第26話 もう少しだけ、近く
第26話です。
第三章「白い子犬」の始まりです。
森の端から見ているだけだった白い存在が、少しずつ火の近くまで来るようになりました。
まだ触れられる距離ではありませんが、昨日とは少し違うことが起こります。
朝、屋根の外へ出ると、俺は昨夜白いやつが座っていた場所へ自然と目を向けていた。
もちろん、そこにはもう何もいない。
「まあ、そうだよな」
夜のうちに森へ戻ったらしい。
昨日、白いやつは火から十分に離れた場所まで出てきて、そのまましばらく座っていた。最後には、ほんの一歩だけこちらへ近付いたようにも見えた。
思い返していると、少し口元が緩む。
「いや、期待するな」
野生の生き物なのだから、昨日来たから今日も来るとは限らない。一度近付いてみて危険だと判断したなら、そのまま姿を見せなくなることだってある。
「俺は俺のことやるか」
まずは焚き火へ乾いた葉と細い枝を足し、残っていた火種へ何度か息を吹き込む。
小さな炎が戻ったところで、次は水だ。
樹皮の容器を手に取ると、昨日より少し形が崩れていた。何度も濡れては乾くことを繰り返しているせいか、継ぎ目に使った葉も縮み始めている。
「そろそろ作り直した方がいいかな」
今日一日くらいなら使えそうだが、完全に壊れてからでは困る。
そう頭の片隅へ置いて、石斧と杖を持ち、水を汲みに向かった。
湧き水までの道には、もう見慣れた目印がいくつもある。
曲がった木、白っぽい岩、大きく盛り上がった根。
最初の頃のように、一歩進むたび帰り道を心配することはなくなった。
ただ今日は、いつもより何度も後ろを振り返ってしまう。
「…………」
当然、何もいない。
「何やってんだ、俺」
昨日の白いやつが後ろからついてきているんじゃないか、そんなことを少しだけ考えていた。
「まだ俺がいるところで飯食ったこともないのに、ついてくるわけないか」
自分で苦笑しながら湧き水へ向かう。
周囲を確認してから容器へ水を汲み、こぼさないよう両手で抱える。
「急ぐとこぼすし、ゆっくりだと漏れるし……」
相変わらず扱いづらい。
それでも、最初に作った時よりは持ち方も歩き方も慣れてきた。
空き地へ戻ると、いつものように口から言葉が出る。
「ただいま」
返事はない。
分かっているのに、森の端を見てしまった。
「いないか」
少し残念に思った自分へ気付き、頭を掻く。
「だから期待するなって」
水を屋根の下へ置き、午前中は植物繊維の続きをすることにした。
葦に似た植物を細く裂き、水で少し湿らせてから撚り合わせる。
以前よりは、繊維同士を長く重ねてつなぐことにも慣れてきた。
「…………」
試しに引っ張る。
「前よりはマシ」
もう少し力を込めると、ぷつりと切れた。
「あ」
まだ丈夫な紐と呼べるほどではないが、少なくとも最初より長くは作れるようになっている。
「魚の仕掛けくらいなら使えるかな」
棚の上には、以前削り始めた魚の骨もある。
これと植物繊維を使って釣りらしいものを作れれば、毎回浅瀬で魚を追い回す必要もなくなるかもしれない。
「まあ、道具ができても釣れるかは別なんだけど」
作れた。
使えた。
魚が捕れた。
全部別の話だということは、ここへ来て何度も思い知らされている。
そんなことを考えながら作業を続けていると、森の端から小さな葉擦れの音がした。
かさ。
「…………」
手が止まる。
すぐには顔を向けず、しばらくそのまま待つ。
もう一度。
かさり。
ゆっくり視線だけを動かす。
「いた」
木の陰から、白いやつがこちらを見ていた。
昨日とは少し違う場所だが、距離は同じくらいだろう。
「来たんだな」
小さく呟くと、白い耳がわずかに動いた。
俺は立ち上がらず、そのまま作業へ戻る。
植物繊維を撚りながら、時々だけ視線を向ける。
白いやつは逃げずにいる。
しばらくすると、身体の半分ほどを木の陰から出した。
「…………」
また少し作業する。
次に見た時には、ほとんど全身が森の外へ出ていた。
「昨日と同じくらいかな」
十数メートル。
走ればすぐに届きそうな距離だが、今のこいつにとっては、たぶん随分大きな距離なのだろう。
俺は手元へ視線を戻した。
白いやつが、一歩前へ出る。
反射的に見た瞬間、目が合った。
「…………」
白い身体がぴたりと固まる。
「あ」
俺はすぐに視線を焚き火へ逸らした。
「見られるの、まだ嫌か」
知らない相手から正面を向いて見続けられれば、俺だって落ち着かない。
焚き火へ細い枝を一本足すと、ぱちりと音が鳴った。
白いやつは身体を少し強張らせたが、逃げなかった。
「…………」
それだけで妙に嬉しい。
しばらくして、口から自然に出た。
「何か食う?」
白い耳が動く。
「いや、言葉分かるわけないか」
犬か狼、それともよく似た別の何かなのか。
