第5章:夜明けの脱出(後編)
「はぁっ、はぁっ……、あともう少しよ……!」
早希の荒い息遣いと、草を踏みしめる濡れたスニーカーの音が、朝靄の満ちる森に響いていた。
城の正面玄関を飛び出した俺たちを待っていたのは、燃えるような朝焼けだった。切り立った崖の上にそびえ立つ古城の背後では、完全に制御を失った地下の動力源が連鎖爆発を起こし、黒い煙が天を突くように立ち上っている。地響きが足元から伝わってくるが、早希は一度も振り返ることなく、俺を背負ったまま泥だらけの斜面を滑り降りていった。
俺の意識は、すでに限界を迎えていた。
脇腹の傷口は早希が縛ってくれた布で辛うじて止血されているものの、失った血液の量は多すぎた。視界の端からじわじわと冷たい闇が侵食し、耳の奥ではキーンという高い耳鳴りが鳴りやまない。早希の体温だけが、俺をこの世界に繋ぎ止める唯一の錨だった。
斜面を下りきったところで、深い霧の向こうに、場違いなコンクリートの構造物が見えた。
――滑走路だ。
そこには、俺が乗ってきたのと同じ、漆黒のプライベートジェットがポツンと佇んでいた。システムの強制シャットダウンによって自動操縦のロックも解除されたのか、機体のハッチは開いたまま、タラップが地面へと下ろされている。
「朝陽、飛行機よ! あの中にきっと救急箱があるわ。操縦席の通信機が生きていれば、救助だって呼べる!」
早希は最後の力を振り絞り、タラップを駆け上がった。
豪華な機内へと滑り込み、俺をふかふかの座席へと横たえさせる。その瞬間、早希の膝ががくがくと震え、彼女はその場に激しく崩れ落ちた。高校生の少女が、自分とほぼ同じ体格の男を背負ってあの地獄の城を降りてきたのだ。限界など、とうに超えていたはずだった。
「待ってて、今、止血できるものを……」
早希は這うようにして機内のキャビネットを開け、ファーストエイドキットを引きずり出した。震える手で強力な止血パッドと包帯を取り出し、俺のシャツを切り裂いて傷口に押し当てる。
「う、あ……っ!」
激痛で身体が跳ね上がる。
「我慢して! 死なせないって言ったでしょ! あんたに生きててもらわなきゃ……私は、一生自分を許せないんだから!」
早希の目から溢れた涙が、俺の胸元に落ちて血の汚れを滲ませていく。
その必死な姿を見つめながら、俺は掠れた声をどうにか絞り出した。
「早希……、お前の、妹の、治療費……」
「そんなの、どうでもいいって言ったじゃない!」
「よくない……。俺が、システムを壊す前に……画面を見た。あのバッグの、中に……」
俺は自分のポケットを指差した。
早希が怪訝な顔をしながら俺のポケットに手を突っ込むと、そこから出てきたのは――真由のリュックから俺が咄嗟に抜き取っていた、あの1,000万円の無記名小切手だった。
血で汚れてはいるが、印字された数字ははっきりと読める。
「これ……、でも、システムが壊れたなら、運営のサインは……」
「運営のサインなんて……最初から、いらないんだ」
俺は弱々しく微笑んだ。
「あのコントロールルームの画面に……暗証コードが出てた。タトゥーの男が盗み出したデータの中に……その小切手を、オンラインで即座に有効化するための『マスターパスワード』が含まれてたんだ。俺がシステムを書き換えたとき……そのデータを、お前の小切手の識別番号に、強制的に紐付け(リンク)しておいた……」
早希は息を呑み、血に濡れた小切手を見つめた。
彼女の手の中で、小切手の右下にある電子透かしのインジケーターが、静かに、しかし確かに「緑色」に点灯した。
運営のサインなどという欺瞞の儀式を経ずとも、それは今や、世界中のどこの銀行でも即座に現金化できる「本物の1,000万円」へと変わっていた。
