第4章:1000万円の正体(前編)
怪物の背後にあるスピーカーから、チリチリという電子ノイズと共に老人の濁った笑い声が漏れ聞こえる。
「どちらが、その手を血で染めるのかな?」
その言葉が、鉄骨むき出しの冷たい空間に虚しく反響した。
足元のグレーチングの隙間からは、地下深くから吹き上げる強風がヒューヒューと音を立て、衣服を濡らした冷水と混じり合って俺たちの体温を容赦なく奪っていく。
目の前には、巨大な鉄の斧を携えた黒づくめの怪物。
そして、その背後にある、脱出への唯一の鍵である地下動力室へのハッチ。
「手を……血で染める……」
早希が、うわ言のように小さく呟いた。その声はかすかに震えており、じっと見つめるハッチの表面には、無惨に殺された真由の血がべっとりと付着していた。
運営が突きつけてきた、最悪の最終ルール。
2人でハッチに入れば、どちらも処刑される。生き残って1,000万円を手にできるのは、ただ一人だけ。ここまで互いの背中を預け合い、命がけで罠を潜り抜けてきた俺たちの絆を、あの老人は最後の最後で嘲笑うように踏みにじってきたのだ。
俺は横に立つ早希を見た。
彼女はポケットの中で、何かを強く握りしめているようだった。それは、さっき【疑惑の間】の床から引き抜いた、あの本物の「短剣」だろうか。
彼女には引けない理由がある。海外でしか受けられない、病気の妹の手術費用。それがあれば妹の命が助かる。もしここで俺に譲れば、妹は見殺しになる。
(早希なら……俺を刺すか?)
一瞬、脳裏をよぎった醜い猜疑心。しかし、俺はすぐにそれを頭の中から振り払った。
そんなことを考えたら、あの運営の思うツボだ。他者を裏切って化け物になったさっきの中年男たちと、同じゴミクズに成り下がってしまう。
「早希」
俺は声を落とし、怪物の動きを警戒しながら囁いた。
「老人の言うことをまともに聞くな。あいつらは俺たちが殺し合うのを見て楽しみたいだけだ。二人で入ったら失格? そんなの、あいつらが勝手に決めたルールだろ」
早希はハッチから目を離さないまま、硬い声で答えた。
「……でも、実際にシステムがそうなっていたら? 二人で中に入った瞬間に、ハッチごと爆破されるか、上から鎖が降ってきて突き殺されるかもしれない。あの老人の言う『失格』は、いつだって物理的な死を意味していたわ」
「だったら、あいつを倒す」
俺は目の前の黒づくめの怪物を指差した。
「あいつを倒して、ハッチの構造を確認する。早希、お前ならこのクソみたいな城のシステムの裏をかけるはずだろ。二人で生き残る方法を、そこへ行ってから見つければいい」
早希はゆっくりと俺の顔を見た。その瞳には、恐怖や迷いを通り越した、どこか哀しい決意のようなものが宿っていた。
「……そうね。あいつを退けない限り、どっちにしても先はないわ」
早希がポケットから手を引き抜いた。その手に握られていたのは、短剣ではなかった。
【疑惑の間】の部屋の壁から剥ぎ取ってきた、いくつかの真鍮製の細いボルトと、配電盤の裏で拾った太い同軸ケーブルの切れ端だった。
「朝陽、あいつの持っている斧は本物よ。まともに喰らえば一撃で肉を断たれる。でも、このフロアの構造を思い出して。ここは近代的な『機械室』よ。床は全面、鉄のグレーチング。そして頭上には――」
早希が目線で上を指し示す。そこには、高電圧の電流が流れていることを示す、黄色い警告マークのついた巨大な変圧器と、むき出しの太い高圧電線が這っていた。
「あいつの防護服のような衣装、あれはおそらく耐火・耐刃仕様だけど、さっきの『水葬の間』で下半身がびしょ濡れになっているわ。そして今、鉄の床の上に立っている」
「……感電させるのか?」
