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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第八章「三人の居場所」

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第100話 三人の居場所

第一部最終話です。


何もなかった森の空き地で始まった暮らし。


火を守り、水を探し、雨を避けるところから始まった場所には、今ではハクアが戻り、エルネアが訪れます。


特別な一日ではありません。


いつもの三人の一日です。


 朝。


 目を覚ます。


 森は静かだった。


 昨日まで地面に残っていた雨の湿り気も、かなり薄くなっている。


 身体を起こし、最初に火を見る。


 灰の下へ細い枝を入れる。


「まだ残ってるな」


 赤い火種が見えた。


 乾いた葉を寄せて息を吹き込み、細い枝を重ねる。


 炎がゆっくり戻った。


 その横。


 ハクアはもう起きていた。


「おはよう」


 白い耳が動く。


 水の容器を見ると、残りは少ない。


「先に汲んでくるか」


 容器を持って立ち上がる。


 棚の前を通った。


 端の一角。


 小さな容器。


 畳まれた布。


 予備の筆記具。


 短い紐。


 エルネアが昨日置いていったものが、同じ場所に残っている。


「…………」


 足は止めなかった。


 もう確認するほどでもない。


 そこにある。


 それだけだった。


     ◇


 水場まで歩く。


 雨の後に柔らかくなっていた地面も、昨日より歩きやすい。


 いつもの場所へ着き、水を汲む。


 容器を満たす。


 戻る途中。


 何となく森を見る。


 最初の頃は。


 水を汲みに出るだけでも、何がいるか分からなかった。


 道も分からない。


 戻れるかも分からない。


 今は。


 足が自然に拠点へ向かう。


 木。


 根。


 少し窪んだところ。


 何度も歩いた跡。


「…………」


 道と呼ぶほど立派ではない。


 でも。


 俺には分かる。


 ここを通れば戻れる。


 それで十分だった。


     ◇


 空き地へ戻る。


 最初に見えるのは、雨避けの端。


 前に一人分だけ広げた部分も、そのままだ。


 その下には何も置かれていない。


 少し離れたところに粗い腰掛け。


 焚き火。


 作業場所。


 棚。


 乾燥中の植物。


 風を避けるために置いたもの。


 雨水を逃がす浅い溝。


 全部。


 綺麗ではない。


 大きさも揃っていない。


 作った時期も違う。


 直したところも多い。


「…………」


 でも。


 何もなかった場所ではない。


「戻ったぞ」


 ハクアへ声をかける。


 白い身体がこちらを見る。


 俺は水を置いた。


     ◇


 朝の食事を済ませる。


 食べられると分かっているもの。


 何度も口にしたもの。


 火の扱いも。


 量も。


 今さら一口食べて、時間を置いて様子を見る必要はない。


「今日はこれでいいか」


 残りを見る。


 昼の分もある。


 夜も何とかなる。


 明日以降の分も、すぐに困るほどではない。


 薪もある。


 水もある。


 雨避けも壊れていない。


 石斧も使える。


「…………」


 急いでやらなければならないこと。


 特にない。


「珍しいな」


 口に出した。


 ハクアがこちらを見る。


「何だよ」


 白い耳が動く。


「本当に今日は、急ぐものないぞ」


 返事はない。


 でも。


 それが少しおかしくて笑った。


     ◇


 午前。


 乾燥場所を見る。


 昨日から置いていた草を触る。


「こっちは、もう少しか」


 まだ少し柔らかい。


 完全に乾かすもの。


 途中で使うもの。


 分ける。


 その横には、前にエルネアと話した繊維用の草もある。


「次に来たら見るって言ってたな」


 触って確認する。


 忘れてはいない。


 エルネアも記録していると言っていた。


「これなら残しとけばいいか」


 一束だけ分けた。


 比較しやすいように、別の場所へ置く。


 作業を終え。


 次に何をしようか考える。


「…………」


 薪。


 足りている。


 棚。


 今は崩れていない。


 屋根。


 昨日確認した。


 排水。


 問題ない。


「何しようかな」


 口から出た。


 その時。


 ハクアの耳が森へ向いた。


     ◇


「来たか?」


 白い鼻先が少し上がる。


 俺も森を見る。


 足音。


 枝を踏む音。


 聞き慣れたもの。


