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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第八章「三人の居場所」

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第98話 雨の夜

エルネアが自分の研究拠点へ戻ってから、二日。


ユウマはいつもの暮らしを続け、エルネアも自分の場所で研究を続けています。


そして三日目。


朝から崩れかけていた空は、午後になると本格的な雨へ変わります。

 翌朝。


 エルネアは来なかった。


 棚の端には、小さな容器が残っている。


 腰掛けも空いたままだ。


 広げた屋根の下にも、今日は荷物がない。


「静かだな」


 そう呟いてから、周囲を見回す。


 ハクアは火の近くで寝ている。


 鳥の声もする。


 森から風も抜けてくる。


「……いつも通りか」


 誰かがいないだけで、静かになったように感じたらしい。


 俺は水を汲みに向かった。


     ◇


 その日も、次の日も。


 特別なことはなかった。


 薪を集める。


 水を運ぶ。


 乾かした植物をまとめる。


 使った道具を直す。


 ハクアは森へ出て、戻ってくる。


 エルネアの容器も、腰掛けも、屋根も残っている。


 本人が来ないからといって、消えるわけではない。


 二日目の夕方。


 風が少し変わった。


「雨かな」


 空を見上げる。


 木々の上に、厚い雲が広がっていた。


 まだ降ってはいない。


 けれど、湿った匂いがする。


 ハクアも鼻を上げていた。


「明日は降りそうだな」


 白い耳が動く。


 俺は外へ出していたものを、いくつか屋根の下へ寄せた。


     ◇


 三日目の朝。


 目を覚ました時から、空は暗かった。


「今日は遠くへ行かない方がよさそうだな」


 灰の下に残っていた火種を起こし、水を使って朝の食事を取る。


 まだ雨は降っていない。


 それでも、風は昨日より湿っていた。


 葉もあまり揺れていない。


 空気が重い。


 ハクアを見る。


 白い身体も、森へ向かう様子はなかった。


「お前もそう思うか?」


 耳が一度動く。


「じゃあ、今日は近くだな」


 午前中は、拠点の周囲でできる作業をすることにした。


     ◇


 細い枝を揃える。


 古くなった紐を確認する。


 雨避けの端も見る。


 前に広げた、一人分の屋根。


 支柱。


 葉。


 固定した繊維。


「今度こそ、確かめられそうだな」


 前回は、作った直後に雨が止んだ。


 次の雨で確かめると言った。


 今日が、その日になりそうだった。


 排水溝へ目を向ける。


「こっちも見ておくか」


 前に延ばしたところへ行き、詰まっている葉を取り除く。


 水の流れる場所を空ける。


「これなら大丈夫そうだ」


 立ち上がったところで、ハクアの耳が動いた。


「ん?」


 森の方から、足音が聞こえる。


「誰かいるのか?」


 数秒待つ。


「エルネア?」


 やがて、木々の向こうに銀色の髪が見えた。


「おはよう」


「おはよう。今日は来たんだな」


「来たら駄目だった?」


「そういう意味じゃない。雨が降りそうだから」


「だから、近いところだけ見ようと思って」


「帰る頃には降ってるかもしれないぞ」


「その時は、その時に考えるよ」


 エルネアが空き地の前で足を止める。


「入っていい?」


「もちろん」


 エルネアが屋根の下へ入った。


     ◇


 いつものように鞄を置き、腰掛けへ座る。


 棚へ目を向けた。


「まだある」


「置いていったからな」


「分かってる。でも、見ると安心する」


「なくなると思ってたのか?」


「思ってないよ」


 エルネアは小さく笑い、記録帳を取り出した。


「今日は何する?」


「雨が降る前に、近くを少し確認する。その後はここで整理するつもり」


「遠くへは行かないんだな」


「うん。本当に近くだけ」


 エルネアが鞄から採取用の布を取り出す。


 俺は空を見上げた。


「早めに戻ってこいよ」


「ユウマも来る?」


「今日は拠点を見てる」


「分かった。すぐ戻るね」


 エルネアが立ち上がる。


 ハクアが一度だけ顔を上げた。


「ハクアは?」


「ここにいるみたいだ」


「じゃあ、二人で留守番ね」


「俺まで数に入れるなよ」


 エルネアは笑いながら、森へ入っていった。


