第97話 書く人、作る人
一人分だけ広がった雨避け。
粗い腰掛けと、棚の端に残る小さな容器。
翌日はエルネアが来なくても、それらはユウマの拠点に残ったままです。
そしてさらに翌日。
三人は、それぞれいつものことをして過ごします。
翌朝。
目を覚ますと、まず空を見た。
昨日の雨雲はもうない。
木々の隙間から、朝の光が落ちている。
「晴れたな」
火を確認し、水を汲む。
戻ってから雨避けの端を見ると、昨日広げた部分もそのまま残っていた。
支柱を軽く押す。
「大丈夫そうだ」
雨が降っていない以上、水の流れまでは確認できない。
それでも、風で倒れたり紐が緩んだりはしていなかった。
足元の排水溝も見る。
昨日の水が少し残っているだけで、溢れた様子はない。
「次の雨まで、これでいいか」
ハクアが屋根の下から出てくる。
「おはよう」
白い身体が伸びる。
そのまま水へ向かった。
俺は棚から紐を取る。
端には、エルネアの小さな容器。
少し離れたところには、腰掛け。
本人はいない。
それでも。
昨日増えたものは、今日も同じ場所にあった。
◇
その日はエルネアとは会わなかった。
午前は薪を集めた。
昼からは細沢の方まで歩き、使えそうな石をいくつか拾う。
雨の翌日だから、足元には少し気をつけた。
ハクアは先を歩き、時々立ち止まる。
「そこ滑る?」
白い耳が動く。
俺も地面を見る。
濡れた土。
傾いた根。
「確かに滑りそうだな」
少し横へ回る。
昨日、エルネアに転ぶなと言った。
自分が転んだら笑われそうだ。
「気をつけるか」
ハクアはもう先へ進んでいた。
◇
夕方。
拠点へ戻る。
拾った石を置き、火を整える。
腰掛けの横を通った。
「…………」
誰も座っていない。
当たり前だ。
少しだけ手で押す。
揺れない。
「直したからな」
自分で言ってから。
何となくおかしくなる。
使う人がいない日に、わざわざ確かめる必要もない。
「まあ、いいか」
棚の容器も、そのまま。
広げた屋根も、そのまま。
エルネアがいなくても。
増えたものだけは消えない。
俺は火へ枝を足した。
◇
さらに翌朝。
風は弱かった。
火を起こし、水を置く。
今日は少し太めの枝を削るつもりだった。
前に集めたものの中から、比較的まっすぐな一本を選ぶ。
「これなら使えるかな」
長さを見る。
太すぎるところを削れば、何かの支えには使えそうだ。
何に使うかはまだ決めていない。
とりあえず。
使いやすい形にしておけば、そのうち出番がある。
「先に作るなって言われそうだな」
この前。
必要になってから作ると言ったばかりだ。
でも、材料を整えるのは別だ。
「別だよな」
誰に言うでもなく呟く。
ハクアがこちらを見る。
「違う?」
白い耳が一度動いた。
「お前に聞いても分からないか」
石刃を手に取る。
枝の表面を削り始めた。
◇
しばらくして。
ハクアの耳が森へ向いた。
俺も手を止める。
「来た?」
ハクアは立ち上がらない。
鼻先だけが少し上がる。
少し待つと。
聞き慣れた足音。
「やっぱり」
木々の間から銀色の髪が見えた。
「おはよう」
今日は、エルネアの方から先に声をかけた。
「おはよう。早いな」
「近くから回ってきたから」
「もう調査した後?」
「少しだけね」
エルネアは空き地の前まで来た。
「入っていい?」
「どうぞ」
もう。
聞かれても特に考えない。
答える。
それだけだ。
エルネアが中へ入る。
まずハクアを見る。
「おはよう、ハクア」
白い耳が動いた。
「今日もそれだけ?」
「十分じゃないか?」
「うん。今はね」
エルネアは少し笑った。
◇
鞄を下ろす。
そのまま。
迷わず腰掛けへ向かった。
「…………」
座る。
記録帳を出す。
筆記具も。
何も聞かない。
俺も何も言わなかった。
「何?」
エルネアがこちらを見る。
「いや」
「また見てたでしょう?」
「自然に座るようになったなって」
エルネアは一度、腰掛けを見た。
「ここが一番座りやすいから」
「少し低いけどな」
「慣れたよ」
「慣れるほど使ってる?」
「ユウマが思ってるよりはね」
そう言って記録帳を開いた。
俺も枝へ視線を戻す。
それで会話は終わった。
◇
削る。
表面をならす。
少し回して、また削る。
エルネアは書く。
時々、紙をめくる。
ハクアはいつもの場所で伏せている。
風が吹くと。
広げた屋根の端が少し揺れる。
でも紐は外れない。
「…………」
しばらく。
誰も話さなかった。
その静けさにも。
もう特別な感じはない。
俺が作業している。
エルネアが書いている。
ハクアが休んでいる。
それだけだ。
◇
「それ、何に使うの?」
