章末閑話 残っている匂い
第一部・第八章章末閑話です。
銀色の人が帰ったあとにも、空き地には残るものがあります。
銀色の人が歩いていく。
木々の間へ入る。
ユウマが見ている。
ハクアも顔を上げていた。
「またね」
声。
白い耳が一度動く。
銀色の人が少し笑った。
それから、また歩く。
遠ざかる。
足音。
草が擦れる音。
枝を踏む音。
少しずつ。
小さくなる。
やがて。
銀色が木々の間から消えた。
ユウマは、しばらくそちらを見ていた。
でも。
長くは立っていない。
「戻るか」
火の方へ向く。
ハクアも身体を戻した。
◇
空き地には。
ユウマ。
ハクア。
二つ。
さっきまでいた銀色の人はいない。
それでも。
匂いは消えていなかった。
風が通る。
湿った土。
木。
火。
乾いた草。
水。
ユウマ。
ハクア。
その中に。
もう一つ。
銀色の人の匂い。
鼻が動く。
一度だけ。
それで終わる。
◇
少し前なら。
森の向こうへ消えた匂いを追っていた。
風へ鼻を向ける。
どちらへ行ったのか。
どれくらい離れたのか。
まだ近くにいるのか。
確かめていた。
知らない匂いだったから。
その次は。
知っている匂いになった。
銀色の髪。
長い耳。
ユウマと話す人。
何度も来る人。
エルネア。
名前も覚えた。
それでも最初は。
来れば見る。
動けば見る。
近づけば鼻を上げる。
帰れば。
残った匂いを確かめる。
そうしていた。
今は。
しない。
◇
ユウマが火へ枝を足す。
ぱち、と音がした。
ハクアは立ち上がる。
空き地を少し歩く。
水。
飲む。
顔を上げる。
鼻へ匂いが入る。
銀色の人。
近い。
「…………」
顔を向ける。
でも。
いない。
あるのは。
低い木の腰掛け。
今日。
銀色の人が座っていたところ。
ハクアは近づく。
鼻先を少し向ける。
木。
紐。
土。
銀色の人。
匂いが残っている。
強くはない。
でも。
分かる。
ハクアは一度嗅いだ。
それだけ。
腰掛けから離れる。
◇
その横。
屋根。
前より少し広くなったところ。
雨の日。
銀色の人がいた。
夜にも。
いた。
雨が続いた日。
いつもなら帰る銀色の人が。
帰らなかった。
火の近く。
ユウマ。
ハクア。
銀色の人。
暗くなっても。
いた。
寝る時も。
いた。
朝になっても。
匂いがあった。
そして。
帰った。
◇
ハクアは屋根の下へ入る。
鼻を動かす。
乾いた葉。
木。
土。
少し前に寝床へ使った草。
そこにも。
銀色の人の匂いが薄く残っている。
でも。
もう。
あの夜とは違う。
銀色の人はいない。
寝息もない。
布の動く音もない。
それでも。
匂いだけはある。
ハクアは立ち止まらなかった。
そのまま通り抜ける。
◇
「何してる?」
ユウマの声。
ハクアは振り返る。
「また匂い?」
白い耳が一度動いた。
ユウマが少し笑う。
「エルネアの?」
ハクアは答えない。
代わりに。
棚の方へ歩く。
◇
棚。
前からある。
ユウマがいろいろなものを置く場所。
石。
紐。
草。
樹皮。
使うもの。
残しておくもの。
その端。
少し前から。
違う匂いが集まる場所ができた。
小さな容器。
布。
細いもの。
紐。
銀色の人が持ってきたもの。
帰る時。
持っていかなかったもの。
次に使うもの。
ハクアには。
何に使うのかは分からない。
でも。
誰のものかは分かる。
◇
鼻を近づける。
銀色の人。
紙。
植物。
外の土。
少しだけ金属。
いくつもの匂いが重なっている。
ユウマのものとは違う。
ハクアのものとも違う。
森のものだけでもない。
「増えたよな」
ユウマが近くへ来る。
棚を見る。
「前は一個だけだったのに」
ハクアは鼻を離す。
「今は、どれがエルネアのか分かる」
ユウマが言う。
ハクアにも分かる。
匂いがあるから。
「お前も分かるか?」
白い耳が動いた。
「まあ、そりゃ分かるか」
ユウマは棚のものへ触らない。
見るだけ。
それから。
火の方へ戻った。
◇
ハクアも棚から離れる。
追わない。
調べ続けない。
匂いは。
そこにある。
なくならない。
少なくとも。
今すぐには。
銀色の人がいなくても。
残っている。
◇
少し前。
銀色の人が帰れば。
空き地から。
銀色の人のものはなくなった。
声。
足音。
鞄。
紙。
道具。
全部。
森の向こうへ行った。
残るのは。
地面に薄くついた匂い。
座っていた場所。
歩いた跡。
風が吹けば。
消えていくもの。
だから。
ハクアは鼻で確かめた。
どこへ行ったのか。
もういないのか。
◇
今は。
違う。
銀色の人が帰っても。
腰掛けがある。
屋根がある。
棚の端に。
銀色の人のものがある。
風が吹いても。
全部は消えない。
雨が降っても。
また匂いがつく。
銀色の人が来れば。
そこへ座る。
そこへ鞄を置く。
棚から自分のものを取る。
使う。
また戻す。
帰る。
そして。
また残る。
◇
ハクアは。
もう。
それを知らないものだとは思わない。
警戒しない。
見張らない。
追わない。
ただ。
ある。
火と同じ。
水と同じ。
ユウマの道具と同じ。
ずっと同じではない。
増えることもある。
動くこともある。
なくなることもあるかもしれない。
でも。
今は。
ここにある。
◇
日が沈んでいく。
森の中が暗くなる。
ユウマが火を整える。
水を置く。
乾かしているものを見る。
棚を見る。
屋根を見る。
いつもの動き。
「…………」
ハクアは。
いつもの場所へ戻る。
伏せる。
前足の上へ顔を置く。
「今日は、もういいか」
ユウマが言った。
火へ枝を一本足す。
ぱち。
小さな音。
◇
風が通る。
木々の匂い。
夜の土。
水。
煙。
ハクア。
ユウマ。
その中へ。
棚から。
薄く。
銀色の人の匂い。
鼻が一度動く。
それだけ。
◇
「ハクア」
ユウマが呼ぶ。
耳を動かす。
「明日は何する?」
知らない。
ハクアは目を閉じる。
「まあ、明日決めればいいか」
ユウマの声。
火の音。
森の夜。
いつものもの。
その中に。
前にはなかった匂いが残っている。
◇
銀色の人は。
今はいない。
自分の場所へ帰った。
それを。
ハクアは知っている。
そして。
棚の匂いも知っている。
腰掛けの匂いも。
広がった屋根の下の匂いも。
知っている。
誰のものか。
確かめる必要はない。
◇
また来る。
声にはならない。
言葉にもならない。
けれど。
何度も来て。
何度も帰って。
そのたびに。
同じ匂いを残していく。
だから。
ハクアはもう。
森の向こうを見なかった。
耳も立てない。
鼻を上げない。
いつもの場所で。
目を閉じる。
火の向こうにはユウマ。
棚には銀色の人のもの。
今はいない。
でも。
また来る。
ハクアは。
もう。
それを知っていた。
章末閑話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
帰ったあとにも残る匂いが、いつの間にか居場所の一部になっていました。




