第20話 白い足跡
第20話です。
雨が上がった朝。
拠点の近くに、主人公以外の小さな痕跡が残っていました。
雨が上がった翌朝。
「……晴れたな」
屋根の下から顔を出すと、昨日まで空を覆っていた雲はかなり薄くなっていた。
木々の隙間から朝日が差し込み、濡れた葉が光っている。
森全体から、雨上がり特有の湿った匂いが漂っていた。
「屋根も……大丈夫そうだな」
振り返る。
昨日の雨を一晩越えた屋根は、一部の葉が少しずれている程度で、大きく崩れたところはない。
二本立てた柱も残っている。
支えに使った枝も外れていない。
「よし」
手で柱を揺らしてみる。
少し動く。
「ここは、もうちょっと固めた方がいいか」
覚えておく。
雨の中では気付かなかった問題が、晴れてから見えてくることもある。
「あと、こっち」
焚き火を見る。
昨日、雨を直接受けないよう簡単な雨よけを作った場所だ。
樹皮を何枚か斜めに立て、煙の出口を塞がないよう火から距離を取ってある。
「これは……仮だな」
雨を多少防ぐことはできた。
でも、風向きが変われば雨は普通に入ってくる。
「もっとちゃんと考えないと」
課題は残っている。
それでも。
「寝床、濡れてない」
これだけでも十分だった。
雨上がりなのに、乾いた寝床から起きられた。
「ありがたいな」
焚き火の残りを確認する。
赤く残った火種へ、乾いた細枝を少しずつ重ねる。
息を吹き込むと、小さな炎が戻った。
「これも問題なし」
次。
水。
樹皮の容器を確認する。
昨日汲んだ分は、ほとんど残っていない。
「まあ、そうだよな」
長く保存するためのものではない。
今日はあとで汲みに行く。
それでも、何をどこで準備すればいいのか迷う時間は、最初の頃より確実に減っていた。
「これなら今日は……」
途中まで作っていた植物繊維。
魚を捕るための道具。
薪置き場。
物の置き場所。
「いや」
周囲を見る。
「先に雨の後を確認しとくか」
一度大雨を経験してから、雨上がりには地面を見るようになった。
どこへ水が流れたのか。
どこがぬかるんでいるのか。
屋根から落ちた水がどこへ集まったのか。
「次に作る時の参考になるしな」
石斧を腰へ差し込むように持ち、杖代わりの棒を手にする。
空き地の端から、ゆっくり歩き始めた。
「ここは大丈夫」
寝床の周辺。
以前確認した通り、水は反対側へ流れている。
新しい屋根の端から落ちた雨水で、少しだけ地面が削れていた。
「ここ」
しゃがみ込む。
浅い溝。
「雨樋……」
言ってから笑う。
「そこまで立派なものじゃなくても、水の通り道を作ったらいいのか?」
屋根から落ちた水を寝床から遠ざける。
「後で試してみよう」
地面へ枝で印をつける。
そのまま空き地の外周へ向かう。
昨日の雨で土が柔らかくなっている。
「…………」
そして。
「またあるな」
足跡。
二つに割れた蹄のような跡。
以前から何度か見つけているものだ。
「昨日の夜かな」
雨が弱くなったあとに通ったのかもしれない。
跡がそれほど崩れていない。
「空き地までは入ってない」
森の縁を横切るように続いている。
「相変わらず、この辺は動物多いな」
少し前なら。
足跡一つ見つけるだけでかなり緊張していた。
今も警戒はしている。
でも。
蹄の跡。
鳥の跡。
小さな動物らしい跡。
少しずつ見慣れてきた。
「慣れすぎるのも怖いけどな」
危険な獣道には、俺の手よりも大きな足跡を残す何かがいる。
そのことは忘れない。
「…………」
さらに歩く。
そこで。
「ん?」
足が止まった。
いつもとは違う跡があった。
「何だこれ」
しゃがみ込む。
湿った土。
その表面へ、小さな窪みがいくつか続いている。
「足跡……だよな?」
蹄ではない。
鳥の三本指とも違う。
丸い。
中央に肉球らしい跡があり、その前には小さな指のような跡が並んでいる。
「犬?」
最初に浮かんだのは、それだった。
「いや、狼?」
判断できない。
そもそも。
「この世界に犬とか狼がいるのかも分からないけど」
形だけなら、それに近い。
自分の指と比べる。
「小さいな」
掌に収まる程度。
以前獣道で見た巨大なものとは、比べものにならない。
「子供?」
大型の獣の子供。
その可能性もある。
「それは、それで嫌だな」
子供がいるなら。
近くに親がいるかもしれない。
「…………」
周囲を見る。
木々。
草。
倒木。
動くものはない。
「落ち着け」
すぐに危険と決めつける必要もない。
小型の動物なんて、この森にはいくらでもいるだろう。
「どっちから来た?」
足跡を追う。
森の方から。
一つ。
もう一つ。
雨で柔らかくなった土の上に、小さな足跡が続いている。
「…………」
その方向を目で辿り。
「え?」
思わず空き地を見る。
「こっち来てる?」
跡は。
森の縁で終わっていない。
一歩。
また一歩。
空き地の内側へ向かっていた。
「…………」
立ち上がる。
足跡を踏まないよう横を歩く。
一つ。
一つ。
「結構入ってるな」
焚き火からは離れている。
寝床からも距離がある。
それでも。
「空き地の中だ」
この辺りで見つけた動物の跡は、これまでほとんど森の縁か水辺だった。
少なくとも。
自分が生活している場所の中まで、はっきり足跡が残っていたことはない。
「昨日の夜?」
雨の音で気付かなかった?