 少しして。


 木々の間から銀色の髪が見えた。


「おはよう」


「おはよう」


 それだけ。


 驚かない。


 本当に来たとも思わない。


 来た。


 だから挨拶する。


 エルネアが空き地の前まで来る。


「入っていい?」


「もちろん」


 エルネアが中へ入る。


 ハクアを見る。


「おはよう、ハクア」


 白い耳が一度動いた。


 エルネアは少し笑う。


 それ以上、近づかない。


     ◇


 エルネアは鞄を下ろした。


 棚へ向かう。


 昨日まとめた一角から、予備の筆記具を取る。


「ちゃんとあった」


「昨日置いたばかりだろ」


「そうだけど」


「もう心配する必要ないと思うぞ」


 エルネアは棚を見たまま、小さく笑った。


「そうかもね」


 筆記具を持ち。


 そのまま腰掛けへ向かう。


 座る。


 鞄から記録帳を出す。


 俺は作業場所へ戻った。


     ◇


「今日は何するの?」


 エルネアが聞いた。


「…………」


 手元を見る。


 石刃。


 繊維。


 枝。


 乾かした草。


 どれも。


 今すぐやらなければ死ぬものではない。


 今日やってもいい。


 明日に回してもいい。


 森へ少し出てもいい。


 拠点にいてもいい。


「……何しようかな」


 答える。


 エルネアが顔を上げた。


「決めてないの?」


「うん」


「珍しいね」


 俺は少し考えた。


「前なら、決める前にやることがあったからな」


 エルネアは何も言わず、こちらを見る。


 俺も。


 自分で言ってから少しだけ気づいた。


     ◇


 最初。


 水がなかった。


 火もなかった。


 寝る場所も。


 食べられるものも。


 何も分からなかった。


 朝になれば。


 今日をどう生きるか。


 それだけだった。


 何をするか選ぶというより。


 やらないと困ることを、一つずつ片づける。


 水。


 火。


 雨。


 食べ物。


 道具。


 それだけで一日が終わった。


 今は。


「…………」


 水はある。


 火も戻せる。


 雨を避けられる。


 食べられるものも分かっている。


 壊れれば直す。


 足りなければ増やす。


 明日に回せるものもある。


「何か変?」


 エルネアが聞いた。


「いや」


 一度首を振る。


「今日は、何をしてもいいんだなと思って」


「休んでも?」


「それもありか」


 そう答えると。


 エルネアが少し笑った。


     ◇


 結局。


 細い枝を一本選んだ。


 昨日まで作っていたものとは別。


 表面を少し整える。


「何作るの?」


「まだ決めてない」


 エルネアの筆記具が止まった。


「また?」


「材料を整えてるだけ」


「前にも聞いた」


 俺は枝を見る。


「今回は、本当に何に使うか決めてない」


「前もそう言ってたよ」


 そこで。


 二人とも少し笑った。


 俺は枝を削る。


 エルネアは記録帳へ戻る。


 ハクアはいつもの場所で伏せている。


     ◇


 しばらくして。


 俺は石刃を止めた。


「エルネア」


「何?」


「これ、何て読む?」


 棚の近く。


 以前、教えてもらった文字を土へ書いてみる。


 記憶を頼りに。


 一つ。


 線。


 向き。


「…………」


 エルネアが腰掛けから立ち、近づいた。


「少し違う」


「どこ?」


「ここ」


 指先で、線の向きを直す。


「こう」


「ああ」


 俺も横へ書く。


「これなら?」


 エルネアが見比べる。


「うん。今度は読める」


「何て読む?」


「『火』」


 俺は焚き火を見る。


「火か」


 覚えやすい。


     ◇


 エルネアは腰掛けへ戻る。


「じゃあ私も聞いていい?」


「何?」


 乾燥場所を指す。


「あの草、前に言ってた二つ?」


「そう」


「少し見てもいい?」


 俺は立ち上がった。


「残してある」


「本当に?」


「覚えてたからな」


 束を二つ持ってくる。


 採った場所が少し違う。


 見た目は大きく変わらない。


     ◇


 エルネアが触る。


 一本ずつ。


 曲げる。


 裂く。


 俺も隣で見る。


「こっちの方が少し裂きやすい?」


「俺もそう思う」


「乾き方の違いかな」


「場所の違いじゃなくて?」


 エルネアはすぐに答えず、両方をもう一度見た。


「今は分からない」


「珍しいな」


「何でもすぐ分かるわけじゃないよ」


 その言葉に。


 少し笑った。


「知ってる」


     ◇


 エルネアは少量だけ確認して。


 全部は使わなかった。


