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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第三章「白い子犬」

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第35話 雨の夜

第35話です。


森を一緒に歩くようになった白いやつ。


今度は、雨によっていつもとは少し違う夜を過ごすことになります。

朝から、空の様子がおかしかった。


「降りそうだな」


 木々の隙間から見える空は灰色で、いつもよりずっと暗い。


 風も湿っている。


 前世なら天気予報を見れば済んだ話だけれど、当然そんなものはない。


 頼れるのは空と風と、自分の感覚だけだ。


「今日は遠くに行かない方がよさそうだな」


 昨日採ってきた木の実と草はまだ残っている。


 水も朝のうちに汲んでおけば、少しくらい雨が続いても困らない。


 俺は樹皮の水入れを持ち上げた。


「先に水だけ行くか」


 倒木の近くにいた白いやつが顔を上げる。


「来る?」


 聞くと、白いやつは立ち上がった。


「…………」


 もう、ついてくること自体に驚かなくなってきた。


 少し前なら森へ入る俺を遠くから見ていたのに、今では数メートル離れたところを普通に歩いている。


「慣れるの早いな」


 俺が言うと、白い耳がぴくりと動いた。


 泉までの道を歩く。


 右足はほとんど気にならない。


 昨日よりさらに良くなっていた。


「これならもう大丈夫そうだな」


 白いやつの右前脚も同じだ。


 歩き方に変なところはほぼない。


 巻いていた布は昨日のうちにかなり緩んでいて、このまま残しておく方が邪魔そうだった。


 泉から戻ったあと、様子を見て外してやろう。


「お互い、治ってきたな」


 白いやつは前を向いたまま歩いている。


「…………」


 まあ、返事はない。


 泉へ着き、水を汲む。


 帰り道。


 ぽつ。


「ん?」


 頬に何か当たった。


 見上げる。


 ぽつ。


 また一つ。


「来たか」


 白いやつも空を見上げている。


「急ごう」


 歩く速度を少し上げる。


 白いやつも自然に歩調を合わせた。


 最初はまばらだった雨粒が、拠点へ戻る頃にははっきり分かるほど増えていた。


「間に合った」


 水を屋根の下へ置く。


 次に薪。


「こっちも濡らしたくないな」


 乾いている薪をできるだけ屋根の奥へ寄せる。


 全部は入らない。


 薪置き場にも簡単な覆いはあるが、横から吹き込めば濡れるだろう。


「もっとちゃんとした屋根、欲しいなぁ」


 今の屋根は、雨を完全に防ぐものではない。


 枝を組み、樹皮や葉を重ねただけの簡単なものだ。


 少しの雨なら何とかなる。


 でも。


 ざああああ。


「…………」


 雨脚が一気に強くなった。


「これはちょっと話が違う」


 屋根を叩く音が大きくなる。


 あちこちから水が落ち始めた。


「そこ漏れるのか」


 ぽた。


 ぽた。


「こっちも?」


 別の場所からも落ちる。


「…………」


 俺は慌てて寝る場所の近くに置いていたものを移動させた。


 完全に濡れない場所は少ない。


 屋根の中央寄り。


 倒木に近い側。


 比較的厚く樹皮を重ねたところ。


「前の雨でも少し吹き込んだけど、ここまでじゃなかったな」


 屋根を直してからも、強い雨にはまだ弱いらしい。


 これだけ強く降ると、粗が一気に見える。


「次、直さないと」


 雨が止んでからだ。


 今やっても、濡れた葉や樹皮を相手にするだけになる。


 焚き火も心配だった。


 完全に屋根の中ではない。


 火の近くまで屋根を伸ばせば燃え移る危険があるから、少し外へずらしてある。


 それでも雨が強ければ消える。


「火だけは残したいな」


 燃えている薪を寄せる。


 大きく燃やしすぎない。


 雨が直接入りにくい位置で、熾火を残す。


「…………」


 白いやつは倒木の近くにいた。


 雨の届きにくい場所へ身体を寄せている。


「そっちも濡れるだろ」


 白いやつの背中には、すでに細かな水滴が付いていた。


「…………」


 いつもなら。


 夕方になれば森へ戻ることが多い。


 最近は拠点に残る時間が長くなっているけれど、夜を全部ここで過ごすわけではなかった。


 でも今日は。


「この雨で森戻るのか?」


 白いやつがこちらを見る。


「…………」


