第29話 ここで休めばいい
第29話です。
初めて触れ、右の前脚を簡単に手当てできた白い存在。
その日は森へすぐ戻らず、拠点の端で身体を休めていました。
白いやつは、森へ帰らなかった。
右の前脚に不格好な布を巻いたまま、空き地の端にある草の上で身体を丸くしている。
「…………」
俺は焚き火のそばから、その姿をちらりと見る。
さっき初めて触れたばかりだ。
傷を水で洗い、服の端を裂いて巻いた。それだけでも昨日までを考えれば随分な変化なのに、白いやつはそのまま森へ戻らず、俺の生活している空き地に残っている。
「寝るのか?」
聞いたところで返事はない。
白い耳が一度だけ動いたが、顔は上げなかった。
「…………」
疲れているのかもしれない。
右の前脚が痛むなら、森の中を歩き回るより動かずにいた方が楽なのだろう。
それなら。
「ここで休めばいい」
そう言ってから、俺はすぐに立ち上がらなかった。
せっかく落ち着いたところへ近付けば、また警戒させるかもしれない。
白いやつが丸くなっているのは、空き地と森の境目に近い場所だ。
焚き火からは離れていて、俺の屋根からもかなり距離がある。
少し湿った草が生えているだけで、寝心地が良さそうには見えない。
「もうちょっとマシな場所、作れるかな」
今使っている俺の寝床へ入れようとは思わない。
あそこは白いやつにとって近すぎるだろうし、そもそも俺だって、昨日まで触ることすらできなかった生き物といきなり同じ屋根の下で眠れるほど大胆ではない。
「向こうも嫌だろうしな」
それでも、地面へ直接寝るよりは乾いたものがあった方がいい。
自分の寝床を作った時と同じだ。
乾いた草。
葉。
樹皮。
それくらいなら用意できる。
「…………」
問題は場所だった。
白いやつが今いるところへ作り始めれば、確実に逃げる。
「じゃあ、少し離すか」
倒木の近く。
俺の簡易屋根からは外れているが、木の根元が少しだけ張り出していて、森の奥から直接見えにくい場所がある。
焚き火からも十分離れている。
「この辺なら?」
白いやつを見る。
「…………」
動かない。
「勝手に作るだけだからな」
説明してから、ゆっくり立ち上がる。
白い耳が動いた。
顔も少し上がる。
「そっちには行かないよ」
俺は白いやつから距離を取るように回り込み、材料置き場へ向かった。
乾いている草と葉を少し。
屋根に使わなかった樹皮も何枚かある。
「立派なものはいらないよな」
屋根を新しく作るわけではない。
ただ、硬く湿った地面へ直接身体をつけなくて済む程度でいい。
倒木のそばへ乾いた草を置き、その上へ葉を重ねる。
「俺の最初の寝床と、ほぼ同じだな」
違うのは大きさくらいだ。
白いやつなら、俺ほど広い場所は必要ない。
草が散らばりすぎないよう、周囲へ細い枝を何本か置く。
背中側にだけ大きめの樹皮を立てかけてみた。
「風よけ……になるのか?」
少し考えて、樹皮を外す。
「いや、下手に囲う方が嫌か」
野生の生き物だ。
逃げ道が見えない場所は警戒するかもしれない。
実際にどう感じるかは分からないが、少なくとも今の白いやつは、何かあればすぐ森へ逃げられる場所を選んでいる。
「なら、開けとく」
乾いた草と葉。
それだけ。
一歩下がって見る。
「…………」
粗末だ。
「まあ、俺のも最初こんなもんだったし」
むしろ今でも大差ない。
寝床と呼んでいいのか怪しいくらいだが、地面へ直接丸くなるよりは少し柔らかいはずだ。
「寝るなら、その辺よりマシだろ」
白いやつへ言う。
「…………」
こちらを見ている。
「使うかどうかは任せる」
俺はそれ以上何もせず、焚き火のそばへ戻った。
しばらくして。
ちらりと見る。
「…………」
白いやつは元の場所にいる。
「ですよね」
別に期待していない。
そう思おうとしたが。
「…………」
もう一度見る。
やっぱり動いていない。
「まあ、そんなすぐ使わないか」
さっきまで俺が触っていた場所だ。
