第94話 置いていく
第八章「三人の場所」が始まります。
ユウマの拠点に、エルネアの小さな道具が一つ残りました。
それは、彼女がまたここへ来るための、ささやかな目印です。
ハクアが戻り、エルネアが訪れる。
一人で生きるために作られた場所へ、少しずつ二人の気配が重なっていきます。
朝。
目を覚ますと、まず火を見る。
灰の下を細い枝で探ると、まだ赤いところが残っていた。
「大丈夫だな」
乾いた葉を寄せ、細枝を重ねて息を吹き込む。
火が戻った。
その横では、ハクアがまだ伏せている。
「おはよう。今日はよく寝てるな」
白い耳が一度だけ動いた。
俺は容器を持ち、水を汲みに向かった。
◇
戻ってから、朝の作業を続ける。
水を置き、食べるものを確認する。
昨日直した石斧も、念のため持ち上げた。
「まだ緩んでないな」
柄を握り、石刃を軽く揺らしてみる。
昨日巻き直した繊維は、今のところしっかり締まっていた。
「よし。これなら、しばらく使える」
石斧を元の場所へ戻す。
昨日、エルネアはここで一日近く過ごしていた。
俺が石斧を直し、エルネアが記録を書き、ハクアが眠る。
途中で食事を取り、またそれぞれ別のことをした。
帰る前に、次はいつ来るのか聞いた。
「数日後、か」
今日は来ないだろう。
だからといって、何かが変わるわけではない。
薪も必要だ。
乾かしている草もある。
棚の中も、少し整理したい。
「今日は、こっちからだな」
棚へ向かう。
石、紐、乾かした植物、使いかけの樹皮。
並んでいるのは、自分で置いたものばかりだ。
一つずつ動かしていく。
「これ、もう使わないか」
短くなった紐は、端が切れかけている。
それでも、何かを仮止めするくらいには使えそうだった。
「捨てなくていいな」
端へ寄せ、空いたところへ別のものを入れる。
棚は、作った時より物が増えていた。
最初は、置くもの自体が少なかった。
今は、どこへ何を置いたか考えないと、必要なものを探すことになる。
「もう少し広くしてもいいか?」
棚を見る。
すぐに作り直す必要はない。
今のところは、まだ収まっている。
「そのうちだな」
そう決める。
ハクアが立ち上がった。
「出る?」
白い身体が森の方へ向かう。
「行ってらっしゃい。昼までには戻れよ」
ハクアは振り返らず、そのまま木々の間へ消えていった。
俺は棚の整理へ戻った。
◇
昼前。
薪を少し集めて戻り、空き地へ枝を置く。
「これくらいあれば――」
そこで、森の方から音がした。
「ん?」
ハクアにしては重い。
枝を踏む音と、一定の足音が近づいてくる。
「…………」
聞いたことがある。
俺は枝を置いたまま、そちらを見る。
木々の間から銀色が見えた。
「……来た」
昨日も見た髪。
エルネアだ。
向こうも俺に気づいた。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は早いな」
エルネアが少し近づいてくる。
「数日後じゃなかった?」
「予定が変わったの」
「ずいぶん早い変更だな」
「近くで確認したい場所が増えたから。通るなら、寄ろうかなって」
「また寄っただけ?」
「また寄っただけ」
エルネアが笑う。
「でも、寄る場所として覚えてくれたんだな」
「そうだね。もう迷わないと思う」
空き地の前で足を止めた。
「入っていい?」
「いいよ。昨日と同じで、好きなところに座ればいい」
「今日は、ちゃんと聞いておく」
エルネアはそう言って中へ入ってきた。
「ハクアは?」
「森。たぶん、そのうち戻る」
「大体の時間は?」
「最近は、それでいいことにしてる」
「前より自信がなくなってない?」
「戻ることには自信がある。時間は分からない」
