第4章:1000万円の正体(後編)
「がはっ……、は、あ、っ……」
喉の奥から、熱い鉄の味がせり上がってくる。
俺は冷たいコンクリートの床に横たわったまま、激しく血を吐き出した。脇腹に突き刺さった短剣の根元から、止めどなく溢れ出る生暖かい液体が、床に巨大な赤黒い水溜りを作っていく。
痛い。熱い。身体の芯から、急速に体温が失われていくのが分かる。
上を見上げると、頑丈な鉄のハッチは完全に閉じられていた。
早希に裏切られた。あの、互いの手を握り合い、「私たちは人間だもの」と微笑んだ少女に、最後の最後で後ろから刺されたのだ。
憎しみか? 怒りか?
いや、不思議と俺の心を満たしていたのは、凍りつくような冷めた絶望だった。
責める気にはなれなかった。彼女には、来月死ぬかもしれない妹がいる。俺には、夜逃げした親の残した借金がある。天秤にかけた時、どちらの命が重いかなど、あの極限状態の狂気の中では、端から答えは決まっていたのだ。
「……あ、はは……」
乾いた笑いが、血の泡と一緒に漏れる。
俺は霞む視界を必死に動かし、周囲を見回した。
ここは、この城の最下層。無数の電子基板と、淡い光を放つ何十台もの液晶モニターが壁一面を埋め尽くしている「コントロールルーム」だった。
その時、正面の最も巨大なモニターに、あの老人の顔が映し出された。
白い髭を綺麗に整え、いつも通りの冷徹な笑みを浮かべた老人の姿が、高画質な映像で俺を見下ろしている。
『いやはや、実に見事な幕切れでございました、一ノ瀬朝陽様』
スピーカーから、老人の拍手の音が響く。
『信頼、共闘、そして最後の裏切り……。これほど美しい人間の業を見せしていただけるとは、我が主たちも大変満足されております。あなた方の配信枠は、今や世界中の富豪たちからのチップで溢れかえっておりますよ』
「配信……だと……?」
俺は掠れた声で呟いた。
『ええ。最初から申し上げているでしょう。『ゲーム』だと。これは、退屈を持て余した世界中の資産家たちが、巨額の金を賭けて楽しむリアル・デスゲーム・チャンネルなのです。あなた方の絶望、猜疑心、そして血の涙が、彼らにとっての極上のエンターテインメントなのです』
老人は画面の向こうで、楽しげに手元のワイングラスを傾けた。
『さて、ここであなたに、死にゆく者への慈悲として、このゲームの「本当のルール」をお教えいたしましょう。……雨宮早希様が手にする、あの1,000万円の小切手の真実を』
老人が指をパチンと鳴らすと、モニターの画面が切り替わった。
そこに映し出されたのは、今まさにハッチを開けて動力室の奥へと進む、早希のリアルタイムの映像だった。
彼女は涙を流しながら、血のついた小切手を強く握りしめ、出口へと続く「緑色のランプの点灯した扉」に向かって走っている。
『彼女は、1,000万円で妹の命が救えると信じている。……しかし、それは大きな誤解です。あの小切手に書かれた1,000万円という数字は、ただの「額面」に過ぎません』
老人の声が、地獄の底から響くような冷酷さを帯びた。
『この城を脱出できるのは、確かに最初の一名のみ。そして――』
画面の中の早希が、ついに脱出口の扉を開けた。
扉の向こうに広がっていたのは、夜明けの美しい海……ではなく、無数の「電子キーの並んだ、もう一つの巨大な檻」だった。
檻の天井には、液晶のデジタルタイマーが設置されており、そこには【残り必要金額:10,000,000円】と赤く表示されていた。
早希が呆然と立ち尽くし、小切手を落とす映像が映し出される。
『このゲームの本当のクリア条件は、金額のカンスト。つまり、「参加者全員が死亡し、その命の総額が解錠する額に達した時」にのみ、最後の檻が開くシステムなのです。現在、死んだ参加者は5名。あなたを含めて6名。合計1,000万円×6で、現在のプール金は6,000万円。……しかし、まだあなたは生きている。だから、この城から出るには残り1,000万を自分の小切手で支払うしかない。彼女にはそう見えているはずですな』
老人はククク、と肩を揺らして笑った。
『つまり、現時点で生き残っている雨宮早希様の手元に残る純利益は0円。……これでは、彼女の妹さんの手術費用には到底届きませんな』
「そんな……、まさか……!」
俺は血の混じった唾液を吐き出しながら、モニターの早希を見た。
画面の中の彼女は、自分が犯した罪の重さと、それでも届かない現実の前に、完全に心を折られ、檻の前に崩れ落ちて激しく号泣していた。
誰も、最初から救われるはずなんてなかったのだ。
あの手紙を受け取った瞬間から、俺たちは全員、蟻地獄の中に落とされた羽虫に過ぎなかった。
『さあ、一ノ瀬朝陽様。あなたの命の灯火も、あと数十秒で消え去ります。あなたの死によって、プール金は1,000万円加算される。さすれば彼女は1千万を手にすることが出来る。……最後に、彼女への呪いの言葉でも残されますかな?』
老人が冷たく問いかける。
俺は、薄れゆく意識の中で、必死に手を伸ばした。
コントロールパネルの床に転がっていた、真由のリュック――。その中に、タトゥーの男が「俺の1,000万円が入っている」と言っていた、あの防水仕様のバッグが半分飛び出しているのが見えた。
俺は残されたすべての力を振り絞り、そのバッグを引き寄せ、ジッパーを開けた。
中に入っていたのは、札束ではなかった。
いくつかの電子部品。そして――この城のすべてのシステムを物理的にシャットダウンするための、「マスター・オーバーライド・キー(緊急停止用USB)」だった。
あのタトゥーの男は、運営のサクラとして動かされているうちに、この城の管理区域からこのキーを盗み出し、いざという時に運営を脅迫して本物の1,000万円を巻き上げようとしていたのだ。だからこそ、真由にバッグを盗まれた時、あれほど狂ったように激昂していたのだ。
「……お、い……、クソ、ジジイ……」
俺は、キーをコントロールパネルのメインポートへと、震える手で突き刺した。
『なっ……!? バカな、それをどこで――!』
モニターの中の老人の顔が、初めて驚愕と恐怖に歪んだ。
「早希は……、あいつは、絶対に……次のゲームには、行かせない……!」
俺は最後の力を振り絞り、キーの横にある赤い「エンターキー」を、血塗れの手のひらで強く叩きつけた。




