章末閑話 もう知っている匂い
第七章章末閑話です。
何度も現れ、何度も帰っていった銀色の人。
その匂いを、ハクアはもう以前と同じようには確かめません。
銀色の人が立ち上がった。
鞄を持つ。
紙の匂い。
乾いた植物。
外の土。
少しだけ金属。
その全部に混ざった、もう何度も嗅いだ匂い。
「ハクア、帰るね」
声がした。
ハクアは伏せたまま、耳を一度だけ動かした。
顔は上げた。
それだけだった。
「またね」
銀色の人が歩いていく。
空き地を抜ける。
木々の間へ入る。
ユウマが少しだけその後ろを見る。
「次は?」
声。
銀色の人が止まった。
何かを返す。
ユウマも返す。
それから。
銀色の人はまた歩き始めた。
銀色が木々の間に消える。
足音も遠くなる。
ハクアは動かなかった。
少し前なら。
立っていた。
鼻を上げて。
風を嗅いで。
どちらへ行ったのかを見ていた。
残った匂いを確かめた。
ユウマの近くへ来たものが。
どこへ行くのか。
本当に離れていくのか。
それを見ていた。
今は。
伏せたまま。
尾の先を少し動かす。
風が空き地を通る。
銀色の人の匂いが薄く混ざった。
鼻が一度だけ動く。
知っている。
それで終わった。
◇
最初にあの匂いを覚えた時。
姿はなかった。
湿った土。
切られた草。
細い水。
石。
その上に。
いつもとは違うものの匂いが残っていた。
何度か嗅いだ。
同じ匂い。
場所は違った。
残り方も違った。
濡れた植物が混ざる時。
水の匂いに薄くなる時。
土へ深く残る時。
それでも同じだった。
誰かがいる。
森を歩いている。
ユウマでもない。
ハクアでもない。
獣とも違う。
だから覚えた。
見つけた時は確かめた。
鼻を低くする。
風を嗅ぐ。
跡を追う。
姿がなくても。
どちらへ行ったかを見る。
知らないものは。
知らないままにしておかない。
それだけだった。
それから。
匂いに姿がついた。
銀色の髪。
長い耳。
ユウマと向かい合って声を出すもの。
エルネア。
ユウマがそう呼んだ。
最初の日。
ハクアは見ていた。
銀色の人を見る。
ユウマを見る。
また銀色の人を見る。
急に近づかないか。
手を伸ばさないか。
何かを持ち上げないか。
声が変わらないか。
匂いが変わらないか。
それを見ていた。
銀色の人は。
ユウマの前にいた。
でも。
何もしなかった。
声を出した。
ユウマも声を返した。
それだけだった。
だから。
その日は。
見るだけでよかった。
◇
次にも来た。
また来た。
毎日ではない。
来ない日もあった。
何日か経つと。
森の向こうから匂いが来た。
ハクアには。
姿が見える前に分かることもあった。
銀色の人。
ユウマと話す人。
何度も来る人。
来るたび。
銀色の人は空き地の前で止まった。
すぐには入らない。
ユウマへ声をかける。
ユウマが声を返してから中へ入る。
勝手に入らない。
ハクアはそれを何度も見た。
ユウマのものにも。
勝手には触らなかった。
棚。
容器。
石。
乾かしている草。
気になるものを見る。
顔を近づける。
時々、ユウマへ何かを聞く。
ユウマが答える。
それから触ることもある。
触らないこともある。
勝手にはしない。
それも見た。
◇
銀色の人は。
ハクアを見ることが多かった。
最初は。
長く見ていた。
目が合う。
少し嬉しそうな匂いになる。
それでも。
近づかなかった。
呼ばれることはある。
「ハクア」
名前。
ユウマが何度も使う音。
銀色の人も。
今では同じ音を使う。
けれど。
呼んだあとに追わない。
ハクアが離れれば、そのまま。
伏せれば、そのまま。
森へ行けば、追ってこない。
戻った時。
銀色の人がいても。
立ち上がって近づいてくることはない。
見る。
声を出す。
待つ。
それだけ。
だから。
ハクアも少しずつ近くを通った。
最初は遠く。
次は少し近く。
匂いを嗅げるところまで行ったこともある。
銀色の人は動かなかった。
手も伸びなかった。
だから。
また離れた。
それでよかった。
◇
昨日。
違う場所へ行った。
ユウマと。
銀色の人と。
三つで歩いた。
知っている道。
知らない道。
湿ったところ。
水。
