


 少し眠そうな顔で歩いてくる。


「行く?」


 白い耳がこちらを向く。


「じゃあ行こうか」


 森へ入る。


 俺が前。


 ハクアが少し横。


 昨日までと同じ。


 いや。


「…………」


 名前を知っているせいだろうか。


 何となく。


 違って感じる。


「ハクア」


 呼んでみる。


 白い顔がこちらを向く。


「…………」


「何でもない」


 前を向く。


 少し歩く。


「ハクア」


 またこちらを見る。


「…………」


「いや、ちょっと呼んでみただけ」


 ハクアの耳がぴくりと動いた。


「ごめんって」


 昨日までなら。


 白いやつ。


 そう呼んでいた。


 今は。


「ハクア」


 呼べば、こいつのことだとはっきり分かる。


「名前って便利だな」


 当たり前のことを今さら思う。


 泉へ着く。


 俺が水を汲んでいる間、ハクアは少し離れたところで水を飲んだ。


「…………」


 最初にこいつへ水を置いた時のことを思い出す。


 近付けば逃げた。


 だから、離れた場所へ水を置いた。


 俺は十数メートルも離れて。


 ハクアが飲むところを見ていた。


「…………」


 今は。


 俺の数メートル先。


 普通に水を飲んでいる。


「変わったなぁ」


 ハクアが顔を上げた。


「お前のこと」


 水の付いた鼻先。


「最初、全然近付けなかっただろ」


 もちろん返事はない。


「俺も近付かないようにしてたけど」


 無理に距離を詰めたら、たぶん今こうなっていない。


「…………」


 急がなくてよかった。


 そう思う。


「帰るか、ハクア」


 白い耳が動く。


 俺が歩き出す。


 ハクアも歩く。


「…………」


 帰り道。


 今日は俺の方が少し後ろになった。


 ハクアが前を歩いている。


 ときどき止まり。


 何かの匂いを嗅ぎ。


 また進む。


「そっち?」


 俺がいつもの道から少し外れそうになると、ハクアが振り返る。


「…………」


「いや、俺も道は分かるからな?」


 言いながら。


 結局。


 ハクアが進んだ方へ行く。


「…………」


「別に案内されたわけじゃないから」


 誰に言い訳しているのか分からない。


 空き地へ戻る。


「ただいま」


 何となく口から出た。


「…………」


 誰に言ったわけでもない。


 ハクアは俺より先に空き地へ入り、そのまま倒木の方へ歩いていく。


「…………」


「お前は帰ってきた感ないの?」


 ハクアが振り返る。


「まあ、いいけど」


 汲んできた水を置く。


 そこからは、いつもの作業だった。


 乾かしている薪の向きを変える。


 屋根の様子を見る。


 昨日直したところが崩れていないか確認する。


 棚の上を整理する。


 石片の刃も確認する。


「これはもう駄目かな」


 端が欠けている。


 別の石へ替えた方がいいかもしれない。


「…………」


 作業台の近くに座り込む。


 石を手に取り。


 少し削る。


「…………」


 しばらくして。


 視界の端に白いものが見えた。


 ハクアだ。


 俺から少し離れたところ。


 伏せている。


「…………」


 目を閉じている。


「寝た?」


 耳だけ動く。


「起きてる?」


 また耳。


「…………」


「どっちだよ」


 返事はない。


 俺は笑って、石へ視線を戻す。


 こつ。


 こつ。


 小さく削る。


 前なら。


 ハクアがこんなに近くで寝ることはなかった。


 俺の作業音がしている間に、身体を伏せることも。


「…………」


 俺も。


 こいつが近くにいても。


 いちいち気にしなくなった。


 作業をする。


 ハクアは寝る。


 それだけ。


「…………」


 昼近く。


 腹が減ったので作業を止めた。


「飯にするか」


 残していた木の実。


 食べられる草。


 少し前に採ったものを確認する。


「今日も豪華ではないな」


 昨日までの肉はもうない。


「…………」


 ハクアを見る。


 いつの間にか目を開けている。


「食う?」


 いくつか分ける。


 ハクアが近付いてくる。


「…………」


 もう。


 食べ物を置いて、俺が遠くへ離れることもない。


 俺の分。


 ハクアの分。


 それぞれ置く。


「はい」


 ハクアが食べ始める。


 俺も食べる。


「…………」


 特別なものはない。


 味付けもない。


 ただの木の実と草。


 それでも。


「こういうのでいいんだろうな」


 毎日何か大きなことが起きるわけではない。


 火を維持して。


 水を汲んで。


 食べるものを探して。


 道具を直して。


 寝る。


「…………」


 そこに。


 今はハクアがいる。


 それだけだった。


 昼を過ぎて。


 少し日が高くなった頃。


 俺は屋根の横で木材を触っていた。


「ここ、もう少し補強したいな」


 雨の時に弱かった部分。


 太めの枝を一本増やせば、次は少し安心できるかもしれない。


「…………」


 長さを測る。


 石斧を持つ。


「今度は足に落とさないように」


 自分に言い聞かせる。


 ハクアは。


「…………」


 いない。


「ん?」


 手を止める。


 倒木。


 いない。


 乾いた草のところ。


 いない。


 屋根の端。


「…………」


 いない。


「ハクア?」


 呼ぶ。


「…………」


 返事はない。


 森を見る。


「…………」


 白い姿はない。


「いつの間に」


 さっきまでいた。


 たぶん。


 俺が木材のことを考えていた間に。


 森へ入ったのだろう。


「…………」


 別に。


 珍しいことではない。


 これまでも森へ戻ることはあった。


 一日中ずっとここにいるわけじゃない。


「…………」


 でも。


「名前つけた次の日にいなくなると、ちょっと気になるな」


 森の方を見る。


 静か。


「…………」


 追う?