「なるほど。そこは分けて考えるんだ」
エルネアは、いつも座る辺りを見る。
昨日、俺が置いていた枝や繊維は片づけてある。
「今日は空いてる」
「座っていい?」
「聞くんだ」
「一応ね。勝手に座ると、また何かの作業を邪魔するかもしれないから」
「そんなに気にしなくていいよ」
「じゃあ、遠慮なく」
エルネアが腰を下ろす。
鞄を横へ置き、記録帳、筆記具、小さな容器、布、いくつかの道具を取り出した。
「今日は多いな」
「調べたものがあるから」
「ここで見る?」
「少しだけ。ここなら落ち着いて確認できるから」
エルネアが小さな容器の中を覗く。
何かが入っているようだ。
「植物?」
「土」
「また土?」
エルネアの目がこちらへ向いた。
「また、って言った?」
「昨日も聞いた」
「場所が違う」
「それも昨日聞いた」
「じゃあ、もう分かってるでしょう?」
「分かってるけど、土ばかり集めてるように見える」
「場所ごとに違うから必要なの」
「土にも違いがあるんだな」
「あるよ。色も匂いも、含まれているものも違う」
「そういうものか」
エルネアは容器へ視線を戻した。
俺は集めた薪を分ける。
太いもの、細いもの、まだ湿っているもの。
火へすぐ入れるものは近くへ置き、乾かした方がいいものは少し離す。
その間、エルネアは何かを書いていた。
時々、小さな容器を見る。
また書く。
俺は薪を動かす。
それぞれの音だけが、しばらく続いた。
◇
しばらくして、エルネアが容器へ蓋をした。
「終わった?」
「こっちは終わった」
「その土、持って帰る?」
「これは持って帰る。調べるから」
容器を鞄へ戻す。
次に布を畳み、筆記具と記録帳を片づけていく。
「もう帰る?」
「まだ。少しこの辺を見る」
エルネアが立ち上がった。
「俺の拠点?」
「外側。昨日、気になったところがあったから」
「何か見つかった?」
「まだ分からない。こっち」
空き地の端へ向かう。
俺もついていく。
森との境目。
俺が普段歩く場所だ。
エルネアは地面へしゃがんだ。
「ここ」
「何?」
「草の生え方」
「普通じゃない?」
「ユウマには、そう見える?」
「うん。毎日見てるけど、変なところはない」
「少し空いてるでしょう?」
「歩いてるからじゃない?」
「それもあると思う。でも、歩いていることで、周囲とは違う状態になっているの」
「そんなところまで見るのか」
「見るよ。ユウマがここを使い続けることで、植物の状態がどう変わるか分かるから」
「俺も調査対象?」
「ユウマそのものじゃなくて、ユウマが暮らしている場所」
「ほとんど同じじゃない?」
「違う」
即答された。
「そういうもの?」
「そういうもの。ユウマがいなくても、場所には場所の変化が残るから」
エルネアが記録帳を開く。
俺は少し離れた場所を見る。
確かに、最初にここへ来た頃より、空き地の端は歩きやすくなっていた。
毎日使っている。
薪を運ぶ。
水を運ぶ。
ハクアも歩く。
エルネアも、最近は歩く。
「人が歩くと変わる?」
「少しずつね」
「じゃあ、もっと歩けば道になる?」
「同じところを何度も通れば」
「俺が森で使ってる道と同じか」
「そう。道は最初からあるものじゃなくて、通った跡が残ってできることもある」
「なら、そのうちここも変わるな」
「もう変わり始めてる」
「そうなんだ」
俺には毎日見ているせいか、そこまで大きく変わったようには見えなかった。
でも、エルネアには分かるらしい。
◇
昼を過ぎた頃、ハクアが戻ってきた。
先に鼻先が森から出る。
次に白い身体。
「おかえり」
ハクアが俺を見る。
そのまま、今度はエルネアを見る。
