第30話 森が静かすぎる
第30話です。
少しずつ、白い存在が拠点へ戻ってくるようになりました。
そんな中、主人公は今まで何度も歩いてきた拠点の周囲に、別の違和感があることへ気付きます。
朝、屋根の外へ出ると、白いやつがいた。
「…………」
昨日作った小さな寝床ではない。
そこから少し離れた倒木の横で伏せ、こちらを見ている。
「今日は最初からいるんだな」
声をかけると、白い耳がぴくりと動いた。
右の前脚には、まだ俺が巻いた布が残っている。
歩き方も完全に元通りというわけではないが、最初に傷へ気付いた時よりは、少しだけ自然になったように見えた。
「取らなかったのか、それ」
白いやつは前脚を一度見たあと、また俺を見る。
「嫌なら外していいんだけどな」
もちろん返事はない。
俺はいつものように焚き火へ細い枝を足し、残っていた火種を戻した。
次は水だ。
新しく作り直した樹皮の容器を持ち上げる。
「前よりは漏れない……はず」
完全に水が止まるわけではないが、古いものより形はしっかりしている。
石斧と杖も持ち、森へ向かおうとして。
「…………」
振り返る。
白いやつはまだ伏せている。
「行ってくる」
最近、こいつがいると何となく声をかける癖がついてきた。
当然ついてくるとは思わず、そのまま森へ入る。
いつもの道を歩く。
少しして。
かさ。
「ん?」
後ろから葉が揺れる音がした。
足を止める。
「…………」
振り返ると、少し離れた木の横から白い顔が覗いていた。
「何してんの?」
白いやつはこちらを見るだけだ。
「…………」
俺が歩き始める。
後ろでも、小さく葉が擦れる。
「まさか」
もう一度止まる。
白いやつも止まった。
「ついてきてる?」
近くはない。
俺と白いやつの間には何本か木が入り、少なくとも数メートル以上は離れている。
「…………」
一歩進む。
白いやつも少し遅れて進む。
「本当についてきてるな」
嬉しくなりかけて。
「いや、たまたま同じ方向かもしれない」
自分へ言う。
森で暮らしているなら、水場へ向かうことだってあるだろう。
「まあ、好きにすればいいか」
呼び寄せることはせず、俺はいつもの速さで歩いた。
後ろからついてくる音は、近付いたり遠ざかったりする。
振り返れば、白いやつは必ず少し距離を取った場所にいた。
「これ、一緒に歩いてるって言っていいのかな」
微妙なところだ。
並んでいるわけでもないし、俺が呼んだわけでもない。
「同じ方向に歩いてるだけか」
それくらいが、今はちょうどいいのかもしれない。
湧き水へ着く前に、いつものように一度立ち止まる。
周囲を見る。
耳を澄ます。
「…………」
鳥。
虫。
風で揺れる葉。
大きな獣の気配はない。
「よし」
岩の隙間から流れ出す水を容器へ入れる。
白いやつは少し離れたところで座っていた。
「飲む?」
以前のように水を置こうかとも思ったが、すぐにやめた。
「自分で来たんだから、自分で飲めるよな」
湧き口から少し下ったところにも水は流れている。
白いやつは俺の世話がなければ生きられない生き物ではない。
「俺より森に詳しそうだし」
水を汲み終え、両手で容器を持ち上げる。
「帰るぞ」
言ってから。
「……別に帰る場所同じじゃないか」
少し笑う。
俺は空き地へ向けて歩き始めた。
しばらくすると、また後ろから白いやつがついてくる。
「…………」
帰り道。
大きな根を避けるため、いつもより少し横へ回った時だった。
「ん?」
地面に見覚えのある跡があった。
足を止める。
「これ……」
泥の中へ残った、大きな窪み。
水の容器を安全な場所へ置き、しゃがみ込む。
「足跡だよな」
大きい。
俺の手を広げたくらいはある。
以前、危険な獣道の奥で見たものほどはっきりしていないが、形は似ていた。
四本の指らしい跡。
その先。
「爪?」
土が深く削れている。
「…………」
背中が少し冷える。