匂いも残っているだろう。
白いやつにとって、それが安心できる匂いなのか警戒する匂いなのかも分からない。
「置いとくだけでいい」
俺は植物繊維を手に取り、昨日までと同じように作業を始めた。
裂いて。
撚って。
途中へ新しい繊維を重ねる。
時々、白いやつを見る。
まだいる。
でも寝床は使わない。
「…………」
それでいい。
少なくとも、俺が動いていてもすぐ森へ逃げなくなった。
それだけでも以前とは違う。
夕方が近付くにつれ、森の中の光が少しずつ弱くなる。
白いやつは途中で何度か顔を上げたが、遠くへ行こうとはしなかった。
「腹は?」
今日は魚を用意していない。
手当てをしたからといって、毎回食べ物まで出す必要はないと思っていた。
それに、俺自身の分にも余裕はない。
「魚、毎回簡単に捕れるわけじゃないからな」
白いやつは俺を見ている。
「…………」
「いや、そんな顔しても今日はないぞ」
どんな顔なのか、自分でもよく分からない。
ただ、少し期待されているような気がしてしまう。
「勝手にそう思ってるだけか」
苦笑して火へ薪を足す。
ぱちりと音がすると、白い耳が動く。
以前なら身体ごと後ろへ下がっていたのに、今は耳が反応するだけだった。
「慣れた?」
もちろん分からない。
でも、火が鳴るたび逃げていた頃よりは、ここにいることを受け入れているように見える。
日が落ちる頃。
白いやつが立ち上がった。
「あ」
右前脚を見る。
布はまだ巻かれている。
少し気にしているようだが、噛みちぎってはいない。
「どう?」
白いやつが一歩歩く。
まだ右前脚を少し庇っている。
「すぐ治るわけないよな」
歩き始めた白いやつが向かったのは。
「…………」
寝床。
ではなかった。
その横を通り過ぎる。
「そこは使わないのね」
少しだけ残念だ。
白いやつは空き地の端まで行き、森を見た。
「帰る?」
白い耳が森の方へ向く。
少し止まっていたが、やがてそのまま木々の間へ入っていった。
「…………」
今日はここまでか。
むしろ、随分長くいた方だ。
手当てをされ、そのあと何時間も空き地で休んでいた。
「十分だよな」
森へ追いかけることはしない。
「またな」
白い姿はもう見えない。
焚き火へ視線を戻す。
「…………」
少し静かになった。
「いや、元から一人なんだけど」
昨日までと同じ。
そう思うのに。
白いやつがいた場所だけ、妙に空いて見える。
「慣れるの早すぎるだろ、俺」
自分で笑いながら、今日作った小さな寝床を見る。
「使わなかったな」
まあいい。
必要なければ、それで終わりだ。
使いたくなった時に使えばいい。
「…………」
その夜は、いつも通り屋根の下へ入った。
火を完全に消さないよう気をつけ、石斧を決めた場所へ置き、水の残りを確認してから横になる。
森からは虫の音や、遠くで何かが動く音が聞こえている。
「…………」
少しだけ。
倒木の向こうが気になった。
「戻ってきたりして」
言ってから。
「いや、ないか」
白いやつは森で暮らしている。
ここは俺が勝手に作った場所であって、あいつの寝床ではない。
そう思いながら目を閉じた。
翌朝。
目が覚めると、最初にいつもの屋根の裏側が見えた。
「…………」
身体を起こす。
火。
まだ残っている。
「よし」
屋根の外へ出て、まず焚き火へ細い枝を足す。
それから。
「…………」
自然と。
昨日作った小さな寝床を見る。
「ん?」
何かが違う。
近付く。
「…………」
乾いた草。
昨日、ある程度ふわっと広げたはずなのに。
中央が少しへこんでいる。
「…………」
しゃがみ込む。
「これ」
草の上。
白いもの。
一つ。
もう一つ。
「毛?」
指で摘まむ。
短くて柔らかい。
見覚えがある。
「…………」
白い毛。
「え」
寝床を見る。
中央のへこみ。
何本か残った白い毛。
「…………」
口元が。
勝手に緩んだ。
「……使ったんじゃん」
昨夜。
俺が眠ったあと。
戻ってきた?