エルネアが顔を上げた。
俺は削っていた枝を見る。
「まだ決めてない」
「決めてないのに作ってるの?」
「形を整えてるだけ」
「この前、必要になってから作るって言ってなかった?」
「作ってない。材料を使いやすくしてる」
エルネアが少し考える。
「……違う?」
「違う」
「本当に?」
「多分」
エルネアが笑う。
「急に自信なくなったね」
「考えたら微妙だった」
俺も笑った。
それから、また枝を削る。
◇
少し経つ。
エルネアが棚の方へ向かった。
「取るの?」
「うん」
端に置いた小さな容器。
自分で手に取る。
俺は見ているだけだ。
「そこにあった?」
「ちゃんとあったよ」
「動かしてないからな」
「分かってる」
エルネアが蓋を開ける。
中を確認してから、鞄から小さな布を出した。
「今日は使うんだ」
「そのために置いていったから」
「何入れる?」
「まだ決めてない」
「俺と同じじゃん」
エルネアの手が止まった。
「…………」
「決めてないのに持ってる」
「容器は使うものが見つかった時のため」
「俺も枝は使う時のため」
「それは違うと思う」
「どこが?」
「……少し考える」
エルネアが容器を持ったまま黙った。
俺は笑う。
「同じだろ」
「まだ認めてない」
エルネアはそう言って、再び腰掛けへ戻った。
◇
少しして。
エルネアは容器を横へ置き、記録帳を開く。
俺は枝の削りすぎた部分を見つけた。
「あ」
「どうしたの?」
「削りすぎた」
エルネアがこちらを見る。
「使えない?」
「そこまでじゃない」
「なら直せる?」
「多分。向きを変えれば」
枝を回す。
支えに使うなら。
力がかかる方向を避ければいい。
「失敗?」
「まだ失敗じゃない」
「使えなくなったら?」
「別の用途にする」
エルネアが少し笑った。
「便利な考え方だね」
「捨てるよりいいだろ」
「それはそう」
また紙を擦る音が戻る。
◇
昼前。
エルネアが立ち上がった。
「少し見てくる」
「どこ?」
「空き地の北側。すぐそこ」
「容器使う?」
「多分」
「多分なんだ」
「ユウマに言われたくない」
言い返された。
俺は笑った。
「気をつけて」
「すぐ戻るよ」
エルネアが森へ入る。
鞄は置いたまま。
記録帳も。
腰掛けの上ではなく。
広げた屋根の下へ移してある。
「…………」
前なら。
持っていった気がする。
少なくとも。
全部を置いたまま離れる姿は、あまり見なかった。
今は。
鞄がある。
記録帳がある。
棚には、別の小物もある。
本人は森へ行った。
「戻るからか」
当然のことだった。
すぐそこへ行っただけ。
また戻ってくる。
だから持っていかない。
「…………」
俺も作業へ戻った。
◇
しばらくして。
ハクアが立ち上がる。
森の方を見る。
「エルネア?」
数秒後。
銀色の髪が見えた。
「戻ったよ」
「早かったな」
「近くだって言ったでしょう?」
「容器使った?」
「使った」
中に少し土が入っている。
俺はそれを見る。
「結局、土じゃん」
エルネアの動きが止まった。
「……違うよ」
「何が?」
「土だけを取りに行ったわけじゃないから」
「でも入ってるの土だろ」
「根の周りの土」
「土じゃん」
エルネアがじっとこちらを見る。
「ユウマ」
「何?」
「研究では、どこの土かが大事なの」
「分かった。根の周りの土」
「最初からそう言って」
少しだけ不満そうだ。
俺は笑いながら枝を置いた。
◇
昼。
火の近くへ集まる。
いつもの食事。
特別なものはない。
ハクアの分を分ける。
エルネアも持ってきたものを少し出した。
「これ食べる?」
「何?」
「前にも持ってきたやつ」
「ああ。固いやつ」
「固いって覚え方なんだ」
「分かりやすい」
「味は?」
「悪くなかった」
「ならいいけど」
少し分けてもらう。
俺の方からも渡す。
それぞれ食べる。
ハクアは先に食べ終えた。
水を飲み。
またいつもの場所へ戻る。
「本当に決まってるな」
「何が?」
「ハクアの場所」
エルネアも見る。
「いつもそこだね」
「前から」
「私より先輩だ」
「何の?」
「ここの場所持ち」
言い方がおかしくて、少し笑った。
◇
午後。
俺は次の作業へ移った。
少し傷んだ棚の紐。
まだ切れてはいない。
でも早めに替えた方がいい。
「そこも直すの?」
エルネアが聞いた。
「緩んでる」
「毎日どこか直してるね」
「毎日壊れるわけじゃないよ」
「でも、よく見てる」
「使うからな」
古い紐を外す。
新しいものへ替える。
棚の端。
エルネアの小さな容器が置いてある場所の近くだ。
「それ、動かす?」
「容器?」
「邪魔なら」