 その考えが浮かぶ。


 でも。


「いや」


 やめた。


「飼ってるわけじゃないしな」


 ハクアは森で暮らしてきた。


 俺が名前をつけたからといって、ここに縛られる理由はない。


 行きたいところがあるなら行けばいい。


「…………」


 それに。


 俺が追いかけたところで。


 森の中ではハクアの方がずっと速い。


「戻りたくなったら戻るだろ」


 そう言って。


 作業へ戻る。


「…………」


 枝を見る。


 石斧。


 位置。


「ここを……」


 振る。


 こつ。


「…………」


 もう一度。


 こつ。


「…………」


 森を見る。


「…………」


「集中しろ」


 自分に言う。


 木材へ戻る。


 少し削る。


「…………」


 また森を見る。


「…………」


「気になるじゃん」


 思わず口に出た。


 昨日。


 名前をつけた。


 呼べばこっちを見るようになった。


 今朝も一緒に水を汲みに行った。


 昼も近くで寝ていた。


 だから。


 いないと。


「…………」


 静かに感じる。


「前はこれが普通だったのにな」


 一人。


 森。


 火。


 作業音。


「…………」


 ずっと。


 そうだった。


 それが今は。


 白い姿がないだけで。


 何か一つ足りない。


「慣れるって怖いな」


 苦笑する。


「…………」


 でも。


 追わない。


 待つとも決めない。


 俺は俺のことをする。


 ハクアはハクアのことをする。


「それでいいだろ」


 作業を続けた。


 しばらくすると。


 少しずつ空が暗くなってくる。


「…………」


 夕方。


 火へ薪を足す。


 今日作っていた補強材は、まだ完成していない。


「続きは明日だな」


 片付ける。


 水を確認する。


 夕食の準備。


「…………」


 森を見る。


「まだか」


 つい口に出る。


「…………」


 いや。


「何時に帰ってくるとか決めてないから」


 そもそも。


 帰ってくるとも限らない。


「…………」


 その考えに。


 少しだけ手が止まった。


 ハクアが。


 このまま森へ戻って。


 もう来ない。


「…………」


 あり得る。


 別に。


 おかしなことじゃない。


 最初から森の生き物だった。


 俺のところへ来ていただけ。


「…………」


 それでも。


「まあ」


 火を見る。


「来たら飯くらいは分けるけど」


 誰もいない森へ言う。


「…………」


 夕食を食べ始める。


 一口。


 もう一口。


「…………」


 少し。


 残しておこうか。


「…………」


「いや」


 止めた。


「そういうのも違うか」


 来ると決まっていない相手の分を毎回取っておくのも変だ。


 食べ物は貴重だ。


「…………」


 自分の分を食べる。


 火がぱちりと鳴る。


 森が少しずつ暗くなる。


「…………」


 その時。


 かさ。


「ん?」


 音。


 森。


 俺は顔を上げる。


「…………」


 茂みが動いた。


 白。


「…………」


「あ」


 木々の間から。


 ハクアが出てきた。


「…………」


 いつもと同じ。


 白い毛。


 少し銀色に見える耳の先。


