第四章 お客様アンケートと完璧な退勤
翌日の午後二時。
レイトチェックアウトの特典をフル活用した特級呪霊が、満足げな様子で一階のフロントへと降りてきた。
昨夜、世界を滅ぼすほどの瘴気を放っていたあの恐ろしい姿はどこへやら。
現在の怨霊は、チェックイン時の半分ほどのサイズに縮み、その無数の目玉はすっかり穏やかな三日月型に細められている。なんなら、ホテルのロゴが入ったお土産用紙袋(ホテル特製バウムクーヘン入り)までしっかりと腕に提げていた。
『……世話になったな。チェックアウトを頼む』
「おはようございます。昨晩はゆっくりお休みいただけましたでしょうか」
私が完璧な笑顔で尋ねると、怨霊は照れくさそうに視線を逸らした。
『あ、ああ。防音もしっかりしていて、ベッドの硬さも絶妙だった。おかげで数百年ぶりに呪いを忘れて熟睡できたぞ。……あと、朝食のルームサービスで頼んだスクランブルエッグも、なかなか美味かった』
「お褒めのお言葉、誠にありがとうございます。スタッフ一同の励みになります」
怨霊はフロントデスクの上に、ルームキーと共に一枚の紙をそっと置いた。
それは、客室のデスクに備え付けられている「お客様アンケート」の用紙だった。
『……一応、書いておいた。お前たちのサービス向上に役立てるがいい』
「ご協力いただき、心より感謝申し上げます」
私が用紙を受け取ると、怨霊は少しだけもじもじと蠢いた後、思い切ったように言った。
『その……次回来る時は、夜景の綺麗な角部屋にしてくれないか? プラチナ会員なら、部屋の希望も通るのだろう?』
「もちろんでございます。次回は最上階、スカイツリーが一望できる素晴らしい角部屋をご用意してお待ちしております」
『ふん。……まぁ、少しだけ楽しみにしておいてやる』
怨霊はプラチナカードを大切そうに撫でると、自動ドアに向かって歩き出した。
そして、そのまま外へ出るのかと思いきや、エントランスの真ん中でふわりと光に包まれ、「じゃあな、また来る」と言い残して、満足げに天へと昇っていった。
どうやら、極上のホスピタリティによって未練や恨みが浄化され、成仏してしまったらしい。
(※プラチナ会員の特典は、来世でも引き継げるようシステム担当に確認しておかなければならない)
「……い、行っちゃいましたね……」
フロントの下から顔を出した新人の佐藤が、昇天していく光の粒子をぽかんと見上げていた。
私は手元のお客様アンケートに視線を落とした。
【お客様アンケート】
■ 当ホテルのサービスはいかがでしたか?
☑ 大変満足 □ 満足 □ 普通 □ 不満 □ 大変不満
■ ご意見・ご感想をご自由にお書きください。
『スタッフの対応が神だった(私は悪霊だが)。温かいおしぼりの温度も、謝罪の土下座の角度も完璧だ。ラウンジの血入りティーラテも最高。星五つ。次は角部屋を頼む。』
びっしりと達筆な筆ペンで書かれたアンケート用紙。
私はそれを無表情で確認し、「本日もクレーム対応、一件完了」と小さく呟いてファイリングした。
「マネージャー……アンタ、本当に人間ですか? あんな特級クラスのバケモノを、接客マナーだけで成仏させるなんて……」
「佐藤、お客様をバケモノ呼ばわりするのはやめなさい。彼らはただ、少し自己表現が激しいだけの大切なお客様だ」
「自己表現のスケールが世界滅亡レベルだったじゃないですか……!」
ツッコミを入れる佐藤をよそに、私はフロントの壁に掛けられたアンティークの時計を見上げた。
時刻は午後三時。私のシフトの終了時間だ。
「さて、時間だね。私はこれで退勤するよ」
「えっ、もう帰るんですか!? また別の怨霊が来たらどうするんですか!」
「フロントマニュアルの第三章『ポルターガイストへの対応』と、第五章『呪詛の受け流し方』をよく読んでおくこと。それでも対応できない場合は、防音ルームへご案内しなさい」
私は佐藤の肩をポンと叩くと、乱れ一つないスーツの襟を正し、バックヤードへと向かった。
いかなる怪異が這い出ようと、壁から血が噴き出そうと、ここが「ホテル・煉獄」である限り、私たちのやるべきことは一つしかない。
四十五度の美しいお辞儀と、完璧な笑顔。
それさえあれば、この世のすべての恐怖は、ただの「事務作業」に過ぎないのだから。
「お疲れ様でした」
私はタイムカードを定刻通りにガチャンと切り、今日も颯爽とホテルを後にした。
明日は有給を取って、話題のカフェへ新作のスイーツを食べに行く予定である。