まだそれすら分からない。
昨日までは、俺がいなくなったあとに魚が減っていた。
今日はどうするだろう。
「…………」
魚の身は少し残っている。
朝、匂いや状態を確認して、自分で昼までに食べるつもりだったものだ。
ほんの一欠片なら、分けても困らない。
ただ、毎日食べ物を置き続けるのは良くない気もする。
俺のところへ来れば必ず食べ物があると覚えさせることが正しいのか、今の俺には分からない。
「試すだけにするか」
小さく魚の身を取り、葉へ乗せる。
立とうとすると、白いやつがこちらの動きをじっと見た。
「…………」
ゆっくり立ち上がる。
白いやつはすぐ一歩後ろへ下がった。
「分かった、行かないから」
その場で一度止まり、身体を真正面へ向けないよう少し横向きになってから、数歩だけ移動する。
白いやつとの中間より、やや向こう側。
そこにあった平たい石の上へ葉を置いた。
「ここ」
魚は本当に一欠片だけ。
そのまま元の場所へ戻り、焚き火のそばへ座る。
「食うならどうぞ」
それ以上は何も言わず、火へ目を向けた。
当然、すぐには来ない。
白いやつは魚と俺を交互に見ている。
「まあ、俺いるしな」
昨日までは、俺がいる間に魚へ近付いたことはなかった。
「今日は無理でもいいか」
そう思い、途中だった植物繊維を手に取る。
撚る。
重ねる。
また撚る。
白いやつのことは、なるべく視界の端だけで確認する。
どれくらい経ったのか。
五分か、それ以上か。
やがて白い影が動いた。
「…………」
見ない。
一歩。
止まる。
また一歩。
魚へ近付いている。
こちらを確認するたび、俺は手元へ視線を戻した。
しばらくして、白いやつは平たい石のところまで来た。
鼻先を魚へ近付け、匂いを嗅ぐ。
顔を上げる。
こちらを見る。
「…………」
目が合いそうになり、すぐ逸らす。
長い。
ものすごく長く感じる。
食べればいいのに、と言いたくなるが、余計なことはしない。
やがて白い頭がゆっくり下がった。
一口。
「…………」
食べた。
思わず声が出そうになり、慌てて飲み込む。
白いやつが顔を上げる。
俺は焚き火を見たまま動かない。
少しすると、もう一口。
葉の上から魚がなくなった。
「食った」
今度は聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟く。
「俺がいるのに」
白いやつは、すぐには逃げなかった。
魚がなくなった葉を鼻で確かめている。
追加でもう少し出せば、ここに留まるかもしれない。
そんな考えが一瞬浮かんだが、やめた。
「今日はこれだけ」
俺がいる。
それでも食べた。
今日はそれで十分だ。
白いやつがこちらを見る。
目が合うと、やはり少し身体が固くなった。
「ごめん」
視線を外す。
「まだ見られるの嫌だよな」
少しして、地面を踏む小さな音が遠ざかり始めた。
顔を上げると、白いやつは森の方へ戻っている。
「帰るのか」
呼び止めない。
「じゃあな」
白い身体が木々の間へ入り、そのまま見えなくなる。
そう思った時だった。
「ん?」
木の陰から、白い頭が一度だけこちらへ向いた。
すぐに姿は消える。
「……振り返った?」
ただ後ろを確認しただけかもしれない。
「まあ、そういうことにしとくか」
少し笑って、魚を置いていた葉を回収する。
昨日は火へ一歩近付いた。
今日は俺がいる前で魚を食べた。
「一歩進んだな」
そこまで考えたところで、自分で止める。
「次とか考えるな」
次はもっと近く。
次は触る。
そんなふうに俺が予定を決めることではない。
近付きたいかどうかを決めるのは、あいつだ。
「来たら、その時考えればいい」
焚き火のそばへ戻り、途中だった紐をまた撚り始める。
棚も直したいし、水容器もそろそろ作り直さなければならない。
「俺のやることも、まだいっぱいあるしな」
白いやつだけを見て暮らしているわけにはいかない。
しばらくして、今日自分が食べる分の魚へ目が向いた。
「…………」
昨日までなら、全部俺の分だった。
次に魚が捕れた時、余裕があれば少し残しておく。
そんな考えが、いつの間にか自然に浮かぶようになっている。
「俺が腹減らして倒れたら意味ないけど」
それでも。
自分の飯を、ほんの少し誰かへ分ける。
それも、この場所で暮らし始めてから増えた新しいことの一つなのかもしれなかった。
第26話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
野生の生き物にとって、食べ物があることと、その近くに人間がいることは別の問題です。
白い存在はまだ強く警戒していますが、今回は初めて主人公の姿が見える場所で魚を口にしました。
距離はまだ十数メートルほど。
昨日より、ほんの少しだけ近くなっています。




