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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第三章「白い子犬」

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第28話 手を伸ばさない

第28話です。


右の前脚を庇っていることに気付いた主人公。


助けたい気持ちはありますが、追えばまた逃げてしまいます。


だから今日は、自分から近付かず、向こうが来るのを待つことにします。

朝、火を戻して水を汲み、いつもの作業を一通り終えたあと、俺は焚き火のそばへ腰を下ろした。


「来るかな」


 森の端を見るが、白いやつの姿はない。


 昨日、俺が近付こうとした瞬間に逃げられた。


 右の前脚を明らかに庇っていたから、できることなら傷を見たいし、汚れているなら洗ってやりたい。でも、そのために俺が森の中まで追いかけて捕まえるのは違う気がした。


 白いやつは、少しずつ自分から近付いてきた。


 俺の姿が見える場所で魚を食べ、水も飲んだ。


 そこへ俺の都合で無理に踏み込めば、これまで縮まってきた距離を一気に元へ戻してしまうかもしれない。


「今日は手を伸ばさない」


 口に出して、自分へ言い聞かせる。


「向こうが来るまで待つ。来なかったら、それまで」


 石斧はいつもの置き場所へ戻し、両手も膝の上ではなく、見えるように地面へ置いた。


 白いやつに石斧が何なのか分かるとは思わないが、何かを持っているより、手ぶらの方が少しは警戒されにくいだろう。


「…………」


 しばらく、何もしない。


 森では鳥が鳴き、葉が風に揺れ、焚き火が時々ぱちりと音を立てている。


「暇だな」


 思わず呟いた。


 ここへ来てから、朝起きれば火を見て、水を運び、薪を拾い、屋根を直し、紐を作り、魚を捕る。


 やることがない時間なんて、ほとんどなかった。


「待つだけって、意外と落ち着かないな」


 それでも今日は待つ。


 白いやつが来た時、俺が動き回っていたら、また森の奥から見ているだけで終わるかもしれない。


 どれくらい経ったのか分からない。


「今日は来ないかな」


 そう口にした直後、森の端から小さな葉擦れの音がした。


「…………」


 反射的に身体が動きそうになるのを堪え、すぐには顔を向けない。


 もう一度、かさりと音がする。


 ゆっくり視線を動かすと、木の陰に白い姿があった。


「おはよう」


 小さく声をかけると、白い耳がぴくりと動く。


 昨日と同じくらい、十数メートルほどの距離だろうか。


 俺は座ったまま、その歩き方を見る。


 やはり右の前脚だけ、地面へついている時間が短い。


「痛いんだろ」


 白いやつはこちらを見ている。


「今日は行かないよ。ここにいるだけ」


 両手を地面へ置いたまま、なるべく動かない。


 言葉の意味が伝わるとは思わないが、声の調子くらいは分かるかもしれない。


 しばらくして、白いやつが一歩だけ前へ出た。


 そこで止まり、鼻先を動かして空気の匂いを確かめる。


「何の匂いしてるんだろうな、俺」


 火と煙と魚、それに何日も森で暮らしている自分自身の匂い。


 あまり考えたくない。


 白いやつはもう一歩近付き、また止まった。


 耳は前を向いたかと思えば横へ動き、尻尾も低い位置にある。


 逃げる準備は、まだしっかり残っているように見えた。


「大丈夫」


 そう言うだけで、手は動かさない。


 一歩。


 また一歩。


 少しずつ距離が縮まってくる。


 正面から見続けると身体が固くなるのは昨日までで分かっているため、俺は視線を少し横へずらした。


「見つめない、見つめない」


 焚き火がぱちりと鳴ると、白い身体がびくりと揺れた。


 それでも逃げない。


「火、怖いよな」


 小さく声をかける。


「俺も最初は怖かったよ。今でも危ないのは変わらないけど」


 白いやつが、わずかに首を傾げたように見えた。


「……今の、声に反応した?」


 たまたまだろう。


 そう考えている間にも、白いやつは再び歩き始めた。