「こんにちは、ハクア。今日は少し遅かったね」
エルネアが声をかける。
白い耳が動いた。
けれど、足は止まらない。
そのまま水の方へ向かう。
「今日も普通」
エルネアが小さく言った。
「何が?」
「私がいても、気にしなくなったみたい」
「もう何回もいるからな」
「そうだね。少し嬉しい」
ハクアは水を飲み、戻ってくる。
エルネアの近くを通る。
距離は少しある。
でも、最初の頃よりずっと近い。
そのまま、いつもの場所へ伏せた。
「寝るの早いな」
「森で何してきたんだろう」
「知らない」
「聞かないの?」
「聞いて分かる?」
「分からないけど、聞いたら教えてくれるかもしれない」
「じゃあ、今度聞いてみるか」
「本当に?」
「たぶん、返事はないけど」
エルネアが笑った。
◇
少し遅めに食事を取る。
今日も特別なものはない。
俺の食べるものと、エルネアが持ってきたものを少しずつ分ける。
ハクアは自分の分を食べる。
「昨日も一緒に食べたな」
俺が言う。
「そうだね。今日も同じ場所で食べてる」
「嫌?」
「嫌なら来てないよ」
「それもそうか」
食べる。
少し黙る。
「エルネアの方が、外の食べ物は多い?」
「持ってきてるもの?」
「うん」
「毎回同じじゃないよ。町で買うものもあるし、保存して持ってくるものもある」
「町で買う?」
「そう。店や市場で」
昨日聞いた外の話。
店、市場、金属の道具。
「斧は?」
「食事中まで斧?」
「思い出しただけ」
「まだ欲しいんだ」
「欲しい」
「変わらないね」
「一日で変わらないだろ」
「それもそうだね。でも、食べ終わってからにしよう」
エルネアが笑う。
俺も食べる。
それで話は終わった。
◇
午後。
エルネアは、もう一度記録帳へ何かを書いた。
俺は繊維をまとめる。
ハクアは眠っている。
風が少し強くなり、乾かしている草が揺れた。
その端には、エルネアから教わった薬草も、数本だけ分けて置いてある。
「これ、落ちそうだな」
立ち上がり、吊るしていたものを一つ直す。
紐を締める。
「ユウマ」
「何?」
「それ、前に話していた草?」
「うん」
「今、どのくらい乾いてる?」
触ってみる。
「もう結構乾いてる」
「使える?」
「紐なら、少し水で戻した方がいいかも」
「水で戻すの?」
エルネアが記録帳を開こうとする。
「また書く?」
「今のことは知らなかった」
「前に言わなかった?」
「完全に乾くと脆いとは聞いた。でも、戻して使うのは聞いてない」
「ああ。そうだったかもしれない」
「どのくらい湿らせるの?」
「触って曲がるくらい」
「時間は?」
「測ってない」
「量は?」
「それも測ってない」
「…………」
「前にもやったな、これ」
エルネアが少し困った顔をする。
「ユウマ、本当に感覚でやってるね」
「使えればいいから」
「研究記録にはしづらい」
「だから俺は研究者じゃない」
「知ってる。でも、分からないことが分かるのは助かるよ」
エルネアは、また記録帳へ何かを書いた。
「書くんだ」
「参考にはなるから」
「じゃあ、今度ちゃんと見ておく?」
「無理に変えなくていい」
「何で?」
「いつも通りやっている時の方が、ユウマのやり方が分かるから」
「そういうもの?」
「そういうもの」
今日二回目だ。
◇
日が傾き始める。
エルネアが記録帳を閉じた。
「そろそろ戻る」
「今日は早い?」
「昨日が長かっただけ」
「ああ。昨日は夕方近くまでいたな」
「今日は明るいうちに戻っておきたいの」
「数日後って言ったのに、今日来たしな」
「予定は変わるもの」
「じゃあ、次は?」
「まだ分からない。近くを調べる順番次第かな」
「そっか」
それでいい。
エルネアが道具を片づける。