岩。
その先。
銀色の人の匂いが濃くなる場所。
古い石。
木。
土。
紙。
乾いた植物。
火を使った跡。
銀色の人の匂いが。
あちこちに残っていた。
あそこは。
銀色の人が戻る場所。
ハクアには。
それ以上のことは分からない。
でも。
銀色の人は。
あそこでは匂いが少し違った。
森を歩いている時より。
動きが少ない。
物の位置をよく知っている。
迷わない。
ユウマが今の空き地でそうするように。
銀色の人も。
あの場所では自然に動いていた。
ハクアは匂いを嗅いだ。
知らない場所だった。
知らない物も多かった。
だから最初は歩いた。
入口。
壁。
床。
風の通るところ。
銀色の人の匂い。
ユウマの匂い。
自分の匂い。
何度か確かめた。
それから伏せた。
誰も追ってこなかった。
銀色の人は少し離れたところから見ていた。
それだけだった。
◇
今日は。
銀色の人がこちらへ来た。
ユウマが石を触っていた。
ハクアは寝ていた。
匂いが近づいた。
耳を動かした。
それだけで分かった。
銀色の人。
だから。
立たなかった。
空き地へ入ってくる。
声がする。
ユウマの声。
銀色の人の声。
何度も聞いた音の行き来。
怖がる時のユウマではない。
獣を見つけた時でもない。
知らない何かを警戒している時とも違う。
声が続く。
時々笑う。
また静かになる。
石を削る音。
紙を擦る音。
火が弾ける音。
ハクアは眠った。
目を閉じてもよかった。
銀色の人がいた。
それでも。
目を閉じた。
◇
起きた時も。
銀色の人はいた。
ユウマもいた。
何かを食べていた。
互いに渡して。
声を出して。
また食べる。
そのあとも。
銀色の人は帰らなかった。
紙へ何かを残す。
ユウマは石と木を触る。
ハクアは水を飲む。
戻る。
少し近い場所へ伏せる。
「近い」
銀色の人の声。
ハクアは耳だけ動かした。
手は来なかった。
身体も近づいてこない。
だから。
そのまま伏せた。
銀色の人の匂い。
ユウマの匂い。
火。
水。
乾いた草。
木。
いつもの空き地の匂いの中に。
一つだけ。
前にはなかったものが混じる。
でも。
もう。
鼻を上げて確かめる必要はなかった。
◇
日が傾いた。
銀色の人が帰る。
いつもそうする。
来る。
少しいる。
長くいる日もある。
声を出す。
紙へ何かを書く。
ユウマのすることを見る。
ハクアを見る。
でも追わない。
そして。
帰る。
毎回。
自分の匂いを少しだけ残して。
森の向こうへ消える。
次に来る時には。
また別の土。
別の草。
別の水の匂いをつけている。
それでも。
その中にあるものは同じ。
ハクアは知っている。
銀色の人。
ユウマと話す人。
何度も来る人。
何度も帰る人。
それだけ。
それだけで足りる。
◇
「数日後か」
ユウマの声。
ハクアは顔を上げる。
ユウマが火へ枝を入れている。
ぱち、と音がした。
銀色の人はもういない。
木々の向こう。
姿はない。
匂いだけが。
風に薄く混ざっている。
ハクアは鼻を一度だけ動かした。
「何?」
ユウマがこちらを見る。
ハクアは伏せたまま。
「また匂い?」
耳が一度動く。
ユウマも森の方を見る。
「エルネア?」
ハクアは立たない。
森へ行かない。
残った匂いを追わない。
ユウマは少し待った。
「……まあ、いいか」
火へ顔を戻す。
ハクアも目を細めた。
風がもう一度通る。
湿った土。
切られた草。
細い水。
紙。
金属。
そして。
銀色の人の匂い。
以前なら。
確かめていた。
今は。
もう知っている。
それはもう、知らない匂いではなかった。
章末閑話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
第六章では、ハクアにとってエルネアは「姿と名前がつながった、まだ距離を測る相手」でした。
何度も訪れ、無理に近づかず、そして毎回自分の場所へ帰っていく。
その積み重ねによって、ハクアもエルネアを「毎回確かめなくてもいい、もう知っている存在」として受け入れ始めています。
まだ三者は同じ場所で暮らしてはいません。
それぞれの居場所を持ったまま、第七章はここで終わります。