最初に獣道を見つけた頃、同じような大きな足跡を見て、すぐ引き返したことを思い出す。
「まだいるんだな」
当たり前だ。
俺がこの森で暮らし始めたからといって、大きな獣が消えるわけではない。
「…………」
周囲を見る。
何もいない。
白いやつは俺から少し離れた場所で立ち、同じように森を見ている。
「お前、こういうの平気なの?」
聞いても、白い耳が動くだけだった。
地面へ視線を戻す。
「新しい……のかな」
足跡の古さを正確に判断できるほど、俺に経験はない。
ただ、完全に崩れてはいない。
「近く通ってるってことだよな」
少し迷ったが、足跡が続く方向だけ確認してみる。
追跡するつもりはない。
数歩だけ。
「…………」
もう一つ。
大きな足跡。
その先。
「こっち?」
以前見つけた獣道の入口に近い方向だ。
「やっぱり同じ辺りを使ってるのか」
さらに木の幹を見ると、表面に新しい傷があった。
「これも?」
地面からかなり高い。
俺の肩より上。
樹皮が縦に削られ、何本か深い筋が走っている。
「爪痕……だよな」
ぞっとする。
「こんなのと会ったら無理だぞ」
腰の石斧を見る。
木を切るだけでも苦労する粗末な道具だ。
これ一本で、あの爪痕を残した何かと戦えるとは思えない。
「近くに来てるなら、もっと警戒しないと」
そこで。
「…………」
ふと、違和感があった。
「近く?」
もう一度、足跡を見る。
獣道の方向から続いている。
空き地は。
「あっち」
ほぼ反対ではない。
このまま進めば、かなり近いところを通るはずだ。
「…………」
少しだけ足跡を辿る。
もちろん、森の奥ではなく空き地側。
一つ。
もう一つ。
「こっち来てる」
大きな足跡は、確かに拠点のある方向へ近付いていた。
「嫌だな」
水を取りに来る動物なら、湧き水の周辺へ現れるのは分かる。
獣道も近くにある。
だから、ここまでならおかしくない。
問題は、その先だった。
「…………」
足跡が。
曲がっている。
「何で?」
空き地へ向かう途中。
大きな足跡は、急に方向を変えていた。
木の間を抜け、拠点から離れる方へ続いている。
「たまたま?」
別の場所へ行きたかった。
それだけなら何もおかしくない。
「…………」
少し離れた地面を見る。
「あれ?」
蹄のような跡。
以前から何度も見ているものだ。
「これも」
数個続いている。
その向きを目で追う。
「…………」
途中で曲がってる?」
偶然。
そう思う。
森の動物が、全部まっすぐ歩くわけがない。
「当たり前だろ」
でも。
「…………」
今度は。
もう少し小さな足跡。
鳥ではない。
四本足の別の何か。
「これも?」
俺は立ち上がり、周囲を見回した。
「…………」
急に。
今まで見てきたものが。
一つにつながる。
空き地の周りでは、動物の痕跡を見つけることはある。
森の端。
少し離れた場所。
雨上がり。
「でも」
空き地そのものへ入ってきた跡。
「…………」
ほとんど。
覚えがない。
白いやつを除けば。
「…………」
俺はしばらく立ったまま、木々の間を見た。
鳥はいる。
虫もいる。
遠くで鳴き声も聞こえる。
だから、この森から生き物がいなくなったわけではない。
「それにしても」
拠点の近く。
静かすぎないか。
「…………」
最初の夜。
森の奥から知らない鳴き声をいくつも聞いた。
枝が折れる音も。
何かが歩く気配もあった。
怖くて火の近くから動けなかった。
それが。
いつからだろう。
「慣れただけ?」
俺自身が森の音を気にしなくなった。
それはある。
でも。
足跡まで。
慣れで消えるわけではない。
「…………」
白いやつを見る。
少し離れた場所で、こちらを見ている。
「お前は来るんだよな」
白いやつだけは。
森の端から。
少しずつ。
火の近くまで来た。
「…………」
それに気付くと、余計に変な感じがした。
「何なんだ?」