 気付けば距離はもう数メートルしかない。


「そこまで来るのか」


 声に出しそうになり、飲み込む。


 俺の手は地面へ置いたまま。


 白いやつはその手と俺の顔を交互に見ながら、さらに一歩近付いた。


 手を伸ばせば届く。


 でも、伸ばさない。


 目が合うと、白い身体がまた少し固くなったので、俺はすぐ視線を外した。


「大丈夫」


 それだけ言う。


 すると、白いやつの鼻先が少しずつ俺の手へ近付いてきた。


 あと少し。


 呼吸まで小さくする。


 そして。


 湿った鼻先が、俺の指へほんの一瞬触れた。


「…………!」


 声が出そうになった。


 白いやつはすぐ顔を引いたが、逃げはしない。


 その場に残り、もう一度鼻先を寄せて俺の指や手首の匂いを嗅ぎ始めた。


「鼻、冷たいんだな」


 小さく呟く。


 撫でたい。


 ものすごく撫でたい。


 でも、まだ我慢する。


 白いやつは俺の腕の匂いまで確かめるように少し回り込み、その時、右の前脚がはっきり見えた。


「……傷」


 白い毛の一部が固まり、その下に赤黒い汚れが付いている。


 近くで見る限り、深く裂けているようには見えないが、泥も少し付着していた。


「擦ったのか、それとも何かに引っかけた?」


 もちろん答えはない。


「洗いたいな」


 俺が呟くと、白いやつが顔を上げた。


 意味を理解したわけではないだろうが、声には反応している。


「水、取るからな」


 ゆっくり身体を動かすと、白いやつが一歩後ろへ下がった。


「ごめん。行かないから」


 そこで一度止まり、さらにゆっくり立ち上がる。


 また少し距離を取られたものの、今度は森まで逃げていかなかった。


「それだけでも十分か」


 屋根の下から水の入った樹皮容器を取り、白いやつから離れた場所へ置く。


 俺は再び元の場所へ座り、両手を見えるように地面へ戻した。


「また来るかな」


 白いやつはこちらを見ている。


 すぐには動かない。


 それでもしばらく待っていると、一歩、また一歩と戻ってきた。


「戻ってきた」


 嬉しくなったが、声には出さない。


 白いやつは水の容器まで来ると匂いを確かめ、俺との距離を気にしながら舌を伸ばして水を飲んだ。


 昨日は十数メートル離れていた。


 今日は、数メートルしかない。


 飲み終えた白いやつは水の横へ座り、右前脚をわずかに浮かせた。


「…………」


 偶然だろう。


 傷を見せようとしているなんて、都合よく考えるべきではない。


 ただ、その姿勢のおかげで傷はよく見えた。


「こっち来る?」


 俺は手を伸ばさず、地面へ置いたままにする。


 白い耳が動いた。


 そして白いやつは俺の真正面ではなく、少し横へ回るようにして近付いてきた。


 再び鼻先が指へ触れる。


 今度はすぐには離れない。


「脚、洗うだけだから」


 俺はゆっくり指先を水へ浸し、その手を白いやつへ近付ける。


 途中で止める。


 逃げない。


 さらに少し。


 濡れた指先が前脚の毛へ触れた瞬間、白い身体がぴくりと揺れた。


 俺もすぐに止まる。


「嫌ならやめる」


 白いやつは逃げなかった。


「じゃあ、少しだけ」


 指先から水を流すようにして、毛に付いた泥と固まった汚れを少しずつ落としていく。


 前脚を引こうとする動きがあれば、そのたびに手を離す。


「痛いよな」


 急がない。


 何度かに分けて水で洗うと、傷の状態が少し見えてきた。


「思ったより深くないか」


 大きく裂けた傷ではない。


 それでも地面を歩けば汚れやすく、何度も擦れば治りにくそうだった。


「何か巻いた方がいいかな」


 包帯なんてない。


 植物繊維は硬すぎるし、そのまま傷へ当てれば逆に擦れそうだ。


 そこで自分の服を見る。


「…………」


 この服しかない。


 火を起こす時にも、布を裂けば火口に使えるかもしれないと思ったが、替えがないため使わずにきた。


 その袖口を指で摘まむ。


「……まあ、これくらいならいいか」


 石片を取り、袖の端へ小さな切れ目を入れてから手で裂く。