「ええ。あいつの注意を引きつけて。私が背後の配電盤と床をつなぎ合わせる。一瞬だけ、この床全体に電流が流れるはずよ。あんたはタイミングを合わせて、グレーチングから跳んで!」
「分かった。やってやる!」
俺は一歩、前に踏み出した。しかし、黒づくめの怪物はハッチを守るためなのか、他に理由があるのか動かない。
「おい、デカブツ!」
今度は俺の叫び声に反応し、黒づくめの怪物がゆっくりと斧を持ち上げた。その動作には一寸の迷いもなく、冷徹な殺意だけが満ちている。
怪物が突進してくる。
鉄の床を激しく踏み鳴らす、凄まじい巨体の圧迫感。
俺はバイトの配達で鍛え上げた足腰に意識を集中させ、怪物が斧を振り下ろす絶妙な瞬間を見極めるために、あえて真っ直ぐに立ち向かった。
怪物の腕が跳ね上がり、巨大な刃が俺の脳がけて振り下ろされる――。
「今よ、朝陽!!」
「うおおおおおっ!」
俺は全身のバネを使って、鉄の床から真上へと全力で跳躍した。
早希は叫ぶと同時に、真鍮のボルトを配電盤の剥き出しの端子へと叩き込んだ。
パチィィィン!!! と、鼓膜を破らんばかりの激しい放電音が炸裂し、目も開けられないほどの凄まじい青白い閃光がフロア全体を包み込んだ。
直後、バチバチバチと激しい電流がグレーチングの床全体を走り、黒づくめの怪物の巨体が激しく痙攣した。ガガガガ、と不気味な濁音を漏らしながら、怪物は手にした斧を床に落とし、その場に崩れ落ちる。耐電仕様ではない濡れたスーツが、高電圧の餌食となったのだ。
床に着地した俺は、まだ煙を上げている怪物の脇をすり抜け、ハッチへと駆け寄った。
「早希、やったぞ! 早くこっちへ!」
配電盤の前で息を切らせていた早希が、駆け寄ってくる。
俺たちは二人で、真由の血で汚れた重い鉄のハッチを掴み、全力で引き上げた。
ゴリゴリと音を立てて開いたハッチの向こうには、地下へと続く深い垂直の梯子と、無数の電子基板が並ぶ「コントロールルーム」の明かりが見えた。
「行こう、早希!」
俺が先に梯子へ足をかけようとした、その時だった。
背後から、冷たい感覚が俺の脇腹へと突き刺さった。
「え……?」
熱いような、冷たいような、奇妙な衝撃。
ゆっくりと見下ろすと、俺のボロシャツの脇腹のあたりが、急速にドス黒い赤に染まっていくのが見えた。
そこには、鋭利な短剣が、深く、深く突き刺さっていた。
振り返ると、そこには――
さっきまで俺の背中を預けていたはずの、早希が立っていた。
彼女の手は、俺を刺した衝撃で激しく震えており、その瞳からは、堰を切ったように涙が溢れ出していた。
「ごめんなさい……。ごめんなさい、朝陽……!」
早希の声が、絶望に歪んでいた。
「妹を……妹を見殺しにはできないの。あんたが良い人なのは分かってる。裏切らないって約束した。でも、でもね……! 1,000万円がなきゃ、あの子は来月死ぬのよ!」
彼女は俺の胸を手で強く突き飛ばした。
脇腹の激痛で力が入らない俺の身体は、いとも簡単にバランスを崩し、開かれたハッチの暗闇の中へと、真っ逆さまに落ちていった。
「早希――ッ!!」
俺の叫び声は、ハッチが上からガシャンと、冷酷な音を立てて閉められる音によって、完全に遮断された。
暗い地下の床へと叩きつけられ、俺は激しく血を吐きながら、ただ遠ざかる地上の気配を感じていた。
結局、俺たちもあの老人のおもちゃに過ぎなかったのだ。1,000万円という数字の前に、人間はどこまでも無力で、どこまでも醜く変わってしまう。
朦朧とする意識の中、コントロールルームのモニター群が、静かに明滅しているのが見えた。
そこには、この城のすべての「真実」が映し出されていた。