記録帳、採取したもの、筆記具、小さな容器、布。
一つずつ鞄へ入れていく。
途中で、エルネアの手が止まった。
「何?」
「これ」
小さな容器を一つ持っている。
中は空だった。
さっき土を入れていたものとは別らしい。
「何に使う?」
「次にこの辺を見る時、また使うと思う」
「うん」
エルネアが少しだけ周囲を見る。
それから、こちらへ視線を戻した。
「置いていっていい?」
「…………」
俺は容器を見る。
「ここに?」
「うん。どうせ次に使うから」
「持って帰らなくていいの?」
「持って帰っても、また持ってくることになるでしょう?」
「なくならない?」
「ユウマが捨てなければ」
「捨てないよ。そんなに信用ない?」
「そういう意味じゃないよ」
エルネアが小さく笑う。
「ただ、ユウマのものと混ざったら困るから」
「それなら、置く場所を決めればいい」
小さい。
手のひらに収まるくらいだ。
何か特別なものには見えない。
「別にいいけど、置くところがあれば」
棚を見る。
今朝、少し整理した。
端に小さな空きがある。
「ここなら?」
指で示す。
エルネアも近づいた。
「いい?」
「俺のものと混ざらなければ」
「じゃあ、ここにする」
小さな容器を棚の端へ置く。
それだけだった。
「…………」
俺は容器を見る。
「何?」
エルネアが聞く。
「いや。思ったより自然だな」
「何が?」
「置いていくこと」
「嫌だった?」
「全然。小さいし、邪魔にもならない」
「じゃあ、置いておくね」
「うん」
専用の収納を作ったわけではない。
名前を書いたわけでもない。
ただ、空いていた棚の端へ、エルネアの小さな容器が一つ置かれた。
◇
「じゃあ、帰るね」
「うん」
エルネアが鞄を肩へかける。
今日は、さっきまで持っていたものが一つだけ減っている。
「忘れ物は?」
「今度は確認しないの?」
「確認してる」
エルネアが鞄を見る。
「大丈夫」
「本当に?」
「一つ置いていくけど」
「それは忘れ物じゃないだろ」
「そう。次に使うものだから」
エルネアが少し笑う。
「ハクア、またね」
白い耳が動く。
エルネアは空き地を出る。
「また」
「うん。また来るね」
木々の間へ入っていく。
銀色の髪が見えなくなる。
俺は、前のように長くは見送らない。
火の方へ戻る。
「さて」
夕方の作業。
水、火、乾かしているもの。
いつもと同じだ。
棚の前を通る。
「…………」
一度、足が止まった。
棚の端にある小さな容器。
俺のものではない。
今までは、エルネアが帰れば、彼女が持ってきたものも全部なくなった。
記録帳も、鞄も、容器も、布も。
何も残らない。
今日は一つだけ残っている。
「次に使うから、か」
手には取らない。
邪魔でもない。
場所を変える必要もない。
そのままでいい。
ハクアが近づいてくる。
棚の方へ鼻を向けた。
「それ、エルネアの」
白い鼻が少し動く。
「置いていった。次に来た時に使うらしい」
匂いを一度嗅ぐ。
それだけだった。
ハクアは、そのまま離れていった。
「気にしないのか」
返事はない。
俺も、もう一度だけ容器を見る。
小さい。
ただの道具。
でも、次に来るまでここにある。
「まあ、いいか」
火へ向かう。
枝を一本足す。
ぱち、と音がした。
棚の端には、エルネアが次に使うものが一つだけ残っていた。
それは、彼女がまたここへ来るということでもある。
俺は火を見ながら、そう思った。
エルネアが、ユウマの拠点に自分の道具を一つ残しました。
棚の端に置かれた小さな容器は、次に彼女が来るための目印でもあります。
一人で生きるための場所に、ハクアとエルネアの気配が少しずつ重なっていきます。