 雨は強くなるばかりだった。


 風まで出てきた。


 木々が揺れる。


 葉が擦れ合い、雨音に混じって低い音を立てる。


「別に無理して戻らなくてもいいんだけど」


 俺は屋根の端を見る。


 広いとは言えない。


 俺が寝ればそれだけでかなり場所を使う。


 水。


 薪。


 道具。


 そこへ白いやつまで入れば、余裕はほとんどない。


 でも。


「一匹くらいなら入れるか」


 白いやつを見る。


「今日はここにいたら?」


 屋根の端を指す。


「そこなら、少なくとも雨はマシだぞ」


 白いやつは動かなかった。


 俺を見る。


 屋根を見る。


 また俺を見る。


「…………」


「別にこっちまで来なくていいから」


 自分がいる場所とは少し距離を取った端を指す。


「その辺」


 白いやつはまだ動かない。


「嫌ならいいけど」


 無理に入れるつもりはない。


 俺はそれ以上気にせず、濡れそうなものを移動させる作業へ戻った。


 しばらくして。


 ざっ。


 小さな音がした。


「ん?」


 見る。


 白いやつが屋根の端まで来ていた。


「…………」


 一歩。


 止まる。


 雨を見る。


 俺を見る。


 また一歩。


「入る?」


 白い耳が動く。


 そして。


 ゆっくりと屋根の下へ入った。


「お」


 でも、俺の近くまでは来ない。


 屋根の一番端。


 雨が吹き込みにくく、火からも少し離れた場所。


 そこで止まった。


「そこなら大丈夫そうだな」


 白いやつは地面の匂いを嗅ぐ。


 何度かその場を回るように動き。


 身体を伏せた。


「…………」


 近い。


 いつもの倒木のところより、ずっと。


 手を伸ばせば届くほどではない。


 でも、同じ屋根の下だ。


「…………」


 不思議な感じがする。


「まあ、雨すごいしな」


 理由はそれだけだ。


 たぶん。


「今日は特別ってことで」


 白いやつは前脚の上へ顎を乗せた。


「…………」


 そういえば。


「脚、見せて」


 そっと手を伸ばす。


 白いやつが少し顔を上げた。


 以前なら、その時点で距離を取っていた。


 今は逃げない。


「布、もう邪魔だろ」


 右前脚へ触れる。


 白いやつの身体がわずかに固くなる。


「すぐ終わるから」


 汚れた布をゆっくりほどく。


 下にある傷を見る。


「…………」


 乾いている。


 赤みもほとんどない。


「良さそうだな」


 指で直接傷を触らないようにしながら、周りを確認する。


「もう巻かなくていいか」


 布を外す。


「変に蒸れる方が嫌だしな」


 白いやつは前脚を引かなかった。


 外し終わる。


「はい、終わり」


 手を離す。


 白いやつは一度右前脚を舐めたあと、もう一度伏せた。


「治ってよかったな」


 俺も少し前に痛めた右足を動かす。


「こっちもだけど」


 雨は止む気配がない。


 夕方になっても。


 暗くなっても。


 ずっと降り続いた。


「…………」


 火の様子を見る。


 熾火は残っている。


 完全に消えないよう、ときどき細い薪を足す。


 濡れた薪は使えない。


 だから乾いている分を無駄にしないようにする。


「雨の日って面倒だな」


 水は勝手に降ってくる。


 でも、火は消える。


 薪は濡れる。


 身体も冷える。


「便利なのか不便なのか」


 屋根へ落ちる雨音を聞きながら、簡単な夕食を済ませた。


 今日は木の実と、昨日までに確認していた食べられる草。


 昨日の肉ほど豪華ではない。


「毎日肉ってわけにはいかないよな」


 白いやつにも少し分ける。


「これ食べる?」


 いつも食べている木の実を一つ置く。


 白いやつは匂いを嗅いだあと、口にした。


「食うんだ」


 全部が肉じゃなくてもいいらしい。


「…………」


 食べ終えた白いやつは、また屋根の端へ戻った。


 俺も寝る場所を整える。


 屋根から落ちてくる水滴を避け、身体を横にする。


「狭いな」


 横を見る。


 白いやつがいる。


「お前がいるからっていうより、元から狭いんだけど」


 白い耳が動いた。


「今度、広げるか」


 できれば。


 雨に強く。


 もう少し広く。


 薪も置けるように。


「…………」


 やりたいことがまた増えた。


「家欲しいなぁ」


 まだ家と呼べるものではない。


 屋根。


 ただそれだけだ。