あるいは。
「雨止んだ後か」
俺が眠ったあと。
火は残っていたはずだ。
「火、怖くないのか?」
足跡を見る。
焚き火へ一直線に近付いたわけではない。
空き地の端。
屋根からも離れたところを。
「ぐるっと回ってる?」
何となく。
そんな風に見えた。
空き地へ入り。
少し歩き。
また森の方向へ。
「何しに来たんだ?」
答えは当然ない。
「匂い?」
食べ物。
焚き火。
魚を焼いた匂い。
「魚……」
少し嫌な予感がした。
前に魚を捌いた。
内臓は空き地から離れた場所へ埋めた。
「匂い残ってた?」
その可能性はある。
「食べ物狙いなら……」
今後はもっと気をつけなければならない。
小さい動物ならまだいい。
同じ匂いに大きな獣が寄ってきたら笑えない。
「処理の方法も考えないとな」
また課題。
「…………」
足跡へ戻る。
形も歩幅も見慣れたものではない。
けれど、足跡だけから正体や状態まで判断できるほど、俺に経験はなかった。
「決めつけない」
分かるのは、小さな四本足の何かがここまで来たということだけだ。
足跡をさらに辿る。
森へ戻る少し手前。
「ん?」
何かが枝へ引っかかっていた。
指で取ろうとして。
「…………」
止める。
最初に棒の先で軽く触る。
動かない。
「毛?」
細い。
柔らかそうな毛。
一本ではない。
数本が枝のざらついた部分へ絡んでいる。
「白い」
かなり明るい色だった。
灰色というより。
「ほとんど白だな」
手へ取る。
短くて柔らかい。
「…………」
小さな足跡。
白い毛。
「白い犬……みたいなの?」
また犬が浮かぶ。
「いるのかな」
犬。
そう思うと、少しだけ警戒心が弱くなりそうになる。
「いや」
すぐに首を振った。
「見た目が犬っぽいとは限らない」
そもそも姿を見ていない。
この森の生き物だ。
小さい足跡だから安全。
白い毛だから可愛い。
そんな判断は危ない。
「巨大化する子供かもしれないしな」
自分で言って。
「それは嫌だな……」
白い毛を枝の上へ戻す。
持って帰ったところで何に使えるわけでもない。
「でも、いるんだな」
何かが。
この空き地の近くに。
「…………」
森を見る。
「今も?」
目を凝らす。
葉。
木の幹。
暗い茂み。
何も見えない。
「…………」
少しだけ。
以前感じた視線のことを思い出した。
ここで暮らすと決めた日。
森の方から、誰かに見られているような気がした。
あの時は。
鳥か小動物だろう。
そう考えた。
「もしかして……」
この足跡の主?
