第37話 ハクア
第37話です。
いつの間にか、そばにいることが当たり前になりつつある白いやつ。
そろそろ「白いやつ」では呼びにくくなってきました。
雨が上がってから一日。
森にはまだ湿った匂いが残っていた。
朝のうちに火を整え、昨日広げておいた薪の様子を見る。
「こっちはもう少しかな」
表面は乾いてきている。
細い枝なら使えそうだが、太いものはまだ湿っていた。
「急いで燃やす必要もないか」
乾いている薪は別にある。
濡れたものは、しばらくこのまま乾かしておけばいい。
屋根の方も見上げる。
雨漏りしたところへ樹皮を何枚か重ね直した。
これで次の雨を完全に防げるとは思わないが、少なくとも前よりはマシなはずだ。
「…………」
作業を終えて振り返る。
白いやつがいた。
倒木の近く。
前脚を伸ばして伏せている。
「…………」
最近、本当にいるな。
朝起きてもいる。
水を汲みに行けばついてくる。
採集へ行く時も。
作業している時も。
ずっと隣にいるわけではない。
森へふらっと入っていくこともある。
でも。
気が付くと戻っている。
「…………」
少し前まで。
森の奥に白い影が見えただけで、今日は来たな、と思っていた。
それが今では。
「そこにいるの普通になってきたな」
白い耳がこちらを向く。
「ほら」
また反応した。
「…………」
昨日から、こいつの反応が妙に気になる。
言葉が分かっているんじゃないか。
一瞬そんなことまで考えた。
でも。
「賢いだけなんだろうな」
俺の声。
目線。
手の動き。
そういうものをよく見ているのだと思う。
「犬って人間のこと結構見るらしいし」
「…………」
白いやつが顔を逸らした。
「またそれ?」
昨日も「犬」と言った時、似たような反応をしていた。
「そんな嫌?」
白い耳がぴくりと動く。
「…………」
「いや、分からないけど」
本当に犬なのかも分かっていない。
見た目は犬にも見える。
狼にも見える。
でも。
森の中で一匹で生きている。
俺の知らない生き物かもしれない。
「ずっと犬扱いも失礼だったりする?」
白いやつはこちらを見た。
「…………」
「何か言ってよ」
もちろん返事はない。
「知ってる」
少し笑う。
火の近くへ戻り、朝に食べる木の実を取り出す。
白いやつにも一つ置く。
「食べる?」
白いやつが近付いてきた。
「…………」
やっぱり。
こうして近くで見ると。
「白いな」
今さらな感想だった。
身体のほとんどは白い毛に覆われている。
ただ、全部が真っ白というわけではない。
耳の先。
背中の一部。
尻尾の先。
光の加減によっては、そこだけ薄い銀灰色に見える。
「前から思ってたけど、きれいだよな」
白いやつが木の実を食べる。
「…………」
食べ終わる。
こちらを見る。
「何?」
また耳が動く。
「…………」
そこで。
ふと思った。
「そういえば」
こいつを何と呼べばいいんだろう。
「…………」
今までずっと。
「お前」
とか。
「白いやつ」
とか。
それで済ませてきた。
別に困ってはいなかった。
俺しか呼ぶ人間もいない。
こいつだって、自分が何と呼ばれているかなんて気にしていない。
たぶん。
「…………」
でも。
「ずっとお前とか白いやつって呼ぶのも変だよな」
口に出すと。
急に、本当に変な気がしてきた。
「今さらだけど」
白いやつを見る。
向こうも俺を見ている。
「名前、ないの?」
「…………」
「あるかもしれないよな」
俺が知らないだけで。
もし同じ種類の仲間がいて。
こいつらなりに呼び合う方法があるのなら。
「…………」
でも。
俺には分からない。
「じゃあ、俺が呼ぶ名前くらいあってもいいか」
白いやつの耳が少し立った。
「…………」
「今の分かった?」
まただ。
「まあいいや」
名前。
そう言われても。