 でも、今日みたいな日には、その屋根だけでもありがたい。


 雨に直接打たれずに済む。


 火も何とか残せる。


 身体を横にできる。


「最初よりはずっとマシか」


 目を閉じる。


 雨の音。


 風。


 葉の擦れる音。


 木が軋む音。


「…………」


 普段の夜より騒がしい。


 それでも。


 すぐ近くに白いやつの気配がある。


 時々、毛が動く小さな音がする。


「…………」


 変な感じだ。


 誰かと同じ屋根の下で眠るなんて。


 この森へ来てから、初めてだった。


「まあ、人じゃないけど」


 小さく呟く。


 白いやつは反応しない。


「寝た?」


 返事はない。


「…………」


 俺も眠ろう。


 そう思った時だった。


 雨音の向こう。


 遠く。


「…………?」


 何か聞こえた。


 俺は目を開ける。


「今……」


 耳を澄ます。


 ざああああ。


 雨。


 ごう、と風が木々を揺らす。


「気のせい?」


 その時。


 遠くの森から。


 低く。


 細長い声が響いた。


「…………」


 獣?


 鳥?


 分からない。


 今まで聞いたことのない声だった。


「何だ、今の」


 身体を起こす。


 隣を見る。


「…………」


 白いやつも起きていた。


 さっきまで伏せていた身体を起こし、森の方を見ている。


 耳がまっすぐ前を向いていた。


「知ってる?」


 当然、返事はない。


 白いやつは森から目を離さない。


 もう一度。


 遠くで低い声がした。


 さっきより少し近いような。


「…………」


 白いやつの身体が低くなる。


「おい?」


 その喉から。


「グルル……」


 今まで聞いたことのない低い音が出た。


「…………」


 俺は動きを止める。


 唸っている。


 俺にではない。


 森へ向けて。


「何かいるのか?」


「グルル……」


 白いやつの背中の毛が、わずかに立っている。


「…………」


 俺も森を見る。


 暗い。


 雨。


 木々。


 何も見えない。


 火の明かりが届くのは、せいぜい拠点の周りだけだ。


「…………」


 手元にある石片へ手を伸ばす。


 武器と呼べるものではない。


 それでも、何も持たないよりはいい。


 待つ。


 雨音。


 風。


 白いやつの低い唸り声。


「…………」


 しばらくして。


 森から聞こえていた声が。


 止まった。


「…………」


 白いやつはまだ動かない。


 耳を森へ向けたまま。


「行った?」


 分からない。


 何だったのかも分からない。


 さらに待つ。


 一分。


 二分。


 もっとかもしれない。


 雨しか聞こえない。


「…………」


 やがて。


 白いやつの身体から少し力が抜けた。


 立っていた毛も戻る。


「もう大丈夫?」


 白いやつは森を見たまま。


 しばらくして、ゆっくり身体を伏せた。


「…………」


 俺も石片を置く。


 でも。


 すぐには横になれなかった。


「今の何だった?」


 答えはない。


 ただ。


 白いやつは、知っているように見えた。


 少なくとも。


 俺よりは。


「…………」


 森は暗い。


 俺が知らないものが、まだいくらでもいる。


 今まで大きな獣に出会わなかったからといって、安全だと決まったわけじゃない。


「油断しない方がいいな」


 火を見る。


 小さな炎。


 屋根。


 石の道具。


 そして。


 同じ屋根の端に伏せている白いやつ。


「…………」


 雨はまだ降っている。


 白いやつは森へ戻ろうとしなかった。


 俺も。


「今日はここで寝よう」


 もう一度身体を横にする。


 少し離れたところで、白いやつも身体を丸める。


 雨音の向こうから、もうあの声は聞こえなかった。


「…………」


 いつもより狭い屋根の下。


 一人と一匹。


 初めて。


 朝まで同じ場所で過ごす夜になった。

第35話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


簡単な屋根でも雨をしのぐ役には立ちますが、強い雨になると雨漏りや薪の管理など、これまで見えなかった問題も出てきます。


今回は新しい設備を作るのではなく、今ある拠点で雨の夜を乗り切る形になりました。

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