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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第三章「白い子犬」

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第27話 その前脚

第27話です。


少しずつ縮まってきた、白い存在との距離。


今回は、その歩き方に小さな違和感を見つけます。

昨日、白いやつは俺が見ている前で初めて魚を食べた。


 だからといって、急に仲良くなったわけではない。


 朝、焚き火へ細い枝を足しながら森の端を見るが、姿はなかった。


「まあ、毎日来るとは限らないか」


 そもそも野生の生き物だ。


 俺のところへ来る理由なんて、今のところ魚くらいしか思いつかない。


「腹減ってるだけかもしれないしな」


 昨日だって、魚を食べ終えれば森へ帰った。


 最後に一度だけ振り返ったように見えたが、それに何か意味があると思いたいのは、たぶん俺の方だ。


「期待しすぎない方がいいな」


 そう言いながら、また森へ視線を向けている。


「俺の方が気にしてるじゃん」


 少し笑い、朝の作業へ戻った。


 樹皮の水容器は、本格的に傷み始めている。


 昨日も気になっていたが、継ぎ目の葉が縮み、水の漏れる速度も少し速くなってきた。


「今日は新しいの作るか」


 前回より柔らかい樹皮を選び、内側へ重ねる大きな葉と蔓を用意する。


 一度作った経験がある分、最初より手順は分かっている。


「ここ、折りすぎると裂けるんだよな」


 樹皮を緩く曲げ、葉を内側へ重ね、底が抜けないよう蔓を巻いていく。


 少し歪んだ。


「まあ、水入ればいい」


 見栄えは二の次だ。


 そんな作業をしていると。


 かさ。


 森の端から音がした。


「…………」


 手を止め、ゆっくり顔を上げる。


「来た」


 白いやつが、昨日と同じくらいの距離からこちらを見ていた。


「おはよう」


 何となく声をかけると、白い耳が小さく動く。


「…………」


 今のは声に反応したのだろうか。


 いや、耳の良い動物なら音がすれば動くだろう。


「それくらい普通か」


 作業へ戻り、見続けないようにする。


 昨日も、それで少しずつ近付いてきた。


 しばらくすると、白いやつは森の外へ身体を出し、ゆっくりこちらへ歩き始めた。


 そこで、俺の手が止まる。


「ん?」


 何かがおかしい。


 一歩。


 もう一歩。


 右、左。


「…………」


 白いやつが右の前脚を地面へついた時だけ、少し早く次の脚へ体重を移している。


「待て」


 もう少し見る。


 やはり同じだ。


「庇ってる?」


 以前、雨上がりの泥で見つけた足跡を思い出す。


 あの時、一部の跡だけ少し浅かった気がした。


 足跡だけでは何も分からないと思って、それ以上は考えなかったが。


「もしかして、あの時から?」


 思わず立ち上がる。


「…………」


 白いやつの動きが止まった。


 耳が立ち、身体へ力が入る。


「ちょっと、その脚――」


 俺が一歩近付いた瞬間、白いやつは後ろへ下がった。


「あ」


 もう一歩行こうとすると、今度は身を翻して森へ走り出す。


「待っ――」


 反射的に追いかけそうになり、足を止めた。


「追うな」


 自分へ言う。


 仮に捕まえられたとして、それでどうなる。


 今まで追わなかったから、少しずつ向こうから距離を縮めてきた。


 怪我をしているかもしれないと気付いた途端、俺の都合でそれを壊すのは違う。


「…………」


 森を見る。


 白いやつは完全に消えたわけではなかった。


 少し離れた木の陰で止まり、こちらを見ている。


「ごめん」


 聞こえるかどうか分からない距離へ声をかける。


「行かないから」


 俺の方から一歩下がり、さらにもう一歩距離を取る。


 白いやつは動かなかった。


「やっぱり怪我してるのか?」


 右の前脚を外から見ただけでは、傷なのか、何か刺さっているのか、腫れているのかも分からない。


 走ることはできているし、森へ逃げ込んだ時もかなり速かった。


「重傷って感じじゃない……のか?」


 それも決めつけられない。


 野生の動物は弱っていることを隠す。


 そんな話を以前どこかで聞いた気がする。


「犬もそうだったっけな」


 記憶は曖昧だ。


 ただ今の俺が、離れた場所から見てできることはほとんどない。


「薬もないし」


 仮に薬草らしいものがあっても、それが本当に傷へ使える植物なのか分からない。正体不明の草を傷口へ塗るなんて、今の俺には怖くてできない。


「傷なら、まず水で洗うくらいか」


 前世で見聞きした応急手当を思い出す。


 汚れを落とす。


 清潔にする。


 少なくとも、その程度なら分かる。


「でも、触れないんだよな」


 そこで、まだ今朝の水を汲みに行っていないことへ気付いた。


「水……飲むかな」


 森で暮らしているのだから、自分で水場くらい知っているだろう。


 それでも怪我をしているなら、歩く距離が少なくて済む方がいいのかもしれない。


「余計なお世話かもしれないけど」


 今できることは、そのくらいだ。


 石斧と樹皮の容器を持つと、白いやつが少し身体を低くした。


「大丈夫、水取ってくるだけ」


 言葉が分かるはずもないのに、つい説明してしまう。


「待ってろとは言わないからな」


 来たければ来る。


 帰りたければ帰る。