「大丈夫」
少し横へ避ける。
紐を巻き直す。
終わったら元の場所へ戻す。
「はい」
エルネアが見ていた。
「何?」
「戻すんだ」
「場所決めただろ」
「そうだったね」
それだけの会話。
でも。
自分で言ってから少し気づく。
場所を決めた。
俺のものではない。
エルネアのもの。
それでも。
どこに置くかを俺も知っている。
◇
エルネアは書き続ける。
時々。
外を見る。
何か思い出したように記録帳へ戻る。
俺は紐を替え。
道具を片づけ。
次に使う枝を選ぶ。
ハクアは眠る。
「…………」
広げた屋根の下。
今日は晴れているから必要ない。
それでも。
エルネアの鞄が置いてある。
腰掛け。
棚の小物。
記録帳。
少し前までなかったもの。
今は。
いちいち見る方がおかしいくらい。
そこにある。
◇
「ユウマ」
「何?」
「この草、前にも使ってたよね」
エルネアが乾燥中の束を指した。
「使ってる」
「同じ場所で採ったもの?」
「大体」
「大体?」
「近いところ。全部同じ場所じゃない」
エルネアが記録帳を少し持ち上げる。
「どっちの方が裂きやすい?」
「そこまで比べてない」
「今度見てもいい?」
「いいよ」
「じゃあ次に来た時」
「覚えてたらな」
エルネアが少し眉を寄せる。
「ユウマが?」
「俺もエルネアも」
「私は覚えてるよ」
「本当に?」
「記録するから」
「ずるいな」
「そのための記録だから」
エルネアは笑って、今の話を書き始めた。
◇
日が少し傾く。
今日は。
本当に何も起きなかった。
雨もない。
新しいものも作っていない。
知らない場所へ行ってもいない。
俺は作業。
エルネアは記録。
ハクアは休む。
たまに話す。
また黙る。
それだけだ。
「…………」
でも。
第93話の頃とは。
少しだけ違う。
あの時も同じ場所で別々のことをしていた。
今は。
エルネアが座る腰掛けがある。
雨が降れば入れる一人分の屋根がある。
棚にはエルネアの道具がある。
記録帳を置いても濡れにくい場所もある。
誰も。
ここがエルネアの場所だとは言っていない。
俺も言わない。
エルネアも言わない。
それでも。
「…………」
腰掛けを見る。
そこにはエルネアがいる。
自然に。
最初からそこに座るつもりだったように。
◇
夕方。
エルネアが記録帳を閉じた。
「今日はここまで」
「何が?」
「記録」
「結構書いたな」
「今日は整理が多かったから」
鞄へ戻す。
筆記具も入れる。
今日使った容器は。
一度棚を見る。
それから手の中を見る。
「持って帰る?」
俺が聞いた。
「今日は持って帰る。中身を確認したいから」
「じゃあ棚のは?」
「置いておく」
「分かった」
エルネアが鞄を肩へかける。
「明日は来る?」
「明日は研究拠点にいると思う」
「じゃあ次は?」
「まだ決めてない。でも、さっきの草は次に見たい」
「ああ」
「忘れないでね」
「そっちも」
エルネアが笑った。
「私は書いたから大丈夫」
「やっぱりずるい」
「ユウマも書けばいいでしょう?」
「まだそんなに文字知らない」
「あ」
エルネアが一瞬止まる。
「それは……そうだった」
「忘れてた?」
「少し」
「エルネアでも忘れるんだな」
「今度、また少し教える」
「じゃあ、それも次だな」
「うん」
次。
自然に言葉が出る。
いつ来るかは決まっていない。
それでも。
次があることは、もう疑っていなかった。
◇
「じゃあ、またね」
「また」
エルネアが空き地を出る。
ハクアの耳が一度動いた。
銀色の髪が森へ消える。
俺は少しだけ見送り。
火の方へ戻った。
「さて」
夕方の作業。
水。
薪。
火。
乾かしているもの。
いつもの順番。
腰掛けの横を通る。
誰も座っていない。
棚を見る。
小さな容器が残っている。
屋根を見る。
一人分だけ広がっている。
「…………」
本人が帰っても。
消えないものが増えた。
でも。
それを特別だと思う感じも。
少しずつ薄くなっていた。
ハクアが火の近くへ戻る。
いつもの場所へ伏せる。
「今日も何もなかったな」
白い耳が動いた。
「こういう日でいいか」
返事はない。
火へ枝を一本足す。
ぱち、と音がする。
書く人が帰り。
作る人が残る。
その間で、ハクアは眠っている。
明日も。
多分、それぞれ自分のことをする。
それでよかった。
第97話を読んでいただき、ありがとうございます。
ユウマは作り、エルネアは書き、ハクアはいつもの場所で休む。
大きな出来事はありません。
ただ、腰掛けや広げた屋根、棚に残る小物は、いつの間にか三人が同じ場所で過ごすための日常の一部になっています。




