第95話 座る場所がない
棚の端に、エルネアの小さな容器が残った翌日。
本人はいなくても、その一つだけはユウマの拠点に残っています。
そしてさらに翌日。
いつものように訪れたエルネアを見て、ユウマは今さら一つのことに気づきます。
翌朝。
火を整え、水を汲んで戻る。
ハクアは空き地の端で身体を伸ばしていた。
「今日は出ないのか?」
白い耳だけが動く。
「まあ、好きにすればいいけど」
水を置き、棚から乾かした植物を取り出そうとして手が止まった。
端に、小さな容器がある。
「…………」
昨日、エルネアが置いていったものだ。
本人はいない。
それでも容器だけは、昨日と同じ場所に残っていた。
「当たり前か」
自分で置いていいと言った。
触る理由もない。
目的だった植物を取り、そのまま棚を離れる。
少ししてハクアが近づき、棚の前で鼻を動かした。
「それ、昨日も嗅いだだろ」
白い顔がこちらを向く。
「今日はエルネアいないぞ」
当然、返事はない。
ハクアは容器をもう一度見ることもなく、火の近くへ戻っていった。
「お前の方が慣れるの早いな」
俺も作業へ戻る。
◇
その日は、エルネアは来なかった。
午前は薪。
昼からは雨避けの端を確認し、緩んでいた紐を締め直す。
途中でハクアは森へ出て、夕方には戻ってきた。
特別なことは何もない。
ただ。
棚から何かを取るたび、小さな容器が目に入った。
邪魔ではない。
だから動かさない。
そこにあることも、夕方にはほとんど気にならなくなっていた。
◇
さらに翌朝。
空は少し曇っていたが、雨が降るほどではなさそうだった。
朝の作業を終え、俺は作業場所に座る。
今日は細い枝を何本か揃えるつもりだった。
長さを見る。
曲がりすぎているものを除け、使えそうなものを横へ置く。
「これくらいなら使えるか」
一本持ち上げたところで、ハクアが顔を上げた。
「来た?」
鼻先が森へ向いている。
少し待つと、枝を踏む足音が聞こえた。
もう驚かない。
木々の間に銀色の髪が見える。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は予定通り?」
エルネアが近づきながら笑った。
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「途中で予定が増えなければね」
空き地の手前まで来る。
「入っていい?」
「どうぞ」
「今日は迷わず言うね」
「もう聞かれるのにも慣れたから」
エルネアが中へ入り、棚へ視線を向けた。
「あ」
「あるよ」
俺も見る。
小さな容器はそのままだ。
「動かしてない?」
「触ってない。邪魔じゃなかったし」
「ありがとう」
「礼を言うほどでもないだろ」
エルネアは少しだけ嬉しそうに棚を見たあと、鞄を下ろした。
記録帳を出す。
筆記具も。
それから周囲を見る。
「今日はどこ座ろうかな」
「いつもの辺り空いてるぞ」
「昨日より物が多いけど」
俺が揃えていた枝が少し広がっている。
「ああ。じゃあ、そっち」
エルネアは空き地の端へ移動した。
そこにあるのは、低い石。
一度手で触ってから腰を下ろす。
「冷たい」
「石だからな」
「分かってるけど、言いたくなるくらい冷たい」
そう言いながら記録帳を膝へ置いた。
俺も枝へ視線を戻す。
◇
しばらく、それぞれの作業を続ける。
俺は枝を揃える。
エルネアは書く。
ハクアは寝る。
いつもの形だ。
「…………」
一本削る。
横へ置く。
次を手に取る。
ふと顔を上げると、エルネアが姿勢を変えていた。
石の上で少し身体をずらしている。
「座りにくい?」
「少しね。でも大丈夫」
「前はあっちに座ってなかった?」
倒木の方を指す。
「日によるよ。空いてるところ」
「そうなの?」
「そうなの、って……」
エルネアが筆記具を止めた。
「毎回見てたでしょう?」
