第三章 特級呪霊と究極のお詫び
ラウンジの特注ソファに腰を下ろした巨大な怨霊は、無数の腕器用に使いこなしながら、ストローでちゅうちゅうとアイスティーラテを啜っていた。
『……美味い。ベルガモットの香りと血のコクが絶妙だ……』
「お口に合いまして何よりでございます」
フロントから見守る私に、怨霊は無数の目玉を細めて(おそらく微笑んで)見せた。
世界を滅ぼすほどの呪力を秘めた特級怪異が、高級ホテルのラウンジで優雅にティータイムを楽しんでいる。実に微笑ましい光景だ。
「マネージャー……俺、もう帰っていいですか……生きた心地がしません……」
フロントの下に隠れてガタガタと震える新人の佐藤に、私は温かいおしぼりを乗せたトレイを差し出した。
「佐藤。お客様がお飲み物を半分ほど召し上がられた。タイミングを見計らって、この温かいおしぼりと、サービスのドライフルーツをお持ちしなさい」
「む、無理です! あんなバケモノの前に出たら喰われます!」
「プロ意識を持ちなさい。見た目が少々個性的でも、大切なお客様だ」
私の冷たい視線に急かされ、佐藤は泣きそうな顔でトレイを受け取った。
彼は生まれたての小鹿のように足を震わせながら、怨霊の座るテーブルへと近づいていく。
「お、おおお、お待ちどうしゃまでしゅ! お、おしぼりで……っ、ひっ!」
その時だった。
間近で怨霊の無数の目玉と見つめ合ってしまった佐藤は、恐怖で完全に足をもつれさせた。
「あッ!」
無惨にもトレイは宙を舞い、あつあつに温められたおしぼりが、怨霊のど真ん中にある一番大きな目玉にべちゃりと直撃した。
『ギェアアアアアアアアッ!? あつッ!!?』
熱々のおしぼりを顔面に受けた怨霊は、鼓膜が破れるほどの絶叫を上げた。
次の瞬間、ラウンジ内の空気が一気に氷点下まで下がり、窓ガラスにピキピキと亀裂が走る。怨霊の全身から、先ほどとは比べ物にならないほど濃厚でどす黒い瘴気が噴き出した。
『よくも……よくも我を謀ったな人間どもォ!! やはり貴様らは愚かで無価値だ! 許さん、このホテルごと次元の狭間に引きずり込み、永遠の苦痛を――!』
怨霊の体が天井を突き破る勢いで巨大化し、無数の腕が佐藤を引き裂こうと襲いかかる。
もはや物理的な武器や、中途半端な除霊術など全く通用しない、完全な「世界の終わり」の光景。
だが、私は慌てなかった。
ホテルマンとして、決して起きてはならない「お客様への粗相」。これを挽回するためには、小手先の対応ではなく、日本の接客業における【究極の奥義】を以て誠意を示すしかない。
私はフロントデスクを軽やかに飛び越えると、怨霊と佐藤の間に滑り込んだ。
そして、スーツの皺一つ乱さぬ完璧な所作で、両膝を床についた。
背筋をピンと伸ばし、指先まで揃えた両手を床に添え、そこから流れるような滑らかさで額を大理石の床へと沈め――ピタリと静止する。
ドンッ!!
美しすぎる【完全無欠の土下座】が完成した瞬間、私から放たれた「接客マナーの波動」が物理的な障壁となり、怨霊の放つ呪いの瘴気を完全に弾き返した。
『なっ……!? なんだ、この淀みない動きは……! 圧倒的な、誠意……!?』
怨霊の巨大な腕が、私の土下座から放たれるホスピタリティのオーラに阻まれ、ピタリと止まる。
「この度は、当ホテルのスタッフがお客様に多大なるご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございませんでした!!」
床に額を擦り付けたまま、私はロビー中に響き渡る声で深く、深く謝罪した。
「こちらの教育不足の至りであり、弁解の余地もございません! つきましては、本日のお詫びといたしまして、本日のご宿泊代金、ならびにラウンジでのご飲食代は【すべて無料】とさせていただきます!!」
『む、無料……!?』
怨霊の呪力が、驚愕によってスッと弱まった。そこを逃さず、私はさらに言葉を畳み掛ける。
「さらに! 今回の非礼に対するせめてもの償いといたしまして、お客様を当ホテルの【プラチナ・プレミアム会員】へ無料アップグレードさせていただきます。こちらは通常、年間百泊以上のお客様にのみ発行される特別なステータスでございます!」
『ぷらちな・ぷれみあむ……!』
「次回以降のご宿泊は常に二〇パーセントオフ! レイトチェックアウト無料! さらに、お誕生月には特製バースデーケーキ(生贄の血入り)をプレゼントさせていただきます!!」
私は土下座の姿勢からスッと顔を上げ、内ポケットから輝くプラチナカードを取り出し、両手で恭しく怨霊へと差し出した。
「どうか、このカードをお納めいただき、今回の不手際をご容赦いただけないでしょうか……!」
沈黙が落ちた。
吹き荒れていた怨念の嵐は完全に止み、割れかけていた窓ガラスのヒビもピタリと進行を止めている。
怨霊は無数の目玉を瞬かせ、差し出されたプラチナカードの美しい輝きと、私の完璧な土下座を交互に見つめた。
『……レイトチェックアウトは、何時まで可能なのだ……?』
怨霊が、恥じらうような小さな声で尋ねてきた。
「午後二時まで、ごゆっくりお部屋でおくつろぎいただけます」
『……ふん。まぁ、そこまで言うなら……今回は許してやろう』
怨霊は巨大な腕をスッと縮ませると、プラチナカードを大切そうに受け取り、懐(?)へとしまった。
「世界の終わり」は、次回宿泊割引券とレイトチェックアウトの前に、見事に回避されたのである。