あるいは、森へ入ったように見えて近くに残っていたのかもしれない。
「…………」
分からない。
でも。
ここに白い毛がある。
「使ったんだな」
もう一度言う。
「…………」
何だろう。
嬉しい。
ものすごく地味なことなのに。
「俺が作った寝床、使ったのか」
自分の屋根が初めて雨を防いだ時と少し似ている。
作ったものが、ちゃんと役に立った。
ただ今回は。
「俺じゃないけど」
白いやつ。
あいつが使った。
「…………」
草へ触る。
少し潌れている。
「夜だけ?」
朝にはいない。
森へ帰ったらしい。
「…………」
俺が近くにいる時は、まだここで眠るほど安心できないのかもしれない。
「それでも使ったなら十分か」
草を少しだけ戻そうとして。
手が止まる。
「いや」
白いやつの匂いが残っているなら。
下手に全部触らない方がいい?
「…………」
よく分からない。
「端だけ直すか」
散らばった草だけを少し戻し、中央のへこみはそのままにした。
「これでいい」
使うかどうかは、また向こうが決める。
俺は火のところへ戻った。
朝の水を汲み。
樹皮の容器を確認し。
薪を補充する。
いつもの一日。
でも。
作業の途中で。
「…………」
何度か。
あの小さな寝床へ目が向いた。
「…………」
白い毛。
まだある。
「…………」
少しだけ。
笑う。
その日は白いやつが昼になっても現れなかった。
「傷、大丈夫かな」
布が外れていないか。
汚れていないか。
気になる。
「…………」
でも、森へ探しには行かない。
昨日までと同じ。
来たければ来る。
「…………」
午後。
植物繊維の続きをしながら、時々森を見る。
「…………」
いない。
薪を移す。
「…………」
いない。
屋根の結び目を一つ締め直す。
「…………」
「来ないな」
夕方。
火へ薪を足す。
空き地の端が少し暗くなってきた頃。
かさ。
「…………」
顔を上げる。
木々の間。
白い。
「あ」
白いやつがいた。
昨日と同じように、森の端からこちらを見ている。
「…………」
俺は立ち上がらない。
「おかえ……」
言いかけて。
止まる。
「…………」
まだ。
違う気がした。
「また来たな」
言い直す。
白い耳が動いた。
少しして。
白いやつが森の外へ出る。
歩き方を見る。
「…………」
右前脚。
まだ少し庇っている。
でも。
「昨日よりマシ?」
そんな気がする。
自信はない。
白いやつは俺へ一直線に近付かず、空き地の端を回るように歩いた。
「…………」
そして。
途中。
昨日作った寝床の近くで止まる。
「…………」
俺。
寝床。
また俺。
「…………」
「使っていいよ」
思わず言う。
「お前のために作ったんだから」
「…………」
白いやつは、その場へは入らなかった。
「まあ、俺が見てるもんな」
昨日と同じ。
俺の前では使わないらしい。
「分かった分かった」
俺は視線を焚き火へ戻す。
「好きにして」
白いやつはしばらく寝床の近くに立っていたが、やがて少し離れた場所へ座った。
「…………」
火。
俺。
白いやつ。
以前より。
この並びに。
違和感がなくなってきている。
「…………」
まだ触れるのは。
必要な時だけ。
呼べば来るわけでもない。
夜になれば森へ帰る。
それでも。
昨日の夜。
あいつは。
ここへ戻ってきた。
「…………」
俺が作った。
小さな寝床を使うために。
「…………」
それだけで。
少し。
この空き地の意味が。
俺だけのものではなくなったような気がした。
もちろん。
白いやつが。
ここをどう思っているのか。
俺には分からない。
ただ。
今日も。
森から。
戻ってきた。
今は。
それで十分だった。
第29話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
今回作ったのは、乾いた草や葉を重ねただけの簡単な休息場所です。
まだ白い存在は、主人公が見ている前でそこで眠るほどには警戒を解いていません。
それでも、誰も見ていない時間には使える程度に、この空き地を安全な場所として受け入れ始めています。




