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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第三章「白い子犬」

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閑話 白い子犬が見つけたもの

閑話です。


今回は少し時間を戻し、第31話の夜から第32話の朝までを、白い子犬の側から描きます。

火が小さくなっても、白い子犬はすぐには森へ戻らなかった。


 倒木の近くに伏せたまま、ときどき人間の方へ顔を向ける。


 今日は朝から、いつもと違っていた。


 普段の人間はよく動く。


 木を運び、石を叩き、水を汲みに行き、火のそばと森の間を何度も行き来する。


 何かを始めては失敗し、首を傾げ、また違うやり方を試す。


 けれど今日は、その人間がほとんど火のそばから動かなかった。


 歩く時には片方の足を庇い、ときどき顔をしかめている。


「大丈夫だって」


 人間は何度もそう言った。


 その言葉の意味は分かる。


 大丈夫。


 けれど、歩き方がおかしいことも分かっていた。


 白い子犬は、自分の右前脚へ視線を落とした。


 巻かれた布は、もうずいぶん汚れている。


 少し前まで、自分もあの人間と同じように脚を庇っていた。


 地面へつくたびに鈍く痛み、走ればさらに痛んだ。


 森へ戻ることはできたし、獲物を探すこともできた。


 だからといって、平気だったわけではない。


 その傷を、人間は水で洗った。


 初めは怖かった。


 手が近付けば身体が固くなり、触れられれば逃げたくなった。


 それでも人間は無理に脚を掴まなかった。


 自分が下がれば止まり、逃げれば追ってこなかった。


 水を置いた。


 魚を分けた。


 傷を洗い、自分の身につけていたものを裂いて脚へ巻いた。


「…………」


 白い子犬は再び人間を見る。


 火のそばに座った人間は、植物の細い繊維をゆっくり撚っていた。


 いつもより動きが遅い。


 ときどき手を止め、痛めた足を見る。


 自分の前脚が痛かった時には、あの人間が何度もこちらを気にしていた。


 今日は逆だった。


 自分が何度も、人間を見ている。


「…………」


 やがて辺りが暗くなる。


 人間は火を整えたあと、いつもよりゆっくり立ち上がった。


「今日はもう寝るか」


 屋根の下へ入っていく。


 まだ少し、歩き方がおかしい。


 白い子犬は伏せたまま、その姿を見送った。


 すぐには動かない。


 火がぱちりと鳴る。


 白い耳が反射的に動いた。


「…………」


 火は、今でも好きではない。


 熱い。


 明るい。


 森にはない匂いがする。


 ときどき突然、枝が弾けて大きな音を立てる。


 最初の頃より慣れただけで、怖くなくなったわけではなかった。


 それでも今は、火から少し離れたこの場所で身体を丸めることができる。


 火の向こうにいる人間が、追いかけてこないことを知っているから。


「…………」


 しばらくすると、屋根の下から聞こえていた小さな物音もなくなった。


 残ったのは静かな呼吸だけ。


 眠った。


 白い子犬は、ゆっくり立ち上がった。


 右の前脚を地面へつく。


 まだ少し違和感はある。


 けれど、以前ほど痛くはない。


 森を見る。


「…………」


 腹が減っていた。


 それだけなら、いつものことだった。


 森へ入り、自分が食べられるものを探せばいい。


 虫でもいい。


 木の実でもいい。


 運が良ければ、小さな獲物を捕らえられることもある。


 まだ狩りは上手くない。


 母と一緒だった頃のように、待っていれば食べ物を与えてもらえることもない。


 自分で探すしかない。


 でも。


 今夜は、自分の腹を満たすだけでは足りない気がした。


「…………」


 魚をもらった。


 水をもらった。


 傷を洗ってもらった。


 そして今、人間は脚を痛めている。


 何か。


 食べられるものを。


 あの人間のところへ持って帰りたい。


 人間の言葉で「返す」と考えたわけではない。


 ただ、受け取ってきたものと似た何かを、今度は自分から置いてみたい。


 そんな素朴な思いだった。


 白い子犬は、眠っている人間を一度だけ振り返る。


 それから森へ入った。


 空き地を離れるにつれ、背中側に感じていた静かな感覚が薄くなっていく。


 あの人間の近くにだけある、よく分からない何か。


 最初は気になって仕方がなかった。


 今ではもう、そこにあること自体には慣れている。


 白い子犬は一度だけ空き地の方へ耳を向けたあと、鼻を低くした。


 今は獲物を探す。


 湿った土。


 草。


 虫。


 古い獣の匂い。


「…………」


 違う。


 さらに進む。


 風が流れる。


 鼻を上げる。


「…………」


 いる。


 遠くない。


