第36話 言葉、わかるのか?
第36話です。
雨の夜を同じ屋根の下で過ごした翌朝。
何気なく口にした一言から、白いやつの賢さが少し気になり始めます。
朝。
目を覚ますと、雨の音は消えていた。
「…………」
代わりに聞こえるのは、葉から落ちる水滴の音と、少し遠くで鳴いている鳥の声。
身体を起こし、屋根の外を見る。
「止んだか」
空はまだ薄く曇っているが、昨日のような暗さはない。
地面は完全に濡れている。
あちこちに小さな水溜まりができ、焚き火の周囲も湿っていた。
「火は……」
昨夜残しておいた場所を見る。
「消えてるな」
完全に冷え切っているわけではない。
灰の中を木の枝で探ってみると、奥にわずかに熱が残っていた。
「これなら戻せるか?」
乾いた細枝を寄せる。
昨日、屋根の奥へ避難させておいたものだ。
「取っといてよかった」
雨に濡れた枝では、また最初から苦労するところだった。
灰の中の熱へ細い枯れ草を近付け、息を吹きかける。
「ふー……」
少し待つ。
「…………」
煙。
「お」
もう一度。
「ふー……」
小さな赤い点が広がる。
細枝を足す。
「…………」
やがて。
小さな炎が立った。
「よし」
何度やっても、火が戻る瞬間は少し安心する。
「これで朝は何とかなるな」
そこで。
視界の端に白いものが入った。
「…………」
白いやつだ。
昨日と同じ、屋根の端。
身体を丸くしたまま眠っている。
「まだ寝てる」
珍しい。
俺が起きれば、先に起きていることの方が多かった。
「昨日あんまり寝られなかったのか?」
強い雨。
風。
それから、夜に聞こえた正体不明の声。
白いやつは森へ向かって唸っていた。
「…………」
結局、あれが何だったのかは分からない。
朝になってみても、拠点の周りに変わったものは見えなかった。
「あとでちょっと見てみるか」
すぐ近くに痕跡があるなら確認したい。
でも、わざわざ遠くまで探しには行かない。
何か危険なものなら、見つけるために近付く方が危ない。
「まず朝飯だな」
俺は屋根の下に置いていたものへ手を伸ばす。
その時。
「…………」
白いやつの身体が邪魔になっていることに気付いた。
正確には、俺が取りたい樹皮の入れ物のすぐ前に寝ている。
「そこ邪魔だから、ちょっとどいて」
何気なく言った。
「…………」
白い耳が動く。
目が開く。
「起こした?」
白いやつは顔を上げ。
俺を見る。
それから。
すっと立ち上がった。
一歩。
二歩。
横へ移動する。
「ありがと」
空いた場所から入れ物を取る。
「…………」
中身を確認する。
木の実。
問題ない。
「昨日濡れなくてよかったな」
一つ手に取ったところで。
動きが止まった。
「…………」
今。
何か。
妙に自然じゃなかったか?
振り返る。
白いやつは少し離れた場所で座っている。
「…………」
俺が邪魔だからどいてと言った。
こいつが動いた。
「いや」
偶然だろう。
俺が手を伸ばしたから、その動きに反応しただけかもしれない。
「前から結構、人の動き見てるしな」
声。
手。
身体の向き。
犬だって人間のそういうものをよく見る、と聞いた覚えがある。
「…………」
犬。
なのか?
そこもまだ分からないが。
「まあ、犬っぽいし」
白いやつがこちらを見る。
「…………」
「何?」
耳が一度動いた。
「いや、何でもない」
朝食を済ませる。
火も少し安定した。
その頃には白いやつも屋根の外へ出て、濡れた地面の匂いを嗅いでいた。
「雨の後って匂い違うのかな」
俺には湿った土と木の匂いが強いくらいしか分からない。
白いやつは何度も鼻を動かしている。
「…………」
俺も外へ出る。
雨漏りした場所を確認する。
「ここ」
屋根を見上げる。
「ここと……あっちもだな」
昨日、水が落ちてきた場所を覚えているうちに見ておく。
樹皮の重なりが浅い。
葉がずれている。
風で動いたところもある。
「乾いてから直すか」
濡れた状態で触ると、余計に崩しそうだ。
薪置き場も見る。
「…………」
表面は濡れている。
中の方は。
「少しマシ」
全部駄目になったわけではない。
「屋根、増やした方がいいな」
寝る場所だけではなく。
薪。
材料。
作業する場所。
雨の日を一度経験すると、欲しいものが増える。
「まあ、一気には無理か」
今日できることをやる。
それだけだ。
まず濡れたものを乾かす。
日が出れば、もっとやりやすい。
「…………」
木の枝をいくつか動かそうとすると。
白いやつが近くへ来た。
「ん?」
作業場所の端に座る。
「そこで見るの?」
白いやつは動かない。
「別にいいけど」
濡れた枝を分ける。
乾いているもの。
少し湿っているもの。
完全に濡れているもの。
「こっちは後だな」
枝を置く。
また取る。
その途中で。
「あ」
白いやつが、ちょうど置きたい場所に座っていた。
「そこじゃなくて、こっち」
手で少し横を示す。
「その辺」
白いやつは俺の手を見る。
それから。
立ち上がった。
「…………」
俺が指した方へ。
数歩。
移動した。
「…………」
今度は。
俺の手が止まる。
「え?」
白いやつは何事もなかったように座る。
「…………」
いや。
待て。
一回なら偶然。
二回目は?
