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『魔法の使えない転生者、忌地の森をひらく』  作者: 森野余白
第八章「三人の居場所」

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閑話 一人分

第八章の章間閑話です。


ユウマの拠点で一日を過ごしたあと、エルネアは自分の研究拠点へ戻ります。


いつもの場所へ帰ってから、今日までに増えてきたものを少しだけ思い返します。

 扉を開ける。


 中は、出た時とほとんど変わっていなかった。


 机。


 椅子。


 積んだ記録。


 採取物を置く棚。


 壁際の道具。


 奥には寝床。


「ただいま」


 誰に言うでもなく口にして、扉を閉める。


 返事はない。


 いつものことだ。


 鞄を机の横へ置き、今日持ち帰ったものを取り出していく。


 記録帳。


 筆記具。


 採取した土。


 布。


 小さな容器。


 一つずつ。


 使う場所へ戻す。


「これは、あとで確認」


 土の入った容器だけは机の端へ置いた。


 今日はユウマの拠点近くで採ったものだ。


 根の周囲。


 表面ではなく、少しだけ下。


 色。


 湿り気。


 混ざっていた細かなもの。


 あとで見比べる。


 そう考えながら記録帳を開いた。


     ◇


 今日の最後の記録を確認する。


 途中まで書いた内容。


 植物。


 土。


 ユウマが乾かしていた草。


 採取場所の違い。


 そして。


 拠点そのもの。


「…………」


 筆記具が止まった。


 今日も。


 ほとんど何も起きなかった。


 ユウマは枝を削っていた。


 途中で棚の紐を替えた。


 ハクアは寝ていた。


 私は記録を書いた。


 少し森へ出て。


 戻って。


 一緒に食べた。


 また書いた。


 それだけ。


 調査として考えれば、特別な日ではない。


 新しい現象を見つけたわけでも。


 珍しい植物を採取したわけでもない。


「でも」


 記録帳へ視線を戻す。


 今日。


 座る場所を探さなかった。


 空き地へ入って。


 鞄を下ろして。


 そのまま腰掛けへ向かった。


 何も考えずに座った。


「…………」


 少し前まで。


 そんなものはなかった。


     ◇


 最初にユウマの拠点へ入った時。


 物は少なかった。


 今よりも。


 ずっと。


 火。


 雨を避ける場所。


 最低限の道具。


 棚。


 乾かしているもの。


 ユウマが一人で暮らすために作った場所。


 そこにハクアがいた。


 白い身体は。


 最初から自分の場所を知っていたように見えた。


 火から少し離れたところ。


 水の近く。


 日によって違うこともあるけれど。


 休む場所は大体決まっている。


 私は違った。


 空いている石。


 倒木。


 地面。


 座れそうなところを、そのたびに選んでいた。


 困るほどではなかった。


 森での調査なら、地面に座ることも珍しくない。


 だから。


 わざわざ言うほどのことでもないと思っていた。


 それを。


 ユウマが突然気づいた。


「座るところ、ないな」


 思い出して、少し笑う。


「本当に今さらだったな」


 あの日。


 丸太を出して。


 石を置いて。


 揺れて。


 外して。


 また別の木を持ってきた。


 一度作って。


 座らせて。


 また直す。


 最後まで綺麗なものにはならなかった。


 今日も少し低い。


 座面も完全に平らではない。


 でも。


 もう揺れない。


 記録を書くには十分だった。


     ◇


 記録帳の端へ。


 小さく書き足す。


 《簡易腰掛け》


 その下へ。


 少し考えてから続ける。


