閑話 火の向こう側
短い閑話です。
主人公が初めて森で夜を越した頃。
本人が知らないところで、森の生き物たちは少しだけ奇妙な動きをしていました。
森に夜が訪れる。
木々の隙間から差し込んでいた光が消え、昼の間は葉の陰に隠れていた生き物たちが、少しずつ動き始める時間だった。
枝から枝へ小さな影が飛び移り、地面を這うものが落ち葉を揺らす。
遠くからは低い鳴き声が響き、それに応えるように別の場所からも声が返った。
いつもの夜。
少なくとも、森の大部分ではそうだった。
けれど、その日。
巨大な倒木によって生まれた小さな空き地には、今まで存在しなかったものが一つ増えていた。
火だった。
ぱちっ。
乾いた枝が弾け、小さな火の粉が暗闇へ舞う。
決して大きな火ではない。
森の闇を押し返せる範囲など、空き地のほんの一部にすぎなかった。
その火のそば。
倒木の根元に作られた粗末な寝床で、一人の人間が身体を丸めていた。
「…………」
眠っている。
いや、
正確には、眠ろうとしていた。
遠くで何かが鳴くたびに身体が動き、近くで枝が折れれば目を開ける。
そのたびに周囲を確認し、何も見つからなければ再び目を閉じる。
そして、火が弱くなれば起き上がり。
「消えるなよ……」
枝を一本焚き火へ放り込む。
炎が少し大きくなる。
その様子を森は見ていた。
空き地から少し離れた場所。
草を踏む小さな音がする。
暗闇の中から、一頭の獣が姿を現した。
二つに割れた蹄を持つ、四本足の生き物。
普段なら、この辺りを通って水のある方へ向かう。
その夜も、いつもと同じ道を歩いてきた。
けれど。
空き地が見えるよりも先に。
その足が止まった。
「…………」
頭を上げる。
鼻先が何度か動く。
風に乗って届くのは、燃える木の匂い。
煙。
そして。
今までこの森にはなかった、人間の匂い。
獣は動かない。
火を警戒しているのなら、珍しいことではなかった。
炎を嫌う生き物は多い。
けれど。
火までは、まだ随分と距離がある。
風向きも悪くない。
それでも獣は、それ以上前へ進もうとしなかった。
前脚を一度だけ持ち上げ地面へ戻す。
耳が動く。
しばらく空き地の方向を見たあとゆっくり身体の向きを変えた。
来た道とは違う。
大きく空き地を避けるように、森の奥へ消えていく。
その音に。
「ん……?」
倒木の下で、人間が目を覚ました。
身体を起こし、暗闇を見る。
「…………」
何もいない。
火の向こうに見えるのは、木。
草。
そして暗い森だけ。
「何かいた?」
しばらく目を凝らす。
それでも何も見つからない。
「……火を怖がったのかな」
人間はそう呟いた。
そして、焚き火へ一本の枝を足す。
「頼むから朝まで持ってくれよ」
再び寝床へ身体を戻した。
その考えは。
別に間違っているわけではない。
火は確かに、生き物を近付きにくくする。
けれど。
それだけではなかった。
夜が深くなる。
空き地の反対側。
今度は別の影が木々の間を動いていた。
先ほどの獣よりも大きい。
重い身体が地面を踏むたび、枯れ枝が小さく折れる。
その生き物は、空き地へ向かって歩いていたわけではない。
ただいつも使う場所をいつものように通ろうとしていただけだった。
一本の木の横を通り、低い茂みを抜ける。
そのまま進めば少し先に、巨大な倒木のある空き地がある。
しかし。
途中で止まった。
「…………」
暗闇の中。
低い位置で何かが動く。
呼吸。
鼻先。
あるいは耳。
何を感じ取ったのか。
それを知る者はいない。
ただ。
生き物は、前へ進まなかった。
しばらくその場に留まり。
やがて道を変えた。
空き地へ近付くことなく、木々の向こうへ姿を消す。
残ったのはほんの少し踏み荒らされた草と深く沈んだ足跡だけだった。
倒木の下にいる人間はもちろん、そのことを知らない。
寝ている。
時々起きる。
火を見る。
枝を足す。
また横になる。
ただ、それだけだった。
夜がさらに深くなるにつれて、焚き火は少しずつ小さくなっていった。
炎が大きく揺れていた時間より。
赤く光る炭だけになっている時間の方が長くなる。
それでも。
空き地へ入ってくるものはいなかった。
森の生き物たちは近くを通る。
遠くから鳴く。
木々の間から空き地を見る。
けれど一定の場所から先へは。
妙に近付こうとしなかった。
「…………」
夜明け前、火はもう、小さな赤い光になっていた。
人間は倒木の下で眠っている。
その少し離れたところ。
茂みがかすかに揺れた。
白いものが見える。
ほんの少しだけ。
夜の森では目立つはずの、小さな白い影。
他の生き物たちと同じように。
空き地には入らない。
けれど、逃げることもしなかった。
茂みの陰からただ倒木の下にいる人間を見ていた。
時々。
焚き火を見る。
また人間を見る。
しばらくすると小さな白い影は、音もなく森の奥へ姿を消した。
やがて空が青くなり始める。
鳥が一羽。
朝を知らせるように鳴いた。
それに続き森のあちこちから声が聞こえ始める。
「……朝?」
倒木の下の人間が目を覚ました。
身体を起こし。
狭い寝床から這い出す。
「……生きてるな」
そう言って。
笑った。
自分が夜の間何度も森の生き物たちに見られていたことも。
それらが妙に空き地へ近付かなかったことも。
何一つ知らない。
本人が知っているのは火を絶やさず何とか最初の夜を越えられたということだけだった。
「……腹減った」
森の朝に。
腹の音が響く。
そしてその日から水を探し、
食べ物を探し、
雨を越え、
石を叩き、
一本の木を切り、
少しずつ、
人間の手が、この小さな空き地へ加わっていくことになる。
まだ、
本人は知らない。
自分が森を見ているのと同じように。
森の側からも。
ずっと。
見られているということを。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、主人公が初めて夜を越した第4話を、少し離れた視点から描いてみました。
主人公は、森の生き物が近付いてこない理由を「焚き火のおかげだろう」と考えています。
実際、火には動物を警戒させる効果があります。
ただ、本当にそれだけなのか。
その答えについては、まだ主人公自身も知りません。
そして、夜明け前に遠くから空き地を眺めていた小さな白い影。
今はまだ、それだけです。
本編では引き続き、主人公自身の目線で、一つずつ暮らしを作っていきます。