「難しいな」
何か特徴。
「白い」
真っ先に出てくる。
「白」
シロ。
「…………」
「いや、シロはそのまますぎるな」
白いやつがこちらを見る。
「別にシロが悪いわけじゃないけど」
なんとなく違う。
「…………」
白い毛。
銀色が少し混じる。
「雪……」
雪。
「…………」
この森でまだ雪を見ていない。
そもそも降るのかも分からない。
「それも違うか」
白いやつは座ったまま、こちらを見ている。
「お前も何か考えてよ」
「…………」
「無茶言ってるな、俺」
思わず笑う。
名前なんて。
今まで誰かにつけることなんてなかった。
「白……」
もう一度呟く。
白い。
白。
その字から。
ふと、一つの言葉が浮かんだ。
「白亜……」
口にしてみる。
「…………」
悪くない気がした。
白い毛。
少しだけ銀灰色の混じった身体。
「ハクア」
今度は声にする。
白いやつを見る。
「…………」
耳が。
ぴん。
と立った。
「ん?」
白いやつはこちらを見ている。
「ハクア」
もう一度。
「どう?」
「…………」
少し間があった。
白いやつの鼻が動く。
そして。
「ワフ」
「…………」
短い声。
尻尾が一度。
ぱた。
地面を叩いた。
「…………」
「それ、いいってこと?」
白いやつ。
いや。
「ハクア?」
呼ぶ。
白い耳がこちらへ向く。
「…………」
「反応した」
偶然。
かもしれない。
昨日からそんなことばかり考えている。
「でも」
もう一度。
「ハクア」
今度は、白いやつが少しだけこちらへ近付いた。
「…………」
俺は思わず笑った。
「じゃあ決まりな」
名前。
ハクア。
「…………」
口にすると。
不思議なくらい馴染んだ。
「ハクア」
今まで「白いやつ」だったものに。
一つ。
呼ぶための言葉ができた。
「…………」
ハクアは俺の少し前へ座る。
「何か変な感じするな」
名前をつけただけだ。
何かが大きく変わったわけではない。
ハクアが俺のものになったわけでもない。
これからずっとここにいると決まったわけでもない。
森へ帰りたければ帰るだろう。
「…………」
それでも。
「白いやつ、よりはいいか」
ハクアの頭を見る。
少し前なら。
手を伸ばすだけでも気を遣った。
今は。
「触っていい?」
手をゆっくり近付ける。
ハクアは逃げない。
鼻先が俺の指の匂いを嗅ぐ。
そのまま。
頭の横へ軽く触れた。
「…………」
柔らかい。
「ハクア」
呼びながら。
耳の付け根あたりを一度撫でる。
ハクアは少し目を細めた。
「…………」
「気に入った?」
返事はない。
でも。
逃げもしない。
「まあ、それで十分か」
手を離す。
ハクアは一度身体を伸ばすと、倒木の近くへ戻っていった。
「…………」
俺も作業へ戻ろうとする。
そこで。
「ハクア」
試しに呼んだ。
「…………」
倒木のところで。
白い顔がこちらを向いた。
「…………」
「やっぱ反応する」
俺は笑う。
「覚えるの早すぎない?」
昨日のことを思い出す。
賢い。
本当に。
「…………」
でも。
今はそれより。
「ハクア、か」
口の中でもう一度確かめる。
「うん」
悪くない。
森の中。
火。
屋根。
倒木。
作りかけの棚。
乾かしている薪。
そして。
そこに伏せている。
「ハクア」
今までと同じ白い姿なのに。
名前が一つ増えただけで。
ほんの少し。
近くなったような気がした。
第37話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
これまで「白いやつ」と呼ばれていた存在に、ようやく「ハクア」という呼び名が付きました。
名前が決まっても、飼う・飼われるという関係ではありません。
今のところは、同じ場所へ戻り、少しずつ距離を縮めている一人と一匹です。