 《使用に問題なし》


「…………」


 書いた文字を見る。


 何かがおかしい。


 間違ってはいない。


 実際。


 使える。


 でも。


 研究記録として残す必要があるかと言われれば。


「ないよね」


 思わず声が出た。


 誰も答えない。


 筆記具の先で、その文字を軽く叩く。


 消すほどでもない。


 そのまま残した。


     ◇


 次に思い出したのは雨だった。


 三人で雨避けへ入った日。


 狭かった。


 ユウマとハクアだけなら足りていた場所。


 そこへ自分が入る。


 鞄。


 記録帳。


 採取物。


 濡らしたくないもの。


 それだけで。


 急に足りなくなった。


 一人増えた。


 ただ、それだけ。


 雨が止んだあと。


 ユウマはすぐに屋根を見た。


 排水を少し延ばして。


 支柱を一本増やした。


 屋根材を継いだ。


 本当に。


 一人分だけ。


「…………」


 自分が地面に立って幅を測ったことを思い出す。


「何で本人が測ってるんだ」


 あの時の声まで浮かんだ。


 思わず口元が緩む。


 大きな屋根ではない。


 立派でもない。


 風が強ければ。


 また直す必要が出るかもしれない。


 雨も。


 次に降ってみなければ。


 本当にうまく流れるかは分からない。


 でも。


 今日。


 晴れていたのに。


 私の鞄は、その広げた屋根の下に置いてあった。


 森へ少し出る時も。


 記録帳ごと。


 そのまま置いていった。


 戻ってくるから。


 それだけの理由で。


     ◇


 机から顔を上げる。


 自分の研究拠点を見る。


 ここには。


 置く場所がある。


 採取物。


 記録。


 道具。


 衣服。


 食べるもの。


 寝る場所。


 全部。


 自分が使う場所を知っている。


 目を閉じても。


 どこに何があるか、大体分かる。


 長く使ってきた。


 直したところもある。


 動かしたものもある。


 新しく置いたものもある。


「ここは、私の場所」


 小さく呟く。


 それは変わらない。


 ユウマの拠点へ移りたいわけではない。


 研究道具のほとんどはこちらにある。


 調査したものを整理するにも。


 長く保存するにも。


 ここがいい。


 寝るなら。


 自分の寝床が一番慣れている。


 今日も。


 ユウマのところから帰ることに迷いはなかった。


「…………」


 だから。


 別の話だ。


 そう思う。


     ◇


 机に肘をつく。


 記録帳を少し遠ざける。


 ユウマの拠点にあるものを思い出した。


 粗い腰掛け。


 一人分広げられた屋根。


 棚の端。


 そこに置いた、小さな容器。


 雨の日。


 記録帳を置いても濡れにくくなった場所。


「私が来てから増えた」


 声にしてみる。


 事実だ。


 でも。


 ユウマは一度も。


 私のためだとは言わなかった。


 座る場所がない。


 だから作った。


 狭い。


 だから広げた。


 物を置く場所が必要。


 だから棚の端を空けた。


 それだけ。


 全部。


 必要になったから。


 少し足した。


 ユウマらしい。


「使う分だけ」


 前にも聞いた。


 必要以上には作らない。


 足りなければ増やす。


 壊れれば直す。


 失敗すれば、また考える。


 だから。


 あの場所に。


 自分一人分が増えた。


「…………」


 その言葉で。


 思考が止まった。


 一人分。


 屋根を広げた時。


 確かにそう言っていた。


 ユウマ。


 ハクア。


 そこへ。


 自分。


 一人分。


     ◇


 記録帳を引き寄せる。


 書こうとする。


 何を書く?


