第二章 あいにく生贄は品切れております
四〇四号室の生首(後に和食のルームサービスを完食し、満足げに成仏した)の一件から数日後のこと。
外は土砂降りの雨。深夜のエントランスは静まり返っていた。
ウィーン、と自動ドアが重々しい音を立てて開く。
しかし、そこに入ってきたのは人間の客ではなかった。
天井まで届きそうなほど巨大で、どす黒い怨念の集合体。無数の目玉と腕が蠢く、いわゆる「特級」と呼ばれるクラスの厄介な怪異だった。
『我は絶望を喰らう者……。この地に呪いを……』
怪異がエントランスに足を踏み入れた瞬間、ロビーの観葉植物が一瞬にして枯れ果て、大理石の床にはピキピキとひび割れが走った。
バックヤードにいた新人のベルボーイである佐藤が「ヒィッ! 今度こそ終わりだ、東京が滅びるゥ!」と腰を抜かしている。
私は静かにため息をつくと、身だしなみを整え、フロントデスクから颯爽と歩み出た。
そして、どす黒い瘴気を撒き散らす巨大な怨霊の正面に立ち、両手を重ねて完璧な四十五度のお辞儀をした。
「いらっしゃいませ、ホテル・煉獄へようこそ。本日はご予約のお客様でしょうか?」
『……は?』
巨大な怨霊の無数の目玉が、一斉に私を見下ろした。
『予約だと? 愚かな人間よ、我は死と絶望を運ぶ者だ。今すぐ生贄を出せ……さもなくば、このホテルごと冥界の底へ引きずり込んでやる……!』
「ご予約なしの当日チェックインでございますね。かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
私は怨霊の脅迫を完全にスルーし、手元のタブレットで空室状況を素早く確認した。
「あいにく本日はスタンダードルームが満室でして、最上階のスイートルームのみのご案内となります。また、お客様からご要望のございました『生贄』についてでございますが……」
私は申し訳なさそうに眉を下げ、深く頭を下げた。
「誠に申し訳ございません。本日は連休ということもあり、生贄は先ほどすべて品切れとなってしまいました。昨今の流通網の乱れもあり、入荷の目処が立っておらず……当ホテルの力不足でご不便をおかけし、深くお詫び申し上げます」
『……え? あ、いや、品切れ……?』
怨霊の瘴気が、戸惑いによってわずかに揺らいだ。
「はい。生贄の代わりと言っては誠に恐縮なのですが、当ホテルのラウンジにて提供しております『アールグレイティーラテ・血の滴り風シロップ追加』はいかがでしょうか? こちら、人間への恨みや絶望を抱えたお客様から大変ご好評をいただいている期間限定メニューでございます」
『アールグレイ……ティー、ラテ?』
「左様でございます。ベルガモットの華やかな香りが、血のシロップの鉄分と絶妙にマッチし、荒ぶる呪いを優しく鎮めてくれます。お部屋の準備が整うまで、そちらでおくつろぎいただくというのはいかがでしょうか」
あまりにも事務的で、一切の隙がないおもてなし。
世界を滅ぼす気満々でやってきたはずの巨大怨霊は、すっかり毒気を抜かれたように、もじもじと蠢く腕を引っ込めた。
『……それ、アイスでもできる?』
「もちろんでございます。氷の量や、ミルクの変更など、細かなカスタマイズも承ります」
『じゃ、じゃあ……アイスのアールグレイティーラテ。氷少なめで……』
「かしこまりました。アイスのアールグレイティーラテ、血のシロップ追加、ライトアイスでございますね。ただいまラウンジのスタッフにお持ちさせます。あちらのソファにお掛けになってお待ちくださいませ」
私はにっこりと微笑み、ふかふかの高級ソファを手で示した。
巨大な怨霊は「あ、どうも……」と小さく会釈をすると、床を割るのもやめ、行儀よくソファの端っこにちょこんと座った。
「佐藤、ラウンジにオーダーをお願い。あと、入り口の床がひび割れてしまっているから、清掃スタッフに連絡しておきなさい」
「……マネージャー、アンタの神経どうなってんの……?」
腰を抜かしたまま震える佐藤に的確な指示を出しながら、私はフロントデスクへと戻った。
特級呪霊だろうが、悪魔だろうが、当ホテルにとっては等しく「大切なお客様」である。
私は完璧な笑顔のまま、怨霊の宿泊カードを作成するためのタイピング作業に戻った。