     ◇


 エルネアが戻ったのは、昼前だった。


 その頃には、最初の雨が落ち始めていた。


「降ってきたね」


「思ったより早かったな」


 銀色の髪に、小さな水滴がついている。


 まだ濡れたというほどではない。


「何か採れたか?」


「少しだけ」


 布の中には、葉と細い根。


 それから、土も少し。


「また土があるな」


「今日は何も言わないで」


「まだ何も言ってないだろ」


「顔が言ってる」


「顔で分かるのか?」


「最近は少し」


 エルネアは笑い、屋根の下へ入った。


     ◇


 昼になると、雨は少しずつ強くなった。


 屋根を叩く音が、ぱたぱたと重なる。


 葉を伝った水は、外側へ流れていく。


「どう?」


 エルネアが端を見ながら尋ねた。


「今のところは問題ない」


「前よりいい?」


「ああ。水が内側へ入りにくい」


 排水溝にも、きちんと水が流れている。


「成功かな」


「まだ分からない。もっと強くなったらどうなるか見ないと」


「慎重だね」


「壊れてからじゃ遅いからな」


 そう答えながら、俺は少し嬉しかった。


 今のところ、ちゃんと使えている。


     ◇


 食事を取る。


 俺が用意していたものと、エルネアの携帯食を少しずつ出した。


「今日は、こっちも食べるか?」


「いいの?」


「雨が長くなりそうだからな。少し余裕がある方がいいだろ」


「じゃあ、もらう」


 固い保存食を一つ受け取る。


 代わりに、俺の方からも食べられるものを分けた。


 ハクアにも、いつもの分を渡す。


「こうしてると」


 エルネアが食事を見ながら言った。


「何だ?」


「雨じゃない日と、あまり変わらないね」


「屋根があるからな」


「前より広いし」


「一人分だけどな」


「そこは変わらないんだ」


 エルネアが笑う。


 俺もつられて笑った。


     ◇


 午後になっても、雨は止まなかった。


 むしろ、さらに強くなる。


 屋根や木々を打つ音が重なり、森の遠くの気配が聞こえにくくなっていく。


 エルネアが外を見た。


「強くなったね」


「ああ」


 昼を過ぎたばかりなのに、空は薄暗い。


「まだ戻るには早い?」


「時間だけなら、まだな」


 エルネアはそう答えながら、森の方へ目を向けた。


 俺も同じ方を見る。


 雨で木々の向こうが白く霞んでいる。


「道は大丈夫か?」


「今すぐなら……」


 エルネアが言葉を止めた。


「何かあるのか?」


「少し迷ってる」


「珍しいな」


「雨だけなら、まだいいんだけど」


 エルネアが腰掛けから立ち、端へ近づく。


 足元では、水が流れていた。


「この雨が続くと、割れ岩の手前が滑りやすくなる」


「細沢も?」


「水が増えると思う」


「風魔法を使っても?」


 エルネアは少し首を傾けた。


「足運びを助けることはできるよ。でも、濡れた根や泥がなくなるわけじゃない」


「視界も変わらないか」


「うん」


 雨越しの森を見る。


 風が使えても、地面まで乾くわけではないらしい。


     ◇


 時間が経つ。


 エルネアは記録帳を開いたが、何度も外へ目を向けていた。


「帰る時間が気になるのか?」


「うん」


「今からなら、まだ行ける?」


「行けるとは思う。でも、途中で暗くなるかもしれない」


「雨の日は、日が落ちるのも早く感じるな」


「見える範囲が狭いからね」


 俺も外を見る。


 知っている道でも、雨の日は違う。


 地面が滑る。


 水が増える。


 足元も、先の道も見えにくい。


 エルネアは森に慣れている。


 俺より森を知っているし、魔法も使える。


 それでも、安全になるわけではない。


 少し考えてから、口を開いた。


「今日は、ここにいたらどうだ?」


 エルネアがこちらを向く。


「ここに?」


「ああ。無理して戻らなくてもいいだろ」


 エルネアはすぐには答えず、外を見た。


 それから、屋根と腰掛け、ハクアへ順に目を向ける。


「……そうしようかな」


「うん」


 それだけで決まった。


     ◇


「じゃあ、寝る場所を考えないとな」


「そこから?」


「夜までいるなら必要だろ」


「私は調査用の敷物を持ってるよ」


「そんなものまであるのか」


「森で長時間調査することもあるから」


 エルネアが鞄を開く。


 薄く畳まれた布のようなものが出てきた。


「便利だな」


「ユウマよりは準備してるでしょう?」


「俺だって準備はしてる」