 残ったものを戻す。


「次も見る?」


「うん。今度は乾き方を揃えたい」


「じゃあ、また分けとく」


「お願い」


 簡単なやり取り。


 それで決まる。


 次。


 また。


 その言葉を。


 もう誰も特別には扱わない。


     ◇


 昼。


 火の近くへ集まる。


 今日も。


 豪華ではない。


 食べ慣れたもの。


 何度も食べてきたもの。


 俺の分。


 エルネアの分。


 ハクアの分。


 三つへ分ける。


「これ、少し多くない?」


 エルネアが自分の分を見る。


「昨日より動いてるだろ」


「ユウマが?」


「エルネアが」


「私は記録してただけ」


「森からここまで来た」


 エルネアは少し考え。


「じゃあ、もらう」


 そのまま食べ始めた。


     ◇


 ハクアも食べる。


 俺も。


 火の近く。


 いつもの場所。


 食べる前に。


 これは本当に大丈夫か。


 毒じゃないか。


 腹を壊さないか。


 そんなことは考えない。


 食べられると知っている。


 だから。


 食べる。


「…………」


 何となく。


 最初の頃を思い出した。


 一口だけ。


 待つ。


 少しずつ。


 身体に異変がないか確認する。


 あの頃は。


 食べること一つにも時間がかかった。


「どうしたの?」


 エルネアが聞く。


「何でもない」


「止まってたよ」


「昔のこと思い出しただけ」


 それ以上は話さず、また食べる。


     ◇


 食事が終わる。


 ハクアは水を飲み。


 いつもの場所へ戻った。


 エルネアは自然に腰掛けへ座る。


 俺は使ったものを片づける。


 棚を開く。


 自分のものを戻す。


 その端には。


 エルネアの小物。


 今使った筆記具は。


 エルネア自身が元の場所へ戻した。


「…………」


 俺は何も言わない。


 エルネアも。


 それが普通のことみたいに戻した。


     ◇


 午後。


 少し風が出てきた。


 乾燥場所の束が揺れる。


 紐を一つ締め直す。


 風除けの端も見る。


 雨避けの屋根材。


 支柱。


 排水溝。


 どれも。


 今すぐ直すところはない。


「今日は本当に直すものないな」


 俺が言う。


「いいことじゃない?」


「手持ち無沙汰になる」


「休めばいいのに」


 エルネアは記録帳から顔を上げた。


「研究者に言われたくない」


「私は今、仕事してるよ」


「じゃあ俺も何かする」


 枝を一本手に取る。


 エルネアが笑った。


     ◇


 ハクアが寝返りを打つ。


 白い身体が少しだけ火の方を向いた。


「暑くないのかな」


 エルネアが言う。


「自分で動くから大丈夫だろ」


「もっとこっちに来てもいいのに」


「来たい時は来る」


 エルネアはハクアを見る。


 でも。


 呼ばない。


 手も出さない。


 少しして。


 記録帳へ視線を戻した。


     ◇


 俺は作業場所。


 エルネアは腰掛け。


 ハクアは休息場所。


 誰も。


 場所を決めたわけではない。


 でも。


 自然にそうなっている。


 焚き火がある。


 水がある。


 棚がある。


 乾かす場所がある。


 雨を避ける屋根がある。


 風を少し防ぐものがある。


 水を逃がす溝がある。


 作業する場所がある。


 休む場所がある。


「…………」


 全部。


 粗い。


 町の建物みたいなものではない。


 エルネアの研究拠点と比べても。


 ずっと簡単だ。


 家。


 と呼んでいいかは分からない。


 でも。


 何もなかった場所ではない。


     ◇


「ユウマ」


「何?」


「さっきから見回してるけど、何かある?」


「ない」


「ないの?」


「何もないから見てた」


 エルネアが首を傾ける。


「意味が分からない」


「俺も今、うまく説明できない」


 一度。


 拠点を見る。


「何もなかったなって思って」


 エルネアは俺の視線を追った。


     ◇


 火。


 棚。


 屋根。


 腰掛け。


 ハクア。


 エルネア。


「最初は?」


 エルネアが聞く。


「本当に何もなかった」


「火も?」


「ない」


「屋根も?」


「ない」


 二往復したところで。


 俺は足元を見る。


 ただの空き地だった。


 何を食べられるかも分からなかった。


 水場さえ知らなかった。


「今は結構あるね」


 エルネアが静かに言った。


「ああ」


「まだ足りない?」


「あると思う」


「何が?」


 俺は少し考え。


 笑った。