考える。
すぐに思い浮かんだのは。
「火?」
焚き火。
煙。
「匂いを嫌ってる?」
動物は火を怖がる。
少なくとも、前世ではそういうイメージがあった。
「それなら普通か」
俺は少し納得する。
「毎日火焚いてるし」
煙の匂いは木にも草にも付いているかもしれない。
魚も焼く。
人間の匂いもある。
「知らない匂いだらけだろうしな」
森の動物から見れば。
突然現れた。
妙な二本足が。
火を焚いて。
木を切って。
ずっと同じ場所にいる。
「近付きたくないか」
そう考えると、かなり自然だ。
「…………」
ただ。
また白いやつを見る。
「じゃあ、お前は何で平気なんだ?」
「…………」
白い耳が動く。
「いや」
平気。
ではないか。
最初はずっと遠くから見ていた。
火が鳴れば逃げた。
俺が立てば下がった。
「お前も怖がってたな」
今も完全に警戒がなくなったわけではない。
「なら」
白いやつは。
怖くても。
「来た?」
魚。
水。
休める場所。
「…………」
それだけだろうか。
「まあ、いいか」
考えても答えは出ない。
何より。
大きな獣の痕跡が実際に近くまで来ている。
そちらの方が、今の俺には重要だ。
「ここから先は行かない」
足跡の主を探す気はない。
爪痕の場所も地面の地図へ追加して、今まで以上に近付かないようにする。
「白いやつも行くぞ」
水の容器を持ち上げる。
言ってから。
「…………」
少し待つ。
白いやつはこちらを見ている。
「いや、別に来なくてもいいけど」
俺が歩き始める。
数秒して。
後ろから。
かさ。
小さな音。
「…………」
振り返る。
白いやつがついてきていた。
「来るんじゃん」
少し笑う。
距離はまだある。
俺の横には来ない。
それでも。
同じ方向へ歩いている。
空き地へ近付くにつれ、さっきまで見えていた大きな足跡はなくなった。
蹄の跡も。
小さな獣の跡も。
「…………」
やっぱり。
少ない。
「火の匂い、そんなに残るのかな」
鼻を動かしてみる。
「…………」
自分では。
よく分からない。
毎日焚き火のそばにいるせいで、慣れてしまっているのかもしれない。
「煙臭いんだろうな、俺」
服の袖を嗅ぐ。
「…………」
「煙だな」
少し笑う。
これなら。
動物が避けても。
「おかしくないか」
そう結論づけて、歩き続ける。
やがて木々の隙間が明るくなり、空き地が見えた。
「戻った」
屋根。
焚き火。
棚。
薪置き場。
俺の場所。
空き地へ入る。
「ただいま」
いつもの言葉。
「…………」
後ろ。
白いやつは森の端で一度止まった。
そのまま戻るかと思ったが。
少しして。
空き地へ入る。
「…………」
当然みたいに。
「お前、本当にここ来るよな」
白いやつは答えず、倒木の近くへ向かう。
昨日作った小さな寝床の少し手前で止まり、そのまま伏せた。
「…………」
森の外では。
大きな足跡も。
爪痕も。
いくつも残っている。
なのに。
この空き地の中にいるのは。
「俺と」
白いやつ。
「…………」
それだけ。
焚き火へ薪を一本足す。
火が少し大きくなる。
「まあ」
今のところ。
何も来ないなら。
「助かるけどな」
理由なんて。
今すぐ分からなくてもいい。
危険な獣が空き地へ近付かないなら、俺にとってはありがたい話だ。
「火のおかげなら、絶対消せないな」
そう思いながら。
薪をもう一本。
手元へ寄せた。
俺はまだ。
森の静けさを。
少しだけ。
都合よく受け取っていた。
第30話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
森から生き物が消えたわけではありません。
足跡や爪痕は今も周囲に残っていますが、主人公が生活している空き地へ近付くほど、その数は不自然に減っています。
主人公は今のところ、焚き火や煙、人間の匂いを警戒しているのだろうと考えています。