「寝る場所を今から考えてるのに?」


「一人増えるのは初めてだからな」


「それはそうか」


 二人で屋根の下を見回した。


     ◇


 火から近すぎず、雨も入りにくい場所。


 ハクアが普段休む場所を塞がず、荷物も置けるところ。


「ここは?」


 エルネアが、広げた屋根の側を指した。


「そこがいいと思う」


「昨日まで鞄を置いていた場所だね」


「今日は人が置かれる」


「言い方」


「寝るってことだ」


 エルネアが小さく笑い、敷物を広げる。


 けれど、地面は少し硬かった。


「下に何か敷くか?」


「乾いたものなら」


「葉がある」


「使っていい?」


「もちろん」


 乾かしていた葉と、柔らかめの草を少し集める。


 エルネアも手伝った。


「こんなに必要?」


「少ないと、地面の硬さがそのままだからな」


「ユウマは?」


「俺はいつもの場所でいい」


「それだと、私だけ良くないみたい」


「俺は慣れてる」


「じゃあ、私も少なくていいよ」


「初めてなんだから、使っておけ」


 エルネアは少し考えた。


「じゃあ、半分だけ」


「何で半分?」


「残りはユウマの方に敷く」


「俺はいらないって」


「私だけ多いと落ち着かないから」


 結局、集めたものを少し分けることになった。


     ◇


 荷物も動かす。


 エルネアの鞄は寝る場所の横へ。


 記録帳は濡れない場所へ置く。


 採取物を手に取った。


「これは棚に置くか?」


「いいの?」


「もう一つ置いてあるしな」


「じゃあ、今日だけ」


「明日までだろ」


「そうだった」


 エルネアが笑う。


 棚の空いた場所へ、今日の採取物をまとめて置く。


「狭くなったな」


「邪魔?」


「違う。棚が狭くなっただけだ」


「私のせい?」


「少しはな」


「じゃあ、持って寝る?」


「それはもっと邪魔だろ」


 二人でまた笑った。


     ◇


 夕方。


 外はいつもより早く暗くなった。


 雨はまだ続いている。


 火を少し強くする。


 湿った空気と雨音の中で、屋根の下だけにいつもの明るさが残っていた。


「本当に、帰らなくてよかったな」


 俺が言う。


「うん。今からなら、さすがに行かない」


「最初からそうすればよかったのに」


「午後の早い時間なら、まだ帰れたから」


「じゃあ、迷って正解だったのか?」


「結果的にはね」


 エルネアが火へ手を向ける。


「風魔法も万能じゃないんだな」


「魔法なら何でもできると思ってた?」


「最初は少し」


「できないよ」


「使えない俺には、何でもできるように見える」


 エルネアは少し笑った。


「使えても、森は森だから」


「ああ」


 雨の森を見れば、それはよく分かった。


     ◇


 夜の食事も、昼と大きくは変わらない。


 いつもの食べ物と、エルネアの携帯食。


 火で温められるものは温める。


 それだけだ。


「泊まるから、もっと何か出ると思ったか?」


 俺が聞く。


「急に豪華な食事が出るとは思ってないよ」


「出せないからな」


「なら、聞かなくていいでしょう」


 エルネアが笑う。


 ハクアは自分の分を食べ終え、水を飲む。


 それから、いつもの場所へ伏せた。


「普通だな」


「何が?」


「エルネアが夜までいるのに、いつもと変わらない」


 エルネアが白い身体を見る。


「気にしてないみたい」


「少なくとも、追い出そうとはしてないな」


「それなら十分」


 エルネアは、少し嬉しそうに言った。


     ◇


 食事を終え、片づける。


 外はもう暗く、森の奥は何も見えない。


 いつもなら、この時間に人はいない。


 俺とハクアだけだ。


 今日は、エルネアがいる。


 それでも、不思議なほど気まずくはなかった。


 何か話し続ける必要もない。


 エルネアは火を見ている。


 俺も火を見る。


 ハクアは寝ている。


 雨音に、ときどき枝の爆ぜる音が混じった。


     ◇


「ユウマ」


「何だ?」


「夜も、いつもこんな感じ?」


「大体はな」


「何かすることは?」


「暗いから、あまりない」


 エルネアが火を見たまま頷く。


「私も拠点では、記録を整理するくらい」


「今日はやらないのか?」


「雨音を聞いてたら、もういいかなって」


「研究者なのに?」


「研究者だって休むよ」


「ああ。前にも言ってたな」


「覚えてたんだ」


「少しはな」


「ユウマも忘れるんだね」


「エルネアも忘れるだろ」