「見てたけど、そこまで見てなかった」
「ひどい」
笑っているから、本気ではないらしい。
俺は周囲を見る。
倒木。
石。
地面。
火の近く。
俺が作業する場所はある。
ハクアがよく伏せる場所も、何となく決まっている。
でも。
エルネアが来た時に座る場所は。
「……ないな」
「何が?」
「座るところ」
エルネアがゆっくりこちらを見た。
「今さら?」
「今気づいた」
「私は最初から気づいてたよ」
「言えよ」
「困るほどじゃなかったから」
そう言って、また記録帳へ視線を戻す。
俺は石を見る。
平らではある。
でも冷たい。
倒木は少し高いが、表面が丸い。
地面に直接座る日もあった。
「…………」
今まで気にしていなかった。
俺自身、座る場所にこだわっていない。
作業なら地面。
休む時も適当。
でもエルネアは、記録帳を書く。
膝に置いて。
身体を少し丸めて。
「書きにくくない?」
「何が?」
「その姿勢」
「慣れた」
「慣れたってことは、書きやすくはないんだな」
エルネアが顔を上げる。
「ユウマ、何か作ろうとしてる?」
「まだ考えてるだけ」
「無理しなくていいよ」
「無理じゃない」
言いながら、周囲を見回す。
材料ならある。
立派な椅子は無理だ。
でも。
座るだけなら。
「ちょっと待って」
「本当に作るの?」
「座るところないから」
「昨日まで気にしてなかったのに」
「今日気づいたから」
エルネアが何か言いかけたが、結局笑った。
俺は立ち上がる。
◇
まず、短い丸太。
薪にするには少し太く、何かに使えるかもしれないと思って残していたものがある。
「これ」
持ち上げる。
重い。
地面へ置く。
「そのまま座る?」
エルネアが聞いた。
「試して」
「今?」
「高さ見るから」
エルネアが記録帳を閉じ、丸太へ腰を下ろす。
「どう?」
「低い」
「低いか」
「でも石よりは冷たくない」
「それは進歩だな」
「基準が低いよ」
立ってもらう。
丸太を見る。
もう少し高さがあればいい。
でも。
高い丸太を新しく切るのは面倒だ。
「下に石置くか」
「転がらない?」
「それを今から考える」
「先に考えてから座らせてほしい」
もっともだった。
俺は丸太の両側へ平たい石を置く。
その上に乗せる。
「…………」
触る。
少し揺れる。
「駄目だな」
「まだ座ってないけど分かる」
「さすがにこれは危ない」
石を外す。
高さだけならよかった。
でも安定しない。
「じゃあ」
別の材料を見る。
平たい木。
以前割れた木片の中に、少し幅があるものが残っていた。
完全に平らではないが。
座る面には使えそうだ。
「これを上に置く?」
エルネアが近くへ来る。
「そのつもり」
「丸太の上?」
「丸太を二つにする」
「二つある?」
「ある」
少し短いものを探す。
太さは完全には揃っていない。
並べると、片方が少し高い。
「もう嫌な予感がする」
「まだ何もしてない」
「高さ違うよ」
「削ればいい」
石斧を持つ。
エルネアが一歩下がった。
「それで削るの?」
「大きいところだけ」
「時間かかりそう」
「じゃあ記録して待ってて」
「分かった。完成する前に日が暮れたら教えるね」
「その前には終わる」
多分。
◇
太い方の丸太を少し削る。
一度では無理だ。
何度か刃を当てる。
削れたところを見て。
もう一度並べる。
「まだ高い」
エルネアが言う。
「見れば分かる」
「手伝おうか?」
「何する?」
「風で削る?」
「それはやめて」
「冗談」
少し笑いながら、また石斧を振る。
今度は削りすぎないように。
何度か確認する。
やっと大体同じ高さになった。
「これくらい」
上へ平たい木を置く。
両端を丸太へ乗せる。
「…………」
手で押す。
少し揺れる。
「まだ駄目?」
「ちょっと」
位置を変える。
丸太の間隔を狭くする。
もう一度押す。
