第5章:夜明けの脱出(前編)
バチィィィン!!!
コントロールパネルのメインポートに突き刺したUSBキーが、激しい青白い火花を散らした。
画面の向こうで老人が何かを叫んでいたが、その醜い顔は一瞬にして幾何学的なノイズへと分解され、壁一面を埋め尽くしていた数十台のモニターが、次々と破裂音を立ててブラックアウトしていく。
『警告、システム障害。管理権限が強制上書き(オーバーライド)されました。すべての電磁ロックを緊急開放します――』
人工的な女性のシステム音声が、途切れ途切れに室内に響き渡る。
それと同時に、城の深淵から「ガチョン!」という、何百もの重い錠前が一斉に外れるような巨大な金属音が轟いた。回廊の壁を動かしていた油圧モーターが、断末魔のような煙を上げて完全に停止する。
「やった……ぞ……」
俺は血の海のなかに突っ伏したまま、小さく拳を握りしめた。
これで、この城を支配していた狂ったルールは消滅した。早希を次の地獄へ引きずり込もうとしていた運営のシステムも、世界中の富豪たちを熱狂させていた悪趣味な配信も、すべて俺がこの手で叩き潰してやったのだ。
視界が急速に狭まっていく。
体温はもうほとんど残っていない。指先ひとつ動かすこともできず、ただ自分の胸の鼓動が、一拍ごとに遅くなっていくのを感じていた。
(これでいい……。借金まみれの俺の命でも、最後に、誰か一人の未来くらいは、こじ開けられただろ……)
ゆっくりと目を閉じる。
暗闇の向こうから、あの懐かしいアパートの薄暗い蛍光灯の光と、自転車を全力で漕いだときの夏の夜風の匂いが、ふわりと通り過ぎていくような気がした。
――ドォン!!!
その時、頭上のハッチが、もの凄まじい音を立てて外側から蹴り開けられた。
「朝陽!!! 一ノ瀬朝陽!!!」
鼓膜を突き破るような、必死な叫び声。
重い足音が梯子を滑り落ちるようにして近づいてきて、俺の血塗れの身体を乱暴に抱き起こした。
眩しい。
消えたはずの視界を薄く開けると、そこには、涙と煤で顔をぐしゃぐしゃに濡らした早希がいた。彼女の手には、俺の脇腹から引き抜いたのであろう短剣が握られており、その先端は彼女自身の血で赤く染まっていた。
「バカ! 死にかけで何やってるのよ! 閉まったハッチの向こうでシステムが切れる音が聞こえて……、まさかあんたが……!」
早希は俺の胸ぐらを掴み、激しく揺さぶった。彼女の目からは、大粒の涙がボロボロと俺の頬へと落ちてくる。
「……早、希……。なんで、戻って、きたんだよ……。檻が、開いた、だろ……」
「開いたわよ! あんたがシステムを壊したせいで、目の前の鉄格子も、城の正面玄関も、全部勝手に開いたわ! ……でもね、そんなのどうでもいい!」
早希は俺の傷口を、自分の服の裾を破った布で、これ以上ないほど強く圧迫した。激痛が走り、俺の意識がほんの少しだけ引き戻される。
「私、あんたを刺したのよ!? 妹のために、あんたを裏切って、見殺しにしようとしたのよ! なのに、なんで……なんで私を助けるような真似をするのよ!」
早希が叫ぶ。その声には、届かなかった現実への絶望ではなく、己の犯した罪に対する激しい拒絶と悔恨が満ちていた。
「約束……した、だろ……」
俺は、血の泡を吐きながら、微かに口元を歪めた。
「俺たちは……あの化け物や、運営とは違う……人間だ、って……。お前を、あいつらと同じ、人殺しに……したくなかった、だけだ……」
早希は息を呑み、それから、子供のように声を上げて泣いた。
冷徹で、常に状況を分析していたあの雨宮早希は、もうどこにもいなかった。ここにいるのは、ただ、自分の過ちに引き裂かれそうな、等身大の高校生の少女だった。
「死なせない……。絶対に死なせないから! 1,000万円なんていらない、妹の治療費なんて、また別の方法で死ぬ気で稼ぐわ! だから……あんたはここで死んじゃダメ!」
早希は俺の大きな身体を、その小さな背中に無理やり背負い込もうとした。
「くっ……、重い……! でも、絶対に置いていかない!」
彼女は歯を食いしばり、細い腕で俺の身体を固定すると、一歩一歩、地下動力室の階段を上り始めた。脇腹の傷口から伝わる痛みが、俺に「まだ生きている」という過酷な現実を突きつけてくる。
背後では、完全に破壊されたコントロールパネルから、パチパチと不穏な火花が上がり始めていた。過電流による負荷は、すでに城の基幹システムを焼き尽くし、小規模な爆発が連鎖的に起こりつつある。この城そのものが、崩壊を始めていた。
「朝陽、起きてて! 目を閉じたら承知しないから!」
早希の必死の声に導かれるようにして、俺たちは激しく煙を吹き上げる【疑惑の間】、そして水が引き始めた【水葬の間】の残骸を駆け抜けた。壁の肖像画はすべて焼け落ち、ただの煤けた石の通路へと戻っていた。
そして、ついに。
俺たちは、この悪夢の舞台であった古城の「正面玄関」へと辿り着いた。
巨大な鉄の門扉は、俺がシステムを書き換えたことで、外側へと完全に開放されていた。
門を飛び出した瞬間、ひんやりとした本物の朝の空気が、俺たちの肌を包み込んだ。