「それは……否定できない」


 そこで会話が途切れる。


 けれど、沈黙は気にならなかった。


     ◇


 少し経った。


「研究拠点とは違うか?」


 俺が聞く。


「違うよ」


「寝にくそうか?」


「まだ寝てないから分からない」


「それもそうか」


 エルネアが笑う。


「でも、音が違う」


「雨の音か?」


「それもあるけど」


 少し考えてから、エルネアは続けた。


「火の音とか、ハクアが動く音とか」


「俺の音は?」


「するよ」


「どんな音だ?」


「さっきから枝を触ってる」


 手元を見る。


 無意識に、火の横の細枝を並べ直していた。


「ああ……これか」


「そういう音」


「落ち着かないか?」


「逆だよ」


 エルネアは少し間を置いた。


「誰かいるって分かるから」


 俺は、前にエルネアの拠点で聞いた言葉を思い出した。


「前にも言ってたな」


「覚えてた?」


「大事なことは覚えてる」


「自分で言うんだ」


「文字は忘れるけどな」


「それは、また今度教える」


「ああ」


 次の話題も、もう無理なく出てきた。


     ◇


 夜が深くなる。


 火を少し小さくする。


「そろそろ寝る?」


 エルネアが聞いた。


「ああ」


「火は?」


「完全には消さない。弱くして残す」


「分かった」


 エルネアが敷物の方へ移る。


 靴や荷物の位置を確認し、すぐ動けるように整えていく。


 調査で慣れているのか、俺が何か言う前に自分で済ませていた。


「本当に慣れてるな」


「何に?」


「外で寝ることに」


「研究で必要になるから」


「俺が手伝うことはないか?」


「寝床の下は手伝ってもらったよ」


「それだけでいいのか?」


「十分」


 そう言われると、確かにそうだった。


 全部を世話する必要はない。


 エルネアは、森で一人で調査できる人だ。


     ◇


 俺もいつもの場所へ移る。


 ハクアはすでに伏せていた。


「おやすみ」


 エルネアが言う。


「おやすみ」


 俺も返す。


 ハクアの耳が動いた。


「ハクアも、おやすみ」


 エルネアが付け足す。


 白い耳が、もう一度動く。


「返事したな」


「したよね?」


「多分な」


「今日は信じる」


 小さく笑って、それぞれの場所へ横になる。


     ◇


 目を閉じる。


 雨音が、一定の調子で続いている。


 葉から落ちた水が地面を流れ、遠くで枝が小さく鳴った。


 ハクアの気配。


 そして、少し離れたところから布の動く音がした。


 エルネアが寝返りを打ったらしい。


 目を開ける。


「起きてる?」


 小さく聞く。


「まだ」


 返事があった。


「寝にくい?」


「少し硬い」


「やっぱりか。明日、葉を――」


「増やさなくていい」


 すぐに返ってくる。


「まだ何も言ってないだろ」


「増やそうとしたでしょう?」


「……少し」


 暗がりの中で、エルネアが笑った気配がした。


「今日はこれで十分」


「分かった」


 俺はまた目を閉じた。


     ◇


 しばらくすると、エルネアの声は聞こえなくなった。


 雨音だけが残る。


 同じ場所に、三つの気配がある。


 変な感じはする。


 でも、嫌ではない。


 むしろ、思っていたより普通だった。


     ◇


 夜中。


 ふと目が覚めた。


 暗い。


 雨はまだ降っているが、昼ほど強くはない。


 ハクアはいつもの場所で眠っていた。


 白い身体は、暗がりの中でも分かる。


 少し離れたところから、静かな寝息が聞こえた。


 エルネアがいる。


 夜の俺の拠点に、人が一人、眠っている。


 前なら、もっと気になっていたかもしれない。


 眠っていても、何度か確かめただろう。


 今は、寝息が聞こえる。


 それで、いると分かる。


「……寝るか」


 目を閉じる。


 それぞれの気配に包まれながら、俺はもう一度眠りへ戻った。

第98話を読んでいただき、ありがとうございます。


本格的な雨で森の足場と視界が悪くなり、日没も近づいたため、エルネアは初めてユウマの拠点で一晩過ごすことになりました。


特別な寝床や食事はありません。


第96話で一人分だけ広げた屋根の下を整え、普段の食事を取り、雨音を聞きながら眠るだけです。


昼だけでなく、何もすることのない夜まで三人で共有できる場所になり始めています。

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