 《利用人数増加による拠点設備の拡張》


「…………」


 書きかけて止まる。


「固いな」


 文字を見つめる。


 間違ってはいない。


 研究記録なら。


 こういう書き方でもいい。


 利用する者が増えた。


 その結果。


 設備が変化した。


 腰掛け。


 屋根。


 収納。


 動線。


 記録帳を置く場所。


 観察対象としてなら。


 そう整理できる。


 でも。


 その《利用する者》の一人は。


 自分だ。


「…………」


 筆記具が動かない。


 今まで。


 ユウマの暮らしを見てきた。


 火。


 道具。


 植物。


 水。


 歩く場所。


 何を使い。


 どう変えるか。


 見る側だった。


 記録する側。


 少なくとも。


 そう思っていた。


 でも。


 今は。


 自分が来ることで、場所が変わっている。


 自分が座る。


 自分が荷物を置く。


 自分が雨を避ける。


 自分が道具を残す。


 そのたび。


 ユウマの暮らしの中に。


 ほんの少し。


 変化が増える。


「これ」


 記録帳を見る。


「私も入ってるんだ」


 研究対象。


 という言葉は少し違う。


 ユウマが自分を研究しているわけではない。


 でも。


 観察している変化の外には、もういない。


 自分も。


 その変化を作っている一つになっている。


     ◇


 しばらく。


 何も書かなかった。


 机の上。


 採取した土。


 記録帳。


 筆記具。


 全部。


 いつものもの。


 外では風が木々を揺らしている。


 研究拠点の夜。


 聞き慣れた音。


 一人。


 それもいつも通り。


「…………」


 ユウマのところでは。


 静かでも。


 完全には一人にならない。


 木を削る音。


 火。


 ハクアの寝息。


 時々。


 ユウマの独り言。


「独り言、多いよね」


 少し笑う。


 本人は多分。


 そんなに言っているつもりはない。


 石を見て。


 木を見て。


 火を見て。


 何か言う。


 ハクアにも話しかける。


 返事がなくても。


 普通に。


 最近は。


 自分にも同じくらい自然に話しかける。


 それも。


 最初とは少し違う。


     ◇


 やがて。


 記録帳を閉じた。


「今日はもういいかな」


 これ以上書くと。


 必要以上に考えそうだった。


 採取した土だけ。


 簡単に確認する。


 蓋を開け。


 色を見る。


 乾き方を見る。


 別の試料と比べる。


 今夜すべて終わらせる必要はない。


「明日」


 蓋を閉める。


 棚へ置く。


 次に。


 明日の準備。


 採取袋。


 布。


 容器。


 筆記具。


 一つずつ確認していく。


「これと……」


 手を伸ばす。


「…………」


 ない。


 もう一度見る。


 棚。


 机。


 鞄。


「容器」


 小さいもの。


 いつも使う種類。


 数を確認する。


 一つ足りない。


「どこに――」


 そこまで考えて。


 思い出した。


「あ」


 ユウマのところ。


 棚の端。


 置いてきた。


 次に使うから。


 自分で。


「…………」


 一瞬。


 取りに戻る必要があるか考える。


 夜。


 今から森を歩く理由はない。


 明日すぐ必要なものでもない。


 予備もある。


「別にいいか」


 残っている。


 ユウマも場所を知っている。


 勝手に捨てたりしない。


 今日も。


 棚の紐を直したあと。


 少し動かして。


 終われば元の場所へ戻していた。


「…………」


 元の場所。


 そう考えたことに。


 少しだけ気づく。


 棚の端。


 あそこが。


 もう。


 その容器を置く場所として頭に残っている。


「どうせまた行くし」


 自然に言葉が出た。


 いつ行くか。


 まだ決めていない。


 明日ではないかもしれない。


 数日後かもしれない。


 でも。


 また行く。


 草も見たい。


 文字も少し教えると言った。


 土の確認も。


 続きを聞きたいこともある。


「だから」


 取りに戻る必要はない。


 置いてあるだけ。


 次まで。


 そこに。


「置き忘れたわけじゃないし」


 明日の準備を続ける。


 一つ足りない道具は。


 もう探さなかった。

エルネアにとって、研究拠点は今も変わらず自分の本拠地です。


それでもユウマの拠点には、腰掛け、広げられた屋根、棚の小物と、彼女一人分の変化が少しずつ増えています。


観察する側だったエルネア自身も、いつの間にかその変化の中へ入っていました。


そして置いてきた道具は、もう「忘れ物」ではありません。

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