 何か獲物を持っているわけでもない。


 ただ。


 森から戻ってきた。


「…………」


 俺は。


 何となく。


 口を開いた。


「……おかえり、ハクア」


 ハクアが止まる。


「…………」


 こちらを見る。


 耳が立つ。


「…………」


「ワフ」


 短い声。


「…………」


 尻尾が一度。


 小さく揺れた。


「…………」


 俺は笑った。


「何してたんだよ」


 もちろん答えない。


「まあ、いいけど」


 ハクアはそのまま空き地へ入ってくる。


 火から少し離れたところを通り。


 倒木の近くへ。


「飯、もう食った?」


 耳が動く。


「…………」


「分かんないか」


 俺は自分の食べ物を見る。


 少しだけ残っている。


「食う?」


 半分ほど分ける。


「今日だけだからな」


 平たい樹皮へ置く。


 ハクアが近付く。


「…………」


 食べ始めた。


 俺も残りを食べる。


「…………」


 何だろう。


 別に。


 ハクアが帰ってきたからといって。


 何か特別なことが起こるわけじゃない。


 火は同じ。


 屋根も同じ。


 倒木も。


 棚も。


 薪も。


 全部。


 昨日までと変わらない。


「…………」


 ただ。


「おかえり、か」


 口にした言葉を思い出す。


 自然に出た。


「…………」


 帰ってきた。


 そう思った。


 森から。


 ここへ。


「…………」


 ハクアが食べ終える。


 そのまま倒木のそばへ向かい、身体を丸くする。


「…………」


 俺も屋根の下へ座る。


 火を見る。


 その向こう。


 白い姿。


「…………」


 この場所は。


 最初。


 俺一人が生きるために作り始めた。


 火を起こした。


 水を運んだ。


 寝る場所を作った。


 薪を集めた。


 棚を作った。


 屋根を作った。


「…………」


 少しずつ。


 ただ、生き延びる場所から。


 暮らす場所になっていった。


 そして。


 いつの間にか。


「…………」


 俺以外にも。


 ここへ戻ってくるやつがいる。


「ハクア」


 呼ぶ。


 白い耳がこちらへ向く。


「…………」


「何でもない」


 俺は火へ薪を一本足した。


 ぱち。


 火の粉が小さく上がる。


 ハクアの耳が少し動く。


 でも。


 逃げない。


「…………」


 一人。


 だった。


 今も。


 人間は一人。


「…………」


 でも。


 完全に一人ではない。


 火のそば。


 屋根の近く。


 同じ場所へ戻ってくる。


 一人と一匹。


「…………」


 そんな暮らしが。


 いつの間にか。


 始まっていた。


 第三章 白い子犬 了

第38話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


これで第三章「白い子犬」は完結です。


遠くから姿を見るだけだった白い存在は、少しずつ主人公との距離を縮め、「ハクア」という名前を持ち、同じ場所へ戻ってくる存在になりました。


次章からは、一人で作ってきた暮らしが「一人と一匹の暮らし」へ少しずつ変わっていきます。

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