「さっきよりいい」
「座ってみる?」
エルネアが腰掛けようとして、俺は止めた。
「待って」
「何?」
「まだ固定してない」
「今度は先に言ったね」
「学んだ」
繊維の紐を持ってくる。
平たい木と丸太を、簡単に固定する。
綺麗ではない。
それでも、ずれないようにはできる。
片側。
反対側。
締める。
「どうだ」
持ち上げようとする。
「……重い」
「丸太だからね」
「動かさなくていい場所に置こう」
「それがいいと思う」
二人で少し位置を変える。
火から近すぎない。
俺の作業の邪魔にもならない。
棚へ行く時の道も塞がない。
ハクアがよく伏せる場所からも少し離す。
「ここ」
地面へ置く。
「座ってみて」
「今度は大丈夫?」
「多分」
「多分?」
「壊れたら直す」
「座る側は不安なんだけど」
そう言いながらも、エルネアはゆっくり腰を下ろした。
「…………」
俺は見る。
「どう?」
「さっきの石よりはいい」
「それだけ?」
「木だから冷たくない」
「ほかは?」
エルネアが少し身体を動かす。
次の瞬間。
かた、と音がした。
「あ」
「揺れるね」
「やっぱり」
俺はしゃがみ込む。
片方の丸太の下に少し隙間がある。
「地面が平らじゃない」
「そこまで作る前に見なかったの?」
「置いてから分かった」
「ユウマらしい」
「どういう意味?」
「作って、試して、直す」
言われて。
「否定できないな」
確かにそうだ。
小さな平たい石を一つ探す。
丸太の下へ差し込む。
「もう一回」
「はいはい」
エルネアが座る。
今度は。
動かしても大きく揺れない。
「どう?」
「うん。今度は大丈夫」
「本当に?」
「さっきよりは」
「基準低くない?」
「作った本人が言う?」
二人で笑う。
◇
エルネアは、そのまま腰掛けへ座った。
記録帳を膝へ置く。
筆記具を持つ。
「書きやすい?」
「前よりは」
「じゃあ成功だな」
「成功にするの早くない?」
「座れてる」
「少し斜めだけど」
「壊れてない」
「判断基準がどんどん下がってる」
俺は腰掛けを見る。
確かに。
平たい木は少し傾いている。
丸太も完全には揃っていない。
固定した紐も綺麗ではない。
本当に粗い。
「もうちょっと直す?」
「今日はいいよ」
「いいの?」
「使えるから」
その言葉に少し笑った。
「俺と同じこと言ってる」
「何が?」
「使えればいい」
「あ」
エルネアも気づいたらしい。
「ユウマの考え方が移ったかも」
「悪くないだろ」
「研究道具では困るけど、座るだけならね」
そう言って、また記録を書き始めた。
俺も元の作業へ戻る。
枝を揃える。
切る。
削る。
しばらく。
紙を擦る音。
石刃が木へ当たる音。
風。
ハクアの寝息。
それだけが続く。
◇
少しして。
俺は顔を上げた。
エルネアは。
さっき作った腰掛けに座っている。
特に何も言わず。
普通に。
記録帳を膝へ置いている。
「…………」
「何?」
見ていたのに気づかれた。
「いや。使ってるなと思って」
「作ったんだから使うでしょう?」
「それもそうか」
「使わなかったら嫌?」
「ちょっと」
エルネアが笑う。
「じゃあ、ちゃんと使う」
「無理に使わなくていい」
「どっちなの?」
「壊れなければ使って」
「分かった」
そこまで話して、また互いの作業へ戻る。
俺の場所。
ハクアの場所。
今まで。
そんなふうに決めたことはなかった。
でも自然と。
俺はここで作業する。
ハクアはあそこで休む。
エルネアは。
「…………」
腰掛けを見る。
今は、そこに座っている。
それだけだ。
◇
昼を過ぎる。
一緒に食べる。
今日はエルネアが持ってきたものを少し分けてもらった。
「これ、昨日のと違う?」
「違うよ」
「外の?」
「そう。保存しやすいもの」
少し固い。
でも味は悪くない。
「森でも作れる?」
「材料があれば似たものはできるかも」