「これで……妹さんの手術、受けさせられるだろ……」
「朝陽……あんた、そこまで考えて……」
早希は小切手を握りしめたまま、声を詰まらせた。
「俺の借金は……5百万円だ。だから、半分……分けてくれよ。それで、お互い、チャラだ……」
俺がそう言うと、早希は泣きながら、だけどこのゲームが始まって以来、一番綺麗な笑顔を見せて、俺の血塗れの手をギュッと握り返した。
「バカね……。半分じゃ足りないわよ。あんたの借金も、私の妹の手術費も、全部合わせて、これから二人で必死に働いて返していくの。だから、絶対に死ぬなんて許さないんだから」
その言葉を聞いた瞬間、俺の張り詰めていた心の糸が、ぷつりと切れた。
凄まじい睡魔が押し寄せてくる。だけど、あの飛行機の中で白い煙を吸ったときの恐怖の眠りとは、全く違っていた。隣には、信頼できる本物の『人間』がいる。その温もりを感じながら、俺は深い意識の底へと沈んでいった。
遠くから、バタバタバタというヘリコプターのローター音が聞こえていた。
次に俺が目を覚ました時、視界に飛び込んできたのは、不気味な石壁でも、明滅する蛍光灯でもなかった。
真っ白な、清潔な天井。そして、鼻を突く消毒液の匂い。
「……ここは?」
「気が付いた?」
すぐ横から聞き覚えのある声がして、首を傾ける。
そこには、病院の簡易椅子に座り、少し眠そうな目をこすっている早希の姿があった。トレードマークだった黒髪は綺麗に整えられ、あの血塗れの服ではなく、普通のブラウスとジーンズを着ている。
「早希……。俺、生きてるのか?」
「ええ。日本の病院よ。あの後、プライベートジェットの緊急通信システムで救助信号を送ったら、海上保安庁のヘリが実戦さながらのスピードで飛んできてくれたわ。あんた、あと30分処置が遅れてたら三途の川を渡ってたって、お医者さんに怒られたんだから」
早希は呆れたように息を吐いたが、その表情には深い安堵が広がっていた。
「あの城は……どうなったんだ?」
「跡形もなく爆発炎上して、海に沈んだわ。警察や政府が動いているみたいだけど、あの運営のバックにいる『世界中の富豪』たちの圧力がかかっているのか、ニュースでは『無人島の大規模なガス爆発』って処理されてる。……でも、私たちの手元には、これが残った」
早希がポン、と机の上に置いたのは、あの小切手から正式に口座へ移し替えられた、1,000万円の残高が記された預金通帳だった。
「これですべて元通り……とはいかないけれど。私の妹の手術日は来週に決まったわ。初期費用はこれで全額払えた。それから――」
早希は通帳を俺の胸元に滑り込ませた。
「あんたの家の借金、5百万円分。もう私の口座から全額一括で振り込んでおいたから。これで、あんたの親が残したクソみたいな置き土産は消滅よ」
「え……? いいのかよ、そんなこと勝手に」
「いいのよ。言ったでしょ? これから二人で、死ぬ気で働いて返していくんだって。一ノ瀬朝陽くん。あんたには、私の『一生分の恩返し』に付き合う義務があるんだから」
早希はいたずらっぽく笑うと、窓のカーテンを大きく開けた。
窓の外には、眩しいほどの夏の青空が広がっていた。自転車を全力で漕いで、汗をかきながら走り抜けた、あの普通の、だけど何よりも愛おしい日常の光景が、そこには確かに存在していた。
俺たちの命を弄んだあの悪夢の城は、もうどこにもない。
手元に残ったのは、血の滲むような傷跡と、決して壊れることのない、二人だけの「本物の絆」だった。
「……よし。まずは退院したら、美味いもんでも奢ってくれよ、相棒」
「いいわよ。ただし、マックのポテトLサイズね」
俺たちは顔を見合わせ、声を上げて笑った。
夜明けの向こう側で、俺たちの本当の人生が、今度こそ静かに幕を開けた。