「それは、これから探す」


     ◇


 エルネアも少し笑った。


「じゃあ、まだ作るんだ」


「多分」


「増やす?」


「必要なら」


 そこまで話して。


 俺は棚を見る。


 エルネアも気づいたらしい。


「棚?」


「まだ作らないぞ」


「何も言ってない」


「顔が言ってる」


 エルネアが一瞬止まり。


「それ、私が言ってたやつ」


「最近は少し分かる」


 言い返す。


 エルネアが笑った。


     ◇


 日が傾く。


 今日も。


 何も起きなかった。


 知らない誰かも来ない。


 新しい魔法も。


 新しい道具も。


 大きな発見もない。


 俺は作業して。


 エルネアは書いて。


 ハクアは休んで。


 一緒に食べた。


 文字を一つ覚えた。


 植物を少し比べた。


 それだけ。


「…………」


 でも。


 今日は。


 それでいい。


     ◇


 エルネアが記録帳を閉じる。


「そろそろ帰る」


「うん」


 鞄へ戻す。


 今日持ってきたもの。


 持ち帰るもの。


 棚へ戻すもの。


 迷わない。


「忘れ物は?」


 聞く。


 エルネアが棚を見る。


「置いていくものはある」


「知ってる」


「じゃあ忘れ物なし」


「大丈夫そうだな」


 短いやり取り。


 それで十分だった。


     ◇


 空き地の端。


 エルネアがハクアを見る。


「ハクア、またね」


 耳が動く。


「今日は一回」


 エルネアが少し残念そうに言った。


「十分だろ」


「そうだね」


 追わない。


 触らない。


 そのまま森へ向く。


「ユウマも、また」


「ああ。また」


 次はいつ。


 聞かない。


 必要なら。


 来る。


 俺も。


 必要ならエルネアのところへ行く。


     ◇


 銀色の髪が森へ入る。


 少しずつ見えなくなる。


 俺は。


 今日も少しだけ見送った。


 でも。


 帰っていくことが寂しいとは思わない。


 また来る。


 それを知っているから。


     ◇


 火のところへ戻る。


 ハクアはすでに伏せている。


 俺も座る。


 棚には。


 エルネアのものが残っている。


 腰掛けは空いた。


 屋根の下も。


 今は俺とハクアだけ。


「…………」


 それでも。


 前の二人だけの場所へ戻った感じはしなかった。


 エルネアがいた痕跡。


 次に使うもの。


 また来るために残したもの。


 それが。


 普通にそこにある。


     ◇


 火へ枝を一本足す。


 ぱち、と音がした。


 最初にここへ来た日。


 何もなかった。


 何をすればいいか。


 考える余裕すらなかった。


 まず。


 今日を生きる。


 それだけだった。


 今は。


 明日の水がある。


 火を戻せる。


 食べるものが分かる。


 雨を避けられる。


 直す道具がある。


 ハクアがいる。


 エルネアが来る。


「…………」


 今日。


 何をしよう。


 そう考えられる。


 それが。


 今の俺の暮らしだった。


     ◇


 ハクアの白い尾が一度動く。


「明日は何する?」


 返事はない。


 俺は少し笑う。


「まあ、明日決めればいいか」


 火が揺れる。


 棚。


 屋根。


 腰掛け。


 いつもの場所。


 粗末で。


 小さくて。


 まだ足りないものばかり。


 それでも。


 俺と。


 ハクアと。


 時々ここへ来るエルネアが。


 無理なく同じ時間を過ごせる場所になった。


 俺は火へ手をかざす。


「…………」


 ここから。


 また。


 やれることを増やしていけばいい。


 今夜は。


 もう。


 今日を生き延びる方法を考えなくていい。


 ただ。


 火のそばで。


 明日を迎えればよかった。

第100話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


第一部「森に居場所をつくる」は、ここで一区切りとなります。


何もなかった森で、水と火を確保するところから始まったユウマの暮らし。


今ではハクアが戻り、エルネアが訪れ、二人と一匹が食事をし、作業をし、休み、必要なら同じ屋根の下で一晩過ごせる場所になりました。


まだ立派な家も、村も、領地もありません。


それでもユウマは、「今日をどう生き延びるか」ではなく、「今日は何をしようか」と考えられるところまで辿り着きました。


第一部最終話までお読みいただき、ありがとうございます。

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