「じゃあ、そのうち聞く」
「そのうち?」
「今は座る場所作ったから疲れた」
「そんなに?」
「石斧で丸太削ったんだぞ」
エルネアが腰掛けを見る。
「じゃあ、大事に座った方がいいね」
「壊すなよ」
「普通に座って壊れたら、作った方の問題だと思う」
「それはそうだけど」
少し悔しい。
でも正しい。
◇
午後。
エルネアは周辺を少し見に行った。
俺とハクアは拠点に残る。
今朝から揃えていた枝を片づけ、余った繊維を棚へ戻した。
そこで。
小さな容器が目に入る。
「…………」
昨日までは。
棚の端に、エルネアの物が一つ。
今日は。
少し離れたところに、粗い腰掛けが一つ。
別に。
エルネアのためだと決めたわけではない。
誰が座ってもいい。
俺が座ってもいい。
でも。
俺は多分、作業する時はいつもの場所に座る。
ハクアは座らない。
「…………」
そう考えると。
誰が使うかは、ほとんど決まっていた。
「まあ、いいか」
棚を閉じる。
◇
しばらくしてエルネアが戻った。
空き地へ入り。
鞄を置き。
何も言わず。
そのまま腰掛けへ座った。
「…………」
俺は見た。
「何?」
「いや」
「また見てる」
「自然にそこ座ったな」
エルネアが一度、自分の下を見る。
「空いてたから」
「ほかも空いてる」
「ここが一番座りやすいから」
そう答えて、記録帳を開く。
それ以上。
何も言うことはなかった。
俺も作業へ戻る。
◇
夕方。
エルネアが帰る準備を始めた。
記録帳を鞄へ入れ、小さな道具を確認する。
棚の端に残してある容器には触らない。
「それ、今日使わなかったな」
「容器?」
「うん」
「次に使う予定だから、そのままでいいよ」
「分かった」
エルネアが鞄を肩へかける。
立ち上がったあと。
腰掛けを見る。
「これも置いていっていい?」
「持って帰るつもりだったの?」
「無理でしょ」
「じゃあ聞くなよ」
エルネアが笑う。
「一応」
「ずっとそこに置くよ。邪魔になったら動かすけど」
「うん。それでいい」
エルネアは空き地の端へ向かう。
「じゃあ、また」
「また」
「次に来た時、揺れなくなってたりする?」
「気が向いたら直す」
「期待しないでおくね」
「少しは期待しろよ」
エルネアが笑いながら森へ入っていく。
銀色が木々の向こうへ消える。
俺は作業場所へ戻った。
◇
火を整える。
ハクアへ水を置く。
夕方の風が少し冷たくなってきた。
「…………」
空き地を見る。
昨日までと。
大きくは変わらない。
棚。
火。
雨避け。
作業場所。
ハクアのいるところ。
そこに。
低い腰掛けが一つ増えただけだ。
「ちょっと斜めだな」
近づいて手で揺らす。
かすかに動く。
「明日直すか」
小さな石を一つ追加するだけでも変わりそうだ。
すぐにやってもいい。
でも。
今日はもういい。
ハクアが腰掛けの近くへ来る。
鼻を動かす。
「エルネア座ってたからな」
白い鼻先が木へ近づく。
一度嗅ぐ。
そのまま離れる。
「そこ、お前の寝る場所じゃないぞ」
ハクアは俺を見ない。
いつもの場所へ戻り、伏せた。
「分かってるか」
俺も火の近くへ戻る。
ぱち、と枝が鳴る。
棚の端には、小さな容器。
少し離れたところには、粗い腰掛け。
どちらも。
昨日まではなかった。
誰かが来るたび。
少しずつ。
この場所に必要なものが増えている。
俺は火を見ながら。
明日は腰掛けの傾きを直そうと思った。
第95話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
毎回、空いている倒木や石へ座っていたエルネア。
今さらそれに気づいたユウマは、低く粗い腰掛けを一つ作りました。
綺麗でも、完全に安定しているわけでもありません。
それでも次にエルネアが戻った時、彼女は何も言わず自然にそこへ座ります。




