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第一章 ポルターガイスト現象は他のお客様のご迷惑となります

都心の一等地、新宿の喧騒から少し離れた場所にひっそりと佇む老舗高級ホテル「ホテル・煉獄れんごく」。

シャンデリアが輝き、大理石の床が磨き上げられたこの美しい空間で、フロントマネージャーを務める私には、決して譲れない一つの信念がある。


それは、「いかなる状況下においても、お客様には完璧なホスピタリティを提供する」ということだ。


「ま、マネージャー! 大変です、四階の廊下が……っ!」


深夜二時。バックヤードで本日の売上計算をしていた私の元に、新人のベルボーイである佐藤が血相を変えて飛び込んできた。

彼の制服には、なぜかべっとりと赤黒い液体が付着している。


「落ち着きなさい、佐藤。第一ボタンが外れているし、ネクタイが曲がっているよ。高級ホテルのスタッフとしての品格を保ちなさい」

「そ、そんなこと言ってる場合じゃありません! 四〇四号室の壁から大量の血が噴き出して、空中に生首が飛んでるんです!!」


佐藤の悲鳴を聞き、私は小さくため息をついた。

またか。四〇四号室の「彼」は、どうにも自己主張が強くて困る。


「……フロント業務を代わりなさい。私が対応してくる」

「マネージャー、死にますよ!? お祓いを! 早く業者を呼んで除霊を……!」

「佐藤。当ホテルにおいて、お客様を除霊するなどという失礼極まりない真似が許されると思っているのかい?」


私は佐藤を冷たく一瞥すると、身だしなみを完璧に整え、静かに四階へと向かった。


エレベーターを降りると、そこはすでに異界と化していた。

高級感あふれる絨毯は赤黒い血の海に沈み、壁には無数の恨み言が血文字で浮かび上がっている。廊下の天井付近には、青白い光を放つ落ち武者のような生首がフワフワと浮遊し、「呪ってやるぅ……」「血を寄越せぇ……」と怨嗟の声を撒き散らしていた。


室温は氷点下近くまで下がり、常人であれば恐怖で発狂していただろう。

しかし、私は一切の表情を変えることなく、完璧な姿勢のまま生首の正面へと歩み寄った。

そして、両手を前で静かに重ね、息を呑むほど美しい四十五度の角度でお辞儀をした。


「深夜分に大変申し訳ございません。当ホテルのフロントマネージャーでございます。お客様、少々お時間よろしいでしょうか」


よく通る、落ち着いたバリトンボイス。

あまりにも場違いな丁寧すぎる接客態度に、空を飛んでいた生首が「……えっ?」という顔をしてピタリと止まった。


「大変申し上げにくいのですが、ただいま深夜の二時を回っております。廊下での大声での呪詛、ならびに壁からの過度な流血は、他のお客様の安眠を妨げる迷惑行為に該当いたします。宿泊約款に基づき、ただちに中止していただけますでしょうか」

「……は? いや、俺は怨霊で……お前たちを呪い殺すために……」

「左様でございますか。お客様の貴重なご意見として承ります。しかしながら、共有スペースでのポルターガイスト現象はご遠慮いただいております」


私は営業スマイルを一切崩さず、言葉を続けた。


「もし、どうしても一晩中流血を楽しみ、大声で呪いを叫ばれたいということでございましたら、当ホテルの最上階にございます『完全防音・防水仕様のVIPルーム』へのご案内が可能でございます。ただいまの時刻ですと、追加料金一泊一万五千円にてアップグレードを承りますが、いかがなさいますか?」


「えっ……あ、いや……金取るの?」

生首は戸惑ったように空中で瞬きをした。怨霊に金銭感覚があるのかは知らないが、明らかにこちらのペースに巻き込まれている。


「もちろんでございます。VIPルームにおきましては、どれだけ壁を血で汚していただいても結構ですし、お持ち込みの呪いも自由にご使用いただけます。今なら特別に、朝食のルームサービスも無料でお付けいたしますが」

「あ、朝食つくんだ……」

「はい。人気のフレンチトーストか、和食セットからお選びいただけます」


生首は数秒間、虚空を見つめて悩む素振りを見せた後、気まずそうに視線を逸らした。


「……じゃあ、和食で。VIPルーム、お願いします……」

「かしこまりました。アップグレードのご用命、誠にありがとうございます。それでは、お荷物(胴体)は後ほどスタッフにお運びさせますので、お客様(頭部)はこちらのトレイへどうぞ」


私は持参していた銀色のシルバートレイを差し出した。

生首は「あ、すいません……」と小さく呟きながら、大人しくトレイの上に着陸した。


「壁からの流血は、清掃スタッフがただちに拭き取りますのでご安心くださいませ。それでは、VIPルームへご案内いたします」


私は生首を乗せたトレイを優雅に片手で持ち上げ、再びエレベーターへと歩き出した。

どんな恐ろしい呪いも、血の海も、ポルターガイストも関係ない。

日本の、そしてホテル・煉獄の「完璧な接客マナー」の前には、すべての理不尽はただの事務作業に過ぎないのだ。


今日もまた一つ、滞りなくクレーム対応を完了させた私は、お客様(生首)に心地よい夜を過ごしていただくため、静かに最上階のボタンを押した。


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