 びり、と予想以上に大きな音がした。


 白いやつが身を引いた。


「ごめんごめん」


 すぐに作業を止め、裂いた布を地面へ置く。


 また待つ。


 焦らない。


 白いやつは少し離れた場所から俺と布を見ていたが、やがて再び近付いてきて、最初と同じように俺の手の匂いを嗅いだ。


「よし」


 傷のある脚を無理に持ち上げることはしない。


 白いやつが自分で脚を少し浮かせたところへ布を通し、傷の周りへ軽く巻く。


「きつくしないように……」


 一周。


 もう一周。


 毛が邪魔で上手くいかない。


「動物の包帯って、もっとやり方あるんだろうな」


 そんな知識も道具も、今はない。


 何とか布がずれにくい程度に結んだ。


「できた……かな」


 右前脚に、不格好な白い布が巻かれている。


 白いやつは脚を少し持ち上げ、自分でもそれを見た。


「嫌なら取っていいからな」


 噛んで外されるかもしれない。


 それでも今のところ、そのままにしている。


 ほっとしたところで。


「ん?」


 白いやつが、また俺の手へ鼻を近付けた。


 今までと少し様子が違う。


 匂いを嗅ぎながら、不思議そうに俺の手を見ているような。


 そして。


 こてん、と小さく首を傾げた。


「何?」


 俺も自分の手を嗅いでみる。


 煙と水と、少し魚の匂いがするような気はする。


「分からん」


 白いやつはしばらく俺を見ていた。


 怖がっているというより、何か確かめようとしているようにも見える。


「変な匂いでもする?」


 当然、答えはない。


 やがて俺は、ゆっくり片手を持ち上げた。


 白いやつの目が、その手を追う。


「…………」


 頬の近くまで持っていく。


 逃げない。


 指先が白い毛へ触れた。


「柔らか」


 思っていたより細く、柔らかい毛だった。


 白いやつの身体が少し固くなったので、すぐに手を離そうとする。


 それでも逃げる様子はない。


「じゃあ……一回だけ」


 頬の横を、本当に軽く撫でる。


 白いやつは動かない。


 嫌がっているのか、受け入れているのかまでは分からない。


 でも、逃げなかった。


「触れたな」


 思わず笑う。


「ようやくだ」


 足跡だけだった。


 白い毛だけだった。


 遠くから見ていた。


 俺がいなくなったあとに、魚が減っていた。


 少しずつ近付き、水を飲み、そして今は手の届くところにいる。


 だからといって、ここで何度も撫でたり、抱き上げようとしたりするつもりはない。


「今日はこれで十分」


 手を膝の上へ戻す。


 白いやつもゆっくり俺から離れ始めた。


「帰る?」


 追わずに見送ろうとしたが。


「……ん?」


 森へは行かない。


 空き地の端、倒木から少し離れた草の上まで歩くと、そこで身体を丸くした。


「帰らないのか」


 白い身体が小さく丸まり、傷のある右前脚だけ少し前へ出ている。


 どうやら、そのまま休むらしい。


「…………」


 俺は何も言わなかった。


 声をかけたら、またこちらを気にするかもしれない。


 焚き火へ細い枝を一本足す。


 ぱちり、と火が鳴った。


 白い耳だけが小さく動いたが、顔は上げなかった。


「…………」


 初めて触れた。


 傷も洗えた。


 簡単ではあるが、布も巻けた。


 それだけでも今日は十分だと思っていた。


 なのに白いやつは森へ戻らず、空き地の端で身体を休めている。


 俺はその白い背中を一度だけ見て、また火へ視線を戻した。


 もう少し休んでいけばいい。


 声には出さず、そう思った。

第28話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


この森には薬と判断できるものも、きちんとした包帯もありません。


そのため今回は、傷についた汚れを湧き水で洗い、手持ちの布で軽く保護する程度に留めています。


分からない薬草を使うより、今できる範囲で傷を清潔に保つことを優先しました。

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