青空の片隅
あの時見たものは何だったのか。
それが何かもわからないうちに、
私はまた会ってしまった。
ウホッ!ウホッ!
…鳴ってる。
ウホッウホホッ!
……鳴ってる。
音に誘われて意識がつながり、
私はゆっくりと目を開けた。
私の部屋。
窓からは朝の陽気が差し込んでカーテンを照らしている。
ガラスの向こうに広がるのは、暑そうな夏の青空。
私は今日もいつも通りの朝を迎えた。
ウホッウホッ!
枕元に置いたスマホ。
画面の中で、ゴリラが胸を叩きながら朝7時を告げている。
(…元気だね、あんたは)
ウホッウ… ピコンッ!
アラームを止める。
私は昨日の事を思い出す。
あの影を見た後、私は逃げるように家に帰った。
親には何も話さなかった。
そもそも、あれをどう説明していいかもわからなかった。
夜は怖くて眠るのも不安だったけど、一度眠ってしまえば
夜中に起きることもなく、ぐっすりと眠れた。
布団から出て、身だしなみを整える。
寝間着を脱いでベッドに放り投げると制服に着替え、
洗面所で髪を整える。
リビングに行くと、窓から漏れてくる日の光が室内を
ぼんやりと浮かび上がらせていた。
両親は朝早く仕事に出るので、
この時間家にはいつも私だけだ。
照明を点け、テレビの電源を入れる。
画面が映ると同時に、気象予報士が今日の天気について
喋っているのが聞こえてくる。
今日も全国的に晴れ。
熱中症に注意。
夕方は急な雨にも注意。
いつも通りの内容を聞きながら、
冷蔵庫からコンビニで買っておいたコロッケサンドと
ミルクティーを出し、椅子に座る。
(今日も暑いのか…
うっわ、昨日より気温高いし…)
テレビの画面を眺めながら、
もぐもぐと口を動かし朝食を済ませる。
私の、いつも通りのルーチン。
やがて天気予報が終わると、次の情報番組が始まった。
ちょうど朝食を食べ終えた私は、
後片付けをしてテレビを消した。
自宅を出て、ドアの鍵を閉める。
自転車にまたがり鞄をカゴに入れると、
学校に向かってペダルをこぎ始めた。
いつもの街並み。いつもの通学路。いつもの川。
遠くに小さく見える橋を眺めながら、
またあの影を思い出す。
黒い影の不気味な目、笑い声。
思い出すだけで鳥肌が立ち、気持ち悪くなる。
あれは、おばけだったんだろうか。
このいつもの景色のどこかに、
ああいう得体のしれないものがいるのだろうか。
通学路の風景を見回してみる。
行き来している人達も、
開店準備を始めているお店も、
道路を走る車も、
いつも通り。
それでも、もしその中にあの影が紛れていたらと思うと、
妙に不安になってしまう。
やがて私は学校に着いた。
特に何事もなく。何かを見てしまうこともなく。
(あっつ…)
不快なのはこの暑さだけ。
まだ朝だというのに私の背中はもう汗ばんでいた。
教室に入ると、友人の優花がこちらを振り向く。
「あ、美風ー、おはよ」
少し明るめの茶色いショートヘアを揺らして、
こちらに手を振る。
「おはよー」
「美風、今日遅かったね。いつも私より早いのに」
「あーそうかな。暑かったからかも」
私は窓際にある自分の机に荷物を置くと、優花の席の近くに行き、横の壁に寄りかかった。
「美風みたいな自転車組はつらい時期だねー。
私、駅出てから学校入るまで数分歩くだけで
もうムリだもん」
ブラウスをパタパタとあおぐ優花。
優花は電車通学で、毎日駅を使っている。
天気も気温も関係なく、冷房の効いた電車で
通学できるのは私から見ればとても羨ましい。
そういえば…
優花は以前はこの近くに住んでいたと聞いたことがある。
住んでたマンションが古くなって建て替える事になり、
それを機に隣町に引っ越したらしい。
たしか、引っ越す前はあの橋の方に住んでいたと
話していた気がする。
昨日の影の事、何か知らないだろうか。
「ねえ、ちょっと聞いていい?