「今の分かった?」
白いやつを見る。
白いやつも俺を見る。
「…………」
耳が動く。
「いや、でも手で指したしな」
指差し。
犬なら分かることもある。
確か、そんな話を聞いたことがある。
「犬って、人が指した方見たりするんだっけ」
白いやつを見る。
「お前、犬なの?」
白いやつが少し首を傾げた。
「…………」
「聞いても分からないか」
作業へ戻ろうとして。
止まる。
「…………」
気になる。
「ちょっと試していい?」
当然、許可の返事はない。
「…………」
白いやつは座っている。
俺は一度、手を後ろへ回した。
できるだけ身振りを使わない。
「立って」
言ってみる。
「…………」
白いやつ。
座ったまま。
「ですよね」
何をやっているんだ俺は。
「そんな簡単なわけないか」
少し恥ずかしくなる。
そもそも。
立って、なんて言葉を教えた覚えもない。
「…………」
白いやつが立ち上がった。
「え」
数秒遅れて。
普通に。
「…………」
いや。
「今のは違う」
たまたま立ちたかっただけ。
「絶対偶然」
白いやつは少し歩き、地面の匂いを嗅ぐ。
「ほら」
俺の指示とは関係ない。
「…………」
そう思うのに。
気になる。
「じゃあ」
俺は白いやつを見る。
「そっちじゃなくて、こっち」
今度は手を大きく動かさない。
自分の横の地面を、一度だけ軽く叩く。
「こっち」
白いやつが顔を上げる。
「…………」
俺を見る。
地面を見る。
数秒。
「…………」
歩いてきた。
「え?」
俺の方へ。
一歩。
二歩。
そのまま、俺が示した場所の近くで止まる。
「…………」
近い。
「お前……」
白いやつを見下ろす。
白いやつが見上げる。
「言葉分かってる?」
「…………」
白いやつは。
こてん。
首を傾げた。
「…………」
「いや、その反応もそれっぽいな」
偶然?
声の調子?
目線?
指を動かしたから?
「…………」
分からない。
でも。
これまでのことを思い返す。
「食っていいよ」
そう言った時。
白いやつは食べた。
「来る?」
そう聞けば、ついてきたこともある。
「無理すんなよ」
言えば耳を動かす。
「…………」
ただ。
「全部、俺の動き見れば分かるか」
食べ物を置けば、食べていいと分かる。
俺が森へ向かえば、ついていく。
声の調子だってある。
昨日の雨の時も、屋根を指していた。
「言葉そのものっていうより」
人間の様子を読むのが上手い?
「…………」
白いやつを見る。
「お前、めちゃくちゃ賢いな」
白い耳が動く。
「犬ってこんな賢いんだっけ」
「…………」
白いやつの耳が。
ぴく。
もう一度動いた。
「ん?」
そして。
すっ。
顔を横へ向けた。
「…………」
「何でそっち向くの?」
白いやつは俺を見ない。
「…………」
「犬って言ったの嫌だった?」
まさか。
「そんなわけないか」
犬かどうかすら分からないのに。
「狼っぽくもあるけど」
白いやつの耳がまた動いた。
「…………」
「どっち?」
当然答えない。
「いや、そもそも二択じゃないか」
ここは別の世界だ。
前世にいない生き物かもしれない。
「白いやつは白いやつでいいか」
白いやつがこちらを見た。
「…………」
「そこは反応するんだ」
妙にタイミングがいい。
「やっぱ賢いなぁ」
俺は笑って作業へ戻った。
濡れた薪を並べる。
屋根の傷んだ場所を見る。
白いやつはしばらく俺の近くにいたが、そのうち倒木の方へ歩いていった。
「…………」
でも。
どうしても少し気になる。
俺の言葉。
どこまで分かっているんだろう。
「…………」
試す?
いや。
「やめとくか」
何度も命令みたいなことをするのも変だ。
飼っているわけじゃない。
芸を教えたいわけでもない。
「話しかけて反応するくらいでいいよな」
それに。
もし本当に言葉を理解していたら。
「…………」
俺。
今まで結構いろいろ喋ってない?
「…………」
独り言。
いっぱい。
「うわ」
急に恥ずかしくなった。
「いやいや」
分かるはずがない。
たぶん。
「声とか雰囲気だって」
そうだ。
そういうことにしておこう。
白いやつを見る。
「…………」
倒木のそば。
こっちを見ている。
「聞いてないよな?」
白い耳が。
ぴくり。
「…………」
「タイミング良すぎるんだよ」
思わず笑う。
白いやつはまた顔を逸らした。
「…………」
雨上がりの森から。
水滴が落ちる。
鳥が鳴く。
湿った空気の中。
火から細い煙が上がっている。
俺は濡れた枝を一本持ち上げる。
「まあ」
白いやつを見る。
「賢い犬ってことで」
白いやつの耳が。
ぴくっ。
「…………」
今度は。
明らかに俺とは反対の方へ顔を向けた。
「何だよ」
少し笑う。
「犬、嫌なの?」
返事はない。
もちろん。
あるはずもない。
「…………」
ただ。
白い尻尾が。
一度だけ。
地面を小さく叩いた。
第36話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
主人公は白いやつの反応に違和感を持ち始めましたが、まだ「言葉を理解している」とまでは考えていません。
今のところは、人の声や視線、身振りを読むのがとても上手な、賢い犬のような存在だと思っています。