 白い子犬は身体を低くし、音を立てないよう木々の間を進んだ。


 茂みの向こうに、灰褐色の小さな身体が見える。


 長い耳。


 発達した後ろ脚。


 そして、動けば一瞬だけ目につく銀色の尾。


「…………」


 知っている。


 食べられる獲物。


 母と一緒だった頃にも見たことがある。


 ただし、速い。


 とても速い。


 白い子犬は茂みへ伏せた。


 向こうはまだ気付いていない。


 もう少し近付く。


 一歩。


 止まる。


 もう一歩。


 灰褐色の獣は地面の草を食べている。


 長い耳が小さく動いた。


「…………」


 今。


 白い子犬は地面を蹴った。


 茂みから飛び出す。


 灰褐色の獣が顔を上げた。


 次の瞬間、銀色の尾が大きく跳ねる。


「…………!」


 速い。


 白い前脚は何もない地面を叩いた。


 すぐに向きを変えて追う。


 灰褐色の身体は茂みへ飛び込み、太い根を越え、石の横を抜けて一気に遠ざかっていく。


「…………」


 さらに強く地面を蹴る。


 それでも追いつけない。


 銀色の尾はそのまま木々の奥へ消えた。


 白い子犬は足を止める。


 息が少し上がっていた。


「…………」


 逃げられた。


 速い獲物を後ろから追っても捕まらない。


 分かっていたはずなのに、姿を見つけた途端に身体が動いてしまった。


 白い子犬は地面へ鼻を近付けた。


 まだ匂いは残っている。


 追える。


 今度は走らない。


 踏まれた草。


 わずかに乱れた葉。


 残された匂いを辿り、ゆっくり進んでいく。


 少し先で、また灰褐色の姿が見えた。


 今度は低い倒木の向こうにいる。


「…………」


 すぐには近付かなかった。


 風を確かめる。


 こちらから向こうへ流れている。


 このまま近付けば、自分の匂いが先に届く。


 白い子犬は大きく横へ回った。


 茂みを抜け、木の根を避け、できるだけ風下へ移る。


 母と歩いていた頃。


 何度も見た。


 獲物へ近付く時、母は真っすぐには進まなかった。


 風を確かめ。


 足音を消し。


 そして追いかける前に、獲物がどちらへ逃げるのかを見ていた。


 言葉で教えられたわけではない。


 母の動きを見て、覚えただけだ。


「…………」


 灰褐色の獣の左側は開けている。


 右には太い木。


 前には低い茂み。


 逃げるなら。


 左。


 白い子犬は少し位置を変えた。


 もう少し。


 まだ。


 灰褐色の耳が動く。


「…………」


 止まる。


 待つ。


 そのはずだった。


 けれど、灰褐色の獣が顔を少し上げた瞬間。


 白い子犬の身体が先に動いた。


「…………!」


 早かった。


 もう少し待つべきだった。


 飛び出す。


 灰褐色の獣は予想していた左へは行かなかった。


 倒木と地面の間にある、わずかな隙間へ身体を滑り込ませる。


「…………」


 白い前脚が毛先へ触れた。


 それだけだった。


 銀色の尾が、また遠ざかる。


 白い子犬は数歩追ったところで止まった。


 二度目。


 また逃げられた。


「…………」


 右の前脚が少し痛む。


 白い子犬はその場へ伏せ、布の巻かれた脚を一度舐めた。


 このまま追っても同じだ。


 焦って走れば、獲物には追いつけず、自分の脚だけが痛む。


 動かずに耳を澄ます。


 風の音。


 葉の擦れる音。


 小さな虫の羽音。


 遠くの鳥。


 追っている時には聞こえなかったものが、止まると戻ってくる。


「…………」


 早く。


 人間が起きる前に。


 何か持って帰りたい。


 その思いが、自分を急がせていた。


 けれど。


 急げば捕まらない。


 母は待っていた。


 獲物が近付くまで。


 逃げる場所が少なくなるまで。


 自分が有利になる場所まで。


 長く。


 静かに。


「…………」


 白い子犬は立ち上がった。


 今度は追いかけない。


 獲物の匂いを辿りながら、進む先を読む。


 少し先に、低い茂みと倒木があった。


 その間は狭い。


 灰褐色の獣なら通れる。


 でも、逃げられる方向は少なくなる。


「…………」


 白い子犬は大きく回り込み、倒木の反対側へ伏せた。


 待つ。


 何も来ない。


 それでも動かない。


 虫が飛ぶ。


 遠くで鳥が鳴く。


 夜の暗さが、少しずつ薄くなっていく。


「…………」


 かさ。


 小さな音。


 白い耳が動く。


 灰褐色。


 銀色の尾。


 戻ってきた。


 まだこちらには気付いていない。


 白い子犬は伏せたまま待つ。


 少し。


 もう少し。


 灰褐色の獣が倒木と茂みの間へ入る。


 前は狭い。


 横には太い根。


 後ろへ戻るには、一度身体を返さなければならない。


「…………」


 今。


 白い子犬は地面を蹴った。


 身体を低く沈め。


 次の瞬間、一気に前へ出る。


 自分でも驚くほど強い踏み込みだった。