橋の事なんだけどさ」
「うん?橋?」
「そう、橋。あの高速の方にある大きい橋。
優花って前あの辺住んでたんだよね」
「そうだよ。まあ、小学校の頃だけど」
「あの橋って通った事ある?」
「んー…いや、あんま無いかな。
一人で橋行くなって言われてたしさ。あそこ車多いし。」
「そっか」
「うん。なんで?」
「あー、えっとね…」
あの出来事をどう説明していいのかわからなかったが、
ダメ元で聞いてみる事にした。
昨日、本屋に行くために遠回りしてあの橋を渡った事、
その帰りに誰とも会わない不思議な時間があった事、
そしてあの影の事。
「…で、結局それが何だったのかわからなくてさ。
未だに思い出すだけで怖いんだけど、気になって」
私は一通り話すと、優花の顔を見た。
…優花はなんとも言えない、嫌そうな顔をしている。
「なにそれ、ホラー?
私が怖い話嫌いなの知っての狼藉?」
私のほっぺたをつまんでくる。
「いたい…」
「美風さ、それ本気で言ってるならきっと暑さに
やられたんだよ。ちゃんと飲み物飲んでた?
だめだよこの暑さの中で無理したら」
まあ、そういう反応になる事はわかっていた。
「でも確かに見たんだよね…」
「あのねぇ、あの通り夕方はいつもめちゃくちゃ
混んでるでしょ。
誰もいなくて車もないなんてタイミング無いよ。
その影が見えたのだってきっと、熱中症になりかけて
視界やられてたんじゃないの?
誰か普通に人が通ったのがぼやけて見えただけだよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。絶対」
「でもなぁ」
「絶対絶対、気のせいだって」
優花は強引に話を終わらせようとしている。
あ、これは。
「…優花、もしかして怖がってる?」
「気のせいって事にしなさい」
優花は私の顔を両手で挟み込んでぐりぐりとつぶす。
両頬を押さえられタコみたいな顔になりながら、考える。
(優花はほんとに何も知らなそうだな…)
ちょうどその時、予鈴が鳴った。
「ほら、席戻んなよ。終わり終わり」
優花に促され、私は自席に戻った。
一限目の歴史の授業を受けながら、窓の外を見つめる。
空は青空。平和な風景。
誰もいない広い校庭の地面が日差しを反射して眩しい。
興味のない授業を二割ほどの意識で聞き流しながら、
またぼんやりと昨日のことを考えていた。
(なんだったんだろう、ほんとに)
煙のような。
影のような。
急に開いた大きな目とあの強烈な寒気。
きっと誰に相談しても、優花と同じ反応をするだろう。
私だって他の子がそんな話をしていたら
さすがに信じられないかもしれない。
気になる。けど今となってはどうしようもない。
仕方ないか。
小さく伸びをして、気持ちを切り替えることにした。
夏の日差しに照らされたグラウンドのまぶしさ。
そこから視線を黒板に戻そうと、目線を動かす。
その時。
校庭の端にある体育倉庫が視界に入る。
そしてその脇の日影に、それはいた。
黒い煙のようにうごめく、人の形の影。
目をしっかりと開いている。
不気味な視線。
じっと私を見ていた。
目をそらすこともできず、固まったままになる。
わずか数秒ほどの長い長い金縛り。
私の思考は恐怖一色に染まり、全身から冷や汗が吹き出す。
私の恐怖に気づいたのか、
それはその不気味な目を細めて笑った。
見ているだけでおかしくなりそうな、
本当に不気味な笑み。
そこに感情は感じられない。
一つわかった。
あれは私に対して笑いかけている訳ではない。
私という獲物を前に、ただただ愉快で漏れ出ている笑いだ。
背筋が凍る。
その長い一瞬の後、
影はまたあっという間に消えてしまった。
…
他の誰もあれに気がついていない。
教室の中では今も淡々と歴史の授業が続いている。
私は理解した。
このままではよくない。
絶対にこのままではいけないと。