「いや」
証拠はない。
「考えすぎだな」
それでも。
何となく。
森の奥が気になった。
「…………」
しばらく見る。
動くものはない。
「まあ、姿を見てからだ」
今の段階では。
小さな四本足の何かが、拠点の近くまで来た。
分かるのはそれだけ。
「危ないのかも分からない」
なら。
「追わない」
以前の獣道と同じ。
気になるからといって、森の奥まで足跡を追いかける必要はない。
「向こうから来たなら、また来るかもしれないし」
その時。
安全な距離から姿を確認できればいい。
「…………」
足跡を見る。
白い毛。
「白い足跡、か」
正確には。
足跡そのものは茶色い泥の窪みだ。
「毛が白いだけだけど」
でも。
今の俺には。
他の足跡とは少し違って見えた。
巨大な獣の跡は。
見つけた瞬間、できるだけ離れたいと思った。
この小さな跡は。
「何なんだろうな」
少しだけ。
正体を見てみたいと思う。
「油断はしないけど」
空き地へ戻る。
「とりあえず……」
今日やる予定だった作業を始める。
昨日の雨で少しずれた屋根の葉を直す。
柱の根元へ石を追加する。
屋根から水が落ちて地面を削っていたところへ、浅い溝を掘る。
「こうして」
棒で土を削り。
「こっちへ流す」
寝床とは反対側へ。
「雨降らないと分からないけどな」
また試せばいい。
次に。
濡れた枝を日当たりのいい場所へ並べる。
「乾燥」
乾いた薪と濡れた薪を混ぜないよう、置く場所を少し離す。
「これ」
地面へ石を並べる。
境界線代わり。
「乾いた方」
反対。
「濡れてる方」
一歩離れて見る。
「……分かりやすい」
物が増えてきた。
置く場所も決めた方がいい。
「そろそろ棚とか欲しいな」
石斧。
石片。
植物繊維。
魚の骨。
樹皮の容器。
「地面に置きっぱなしだもんな」
雨の日は屋根の下へ全部押し込んだせいで、かなり狭くなった。
「次はこれか?」
やることはまだある。
紐作りも途中だ。
「…………」
作業しながら。
時々。
森へ視線が向いた。
「…………」
何もいない。
しばらくして。
また見る。
「…………」
やっぱり何もいない。
「気にしすぎだな」
自分で笑う。
でも。
どうしても。
あの小さな足跡が頭から離れない。
昼。
橙色の実を食べる。
半分。
残りを少し置いておく。
「…………」
ふと。
足跡を思い出す。
「食べ物目当てだったら」
これを外へ置けば来る?
「いやいや」
すぐに手へ戻す。
「まだ駄目」
何が来るのか分からない。
意図的に餌を置くのは。
「もうちょっと正体分かってから」
食べ物で呼び寄せた結果。
想像より大きいものが来たら困る。
「それに」
一度餌を与えたら。
その後も来るようになるかもしれない。
野生動物へ食べ物を与える危険。
前世でも、そんな話を聞いたことがある。
「今は何もしない」
決める。
「来るなら勝手に来るだろ」
俺は俺の生活をする。
それでいい。
午後。
細い植物繊維を何本か作る。
以前より。
「ちょっとましになってきた」
裂く幅をある程度揃える。
水へ少し浸す。
二本を撚る。
途中へ次の繊維を重ねる。
「ここが難しいんだよな」
つなぎ目が弱い。
引っ張る。
「…………」
ぷつ。
「あ」
切れた。
「まだ駄目か」
やり直す。
そんなことを繰り返しているうちに、太陽が傾き始めた。
「今日はこんなもんかな」
屋根。
水。
薪。
道具。
確認する。
「よし」
寝る前。
もう一度、朝見つけた場所へ向かった。
「…………」
足跡は残っている。
当然だ。
「増えては……ないな」
昼間。
ここへ来た様子はない。
「夜行性?」
分からない。
「何でもいいけど」
森を見る。
「寝てる時に顔の上へ来るのはやめてくれよ」
冗談半分。
でも本当に来たら困る。
「…………」
空き地へ戻る途中、もう一度だけ森の端を振り返った。
「…………」
木々の間。
白っぽいものが、一瞬だけ動いた。
「え?」
小さい。
鳥が飛んだようには見えなかった。
目を凝らした時には、もう何もいない。
「今の……」
一歩だけそちらへ向きかけて、止まる。
「追わない」
足跡の時に決めた通りだ。
何がいるのか分からない以上、森の中まで追いかける必要はない。
俺はその場所を覚えるだけにして、空き地へ戻った。
夜。
焚き火。
新しい屋根。
雨上がりのせいか、空気は少し冷たかった。
火へ枝を一本足す。
ぱちっ。
「…………」
森の奥で。
何かが動いたような気がした。
顔を上げる。
「…………」
暗い。
「またか?」
目を凝らす。
何もいない。
「…………」
しばらくして。
「気のせいか」
火へ視線を戻す。
ただ。
今夜は。
昨日までより。
少しだけ森の暗闇を意識してしまう。
怖い。
というのとは少し違う。
「白い毛、か」
どんな生き物なんだろう。
「…………」
気になる。
でも。
「追いかけない」
それでいい。
もし、この空き地へ興味があるなら。
きっと。
また何か痕跡を残す。
「その時に考えよう」
焚き火へ手をかざす。
雨の翌朝。
泥の中に残っていた。
小さな。
小さな足跡。
今はまだ。
それが。
これからの暮らしを少し変えることになるなんて。
俺は知るはずもなかった。
第20話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
森にはさまざまな生き物が暮らしています。
主人公が見つけた小さな足跡も、その中の一つにすぎませんが、今までより少しだけ拠点の近くに残された痕跡でした。