 木々の間の景色が、一瞬で後ろへ流れる。


「…………!」


 灰褐色の獣が逃げようとする。


 けれど今度は間に合った。


 白い前脚が背中へ届く。


 二つの身体が地面を転がる。


 暴れる獲物へ噛みつき、離さない。


「…………」


 やがて。


 灰褐色の身体が動かなくなった。


 白い子犬は口を離し、荒くなった呼吸を整える。


 銀色の尾が地面へ横たわっている。


「…………」


 捕まえた。


 嬉しい。


 けれど、その身体へ鼻先を近付けた瞬間、別の感覚が強くなる。


 腹が減った。


 血。


 肉。


 食べ物の匂い。


 本来なら、その場で食べても何もおかしくない。


 自分で捕った獲物なのだから。


「…………」


 口を開きかける。


 そこで。


 火のそばに座る人間が浮かんだ。


 足を庇って歩く姿。


「大丈夫だって」


 そう言いながら、痛そうに顔をしかめていた。


 自分の前脚を水で洗った手。


 魚を置いた手。


「…………」


 白い子犬は口を閉じた。


 今日は食べない。


 獲物の首元を咥える。


「…………」


 重い。


 思っていたよりずっと運びづらい。


 銀色の尾が地面を引きずり、右の前脚にも少し負担がかかる。


 それでも放さない。


 歩いて。


 止まり。


 咥え直して。


 また歩く。


 空き地へ向かう。


 その途中。


 ふと、昔の光景が浮かんだ。


 あの人間を初めて見た日。


 まだ空き地には屋根も棚もなく、薪の山もなかった。


 人間は地面へ座り、二本の木を何度も擦っていた。


「…………」


 何をしているのか、最初は分からなかった。


 何度やってもうまくいかない。


 煙が少し出る。


 止まる。


 また始める。


 何度も。


 何度も。


 白い子犬は木々の奥から、その姿を見ていた。


 やがて。


 ほんの小さな炎が生まれた。


「…………」


 白い子犬は思わず身体を低くした。


 火。


 熱い。


 明るい。


 突然大きな音を立てることもある。


 森の中で、わざわざ近付きたいものではない。


 それなのに。


 人間は、その火を生み出すために何度失敗してもやめなかった。


 そしてようやく炎がつくと。


 本当に嬉しそうな顔をした。


「…………」


 不思議な人間だった。


 怖いものを自分から作り出し、その前で喜んでいる。


 なのに。


 なぜか。


 その姿から目を離せなかった。


 一度だけ人間がこちらを向いた時、白い子犬は慌てて身を伏せた。


 気付かれたかもしれない。


 そう思った。


 けれど、人間は追ってこなかった。


 あの日。


 木々の奥から人間を見ていた、一対の小さな瞳。


 それは。


 白い子犬のものだった。


「…………」


 あの頃は。


 遠くから見るだけだった。


 火も怖かった。


 人間も怖かった。


 今も火が怖くなくなったわけではない。


 それでも今は。


 その火のある場所へ。


 自分から獲物を運んでいる。


「…………」


 不思議だった。


 どうして、そうしたいのか。


 自分でも上手く説明できない。


 魚をもらった。


 水をもらった。


 傷を洗ってもらった。


 追われなかった。


 待ってもらった。


 だから。


 持って帰る。


 今は、それでよかった。


 少しずつ森が明るくなっていく。


 空き地へ近付くにつれ、あの静かな感覚も戻ってきた。


 いつもの火。


 倒木。


 簡単な屋根。


 薪。


 人間の匂い。


「…………」


 人間はまだ眠っている。


 間に合った。


 白い子犬は空き地へ入り、咥えていた獲物を焚き火から少し離れた場所へ置いた。


 灰褐色の身体。


 銀色の尾。


「…………」


 その横へ座る。


 腹は減っている。


 それでも、獲物には口をつけない。


 人間を見る。


 まだ起きない。


 白い子犬はそのまま待った。


 鳥の声が増えていく。


 小さくなった火の中で、枝がぱちりと鳴った。


 耳が跳ねる。


 身体も少し強張る。


「…………」


 それでも逃げない。


 ここにいる。


 やがて屋根の下から、小さく布の擦れる音がした。


 白い耳が立つ。


 人間が動いた。


 一度。


 もう一度。


 身体を起こす気配がする。


「…………」


 白い子犬は、銀色の尾を持つ獲物の横へ座ったまま。


 人間が目を覚ますのを、静かに待っていた。

閑話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


俊敏な獲物を捕まえるため、白い子犬も二度失敗しています。


追うだけでは届かないと気付き、最後は風向きや森の地形を利用して、ようやく持ち帰ることができました。

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