 それでいい。


 白いやつとは反対側から空き地を出て、いつもの湧き水へ向かう。


 歩きながら、さっきの動きを何度も思い返した。


「右前脚」


 やはり体重をかける時間が短かった。


「前からだったんだな」


 足跡の時にもっと気をつけていれば、早く気付けたのだろうか。


「いや」


 足跡だけで怪我だと決めつける方が危ない。


 今、実際に歩く姿を見たから気付けた。


「それでいいか」


 湧き水へ着き、周囲に大きな動物がいないことを確認してから水を汲む。


「今日は、あいつの分も……って」


 そこまで言って止まる。


「別に俺が飼ってるわけじゃないんだよな」


 白いやつは、俺が来る前からこの森で生きていた。


 水も食べ物も、本来なら自分で探しているはずだ。


 それでも容器へ水を汲む。


「余計なお世話なら、飲まないだろ」


 それでいい。


 空き地へ戻る前に一度足を止め、周囲を見る。


「……いた」


 少し場所は移動しているが、白いやつはまだ近くにいた。


「帰らなかったんだ」


 嬉しくなる。


 ただ、さっきと同じ失敗はしない。


 普段水を置いている屋根の下へは行かず、白いやつから十分離れた平らな場所へ樹皮の容器をそっと置いた。


「水」


 白いやつはこちらを見ている。


「飲む?」


 動かない。


「…………」


 俺が近くにいるのだから当然か。


「分かった」


 一歩下がる。


 まだ動かない。


 さらに一歩、もう一歩と下がり、最後は焚き火の近くまで戻って座った。


「これなら?」


 真正面から見ないようにして、途中だった新しい容器を手に取る。


 蔓を巻きながら、視界の端だけで様子を見る。


 しばらくすると、白いやつが動いた。


 一歩。


 止まる。


 また一歩。


「…………」


 やはり右の前脚を少し庇っている。


「間違いないな」


 怪我なのか、痛めているだけなのかまでは分からない。


 ただ、痛みがあるのは間違いなさそうだった。


 白いやつは少しずつ水へ近付き、容器のところまで来ると鼻先を寄せた。


 一度こちらを見る。


「飲めばいいよ」


 なるべく静かな声で言う。


「怪我してるなら、水くらい飲め」


 白い耳がぴくりと動いた。


 こちらを見る。


「聞こえた?」


 まあ、耳が良ければ当然か。


 それ以上は何も言わずに待つ。


 白いやつは水面へ鼻先を近付け、やがて舌を出した。


 ぺろ。


「飲んだ」


 もう一度。


 ぺろ、ぺろと何度か水を舐める。


「そうやって飲むんだな」


 犬っぽい。


 何だか少し安心した。


 何に安心したのか、自分でもよく分からない。


「喉渇いてたのか」


 白いやつはしばらく水を飲んだあと、顔を上げてこちらを見た。


「今日は水だけ」


 魚は置いていない。


 白い耳がまた小さく動く。


「何か、俺が喋るたび耳動くよな」


 犬なら普通なのだろうか。


「そういうもんか」


 今は深く考えない。


 白いやつが水から離れる。


 そこで、改めて右前脚の動きが見えた。


「やっぱり痛いんだな」


 今度はほぼ確信した。


 白いやつは森の方を向き、ゆっくり歩き始める。


「帰る?」


 もちろん呼び止めない。


 歩けてはいるが、右の前脚だけ少し使い方が違う。


「無理してんのかな」


 傷があるなら見たい。


 汚れているなら洗ってやりたい。


 でも今は、まだ触れない。


「追わない」


 今日二度目になるその言葉を、自分へ言い聞かせる。


「こっちが焦ったら駄目だ」


 白いやつが森へ入る前、一度だけ止まってこちらを見た。


「また来いよ」


 思わず言ってから、少し考える。


「いや……来たかったら」


 白いやつは何も返さず、そのまま森の奥へ消えていった。


 姿が完全に見えなくなってから、水の容器へ近付く。


「飲んだな」


 水面は少し減っている。


 その横には、小さな足跡が残っていた。


 右と左を見比べる。


「…………」


 一つだけ、やはり少し浅い。


「前からだったんだな」


 最初に足跡を見つけた時から。


 俺が気付かなかっただけだ。


「…………」


 白いやつが消えた森を見る。


 傷なら、汚れたままにするより水で洗った方がいい。


 でも、触れることができなければどうしようもない。


「向こうから来るまで待つしかないか」


 昨日は魚を置き、今日は水を置いた。


 俺から距離を詰め続ければ、そのうちここが「人間に何かされる場所」になってしまうかもしれない。


「次は、何もしない方がいいな」


 白いやつが来ても、追わない。


 近付かない。


「座って待つだけ」


 それで向こうから近付いてくるなら、その時に考える。


 前脚のことは気になる。


 かなり気になる。


「早く見せてくれればいいんだけどな」


 もちろん、それを決めるのも俺ではない。


 俺は白いやつが飲んだ分だけ少し軽くなった水の容器を持ち上げ、焚き火のそばへ戻った。

第27話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


野生の動物は、弱っていることを外から分かりにくくする場合があります。


今回は姿を何度か見られるようになったことで、主人公もようやく歩き方の小さな違いに気付きました。


ただ、原因や傷の状態まではまだ分かっていません。

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