第3章:疑惑の黒(後編)
背後から迫る「本物」の足音は、これまでのどの罠よりも重く、冷酷だった。
グレーチングの鉄床を激しく踏み鳴らす音が、工場の地下のような通路に無機質に反響する。時折、太い配管から「ヒスッ!」と吹き出す蒸気が視界を奪うが、俺と早希はただひたすらに前へ、闇の奥へと足を動かし続けた。
「朝陽、右よ! あそこの配電盤の裏に隙間がある!」
水に濡れた短い黒髪を振り乱しながら、早希が叫ぶ。
俺たちは、大人が二人ようやく潜り込めるほどの、剥き出しの太いケーブルが這う暗い隙間に滑り込んだ。息を殺し、互いの身体を押し付け合うようにして、冷たいコンクリートの壁に背を預ける。
すぐ近くを、あの足音が通り過ぎていく。
カツン、カツン、カツン……。
鉄の斧の先端が、床のグレーチングを規則正しく擦る嫌な金属音が聞こえる。キィィ、キィィ、と耳の奥を引っ掻くようなその音は、まるで「お前たちの命のカウントダウンだ」と告げているかのようだった。
怪物の影が、隙間の前を横切る。蛍光灯の微かな光に照らされたその背中は、大人の男よりもさらに一回り巨大で、人間というよりは、ただ殺戮のためだけに動く巨大な肉塊のようだった。
足音が完全に遠ざかり、ファンの重低音だけが戻ってくるまで、俺たちはどれほどの間、息を止めていただろうか。
「はぁっ……、はぁ……」
俺はたまらず、胸に溜まっていた熱い息を吐き出した。すぐ目の前にある早希の肩が、小刻みに、しかし激しく震えているのが伝わってくる。彼女の白い頬には、さっきのタトゥーの男が飛び散らせた鮮血が、一滴だけ痛々しくこびりついていた。
「大丈夫か、早希……」
「ええ……。でも、これで完全に分かったわ。あの老人が仕掛けた、このゲームの本当の邪悪さが」
早希は血のついた頬を袖で乱暴に拭うと、暗闇の中でその鋭い瞳をぎらつかせた。
「あの老人は、最初に『他者への危害は禁止』と言った。それは、参加者同士の殺し合いを防ぐためのルールじゃない。参加者の中に『運営の犬』を紛れ込ませて、私たちを疑心暗鬼に陥らせるための高度な心理トラップだったのよ」
「サクラ……さっきのタトゥーの男みたいな奴か」
「そう。運営は、一部の参加者に『黒づくめの衣装』と『偽物のナイフ』を渡して、こう持ちかけたのよ。『処刑人のフリをして他の参加者を恐怖に陥れ、自滅させろ。そうすれば、お前だけには確実に1,000万円を払ってやる』って。でも、それすらも運営の罠。偽物の処刑人が場を引っ掻き回した後に、本物の『怪物』を解き放って、サクラも含めて全員を公平に処理する……。それがこの【疑惑の間】の本当のルールよ」
なんて悪趣味なゲームだ。1,000万円という大金で人間の欲望を釣り上げ、裏切りを推奨し、最後には全員を家畜のように屠る。親の残した借金に怯え、必死に生きてきた俺たちの命は、あの富豪たちにとって、ただの退屈しのぎの娯楽に過ぎないのだ。
「ふざけるな……。ふざけるなよ、クソッ!」
俺は壁のコンクリートを拳で殴りつけた。痛みが走るが、それ以上に胸の奥から湧き上がる怒りが勝っていた。
「朝陽、怒るのも、絶望するのも、この城を出てからにしましょう」
早希が俺の拳を、冷たい、だけど確かな温もりを持った両手で包み込んだ。
「私たちは、あのサクラたちとは違う。互いを裏切らないって約束した。あの本物の怪物がフロアを徘徊しているなら、生存者はもう、私たち二人だけかもしれない。……でも、だからこそ、情報が一本に繋がるわ」
早希はリュックから、さっきの居住区の壁でチラリと見かけたという「3つ目の地図」の断片をメモした紙を取り出した。
「このフロアの最奥に、地下の動力室へ続くハッチがあるはず。そこが、この動く迷宮をコントロールしている心臓部よ。そこへ行けば、このクソみたいな城の構造を完全に停止させて、外への脱出口を開けられる」
「動力室か……。よし、行こう。あいつの裏をかいて、一気に最下層まで駆け下りるぞ」
俺たちは隙間から這い出た。
床のグレーチングに染み付いた血の跡を避けながら、早希のナビゲートに従って、近代的な鉄骨の迷宮を静かに、しかし迅速に進む。
だが、目的地である巨大な鉄のハッチの前に辿り着いたとき、俺たちは最悪の光景を目の当たりにすることになった。
ハッチの周囲には、すでに無残に切り裂かれた真由の遺体と、タトゥーの男の荷物が散乱していた。そして、その血の海の中心に、あの本物の「黒づくめの男」が、大きな鉄の斧を肩に担いだまま、じっと佇んでいたのだ。
男は、俺たちが近づいてくるのを、最初から分かっていたかのようにゆっくりと振り返った。
『あぁ、あぁ。素晴らしい。実に見事な生存率ですな』
ハッチの横にあるスピーカーから、あの老人の拍手の音が響き渡る。
『一ノ瀬朝陽様、そして雨宮早希様。あなた方二人が、この素晴らしいデスゲームの「最終候補者」でございます。さあ、そこにあるハッチを開ければ、ゲームはクリア、1,000万円の小切手はあなた方のものです。……ただし、ルールをもう一度、お忘れなきよう』
老人の声が、ひときわ愉悦を帯びて歪んだ。
『サインを貰えるのは、最初に脱出した「1名のみ」。お二人で仲良く手を繋いでハッチに入った場合……。お二人とも、その場で「失格(処刑)」となります。さあ、最後の謎解きをはじめましょう。どちらが、その手を血で染めるのかな?』
怪物が、一歩、こちらへ足を踏み出す。
ハッチへと続く唯一の道を塞ぐようにして、斧が怪しく光る。
「早希……」
俺は息を呑み、隣に立つ彼女を見た。
老人の提示した最悪の二者択一。ここまで信じ合い、支え合ってきた二人に、運営は最後に「殺し合い」を要求してきたのだ。
早希は、じっとハッチを見つめ、それから俺の方へとゆっくりと顔を向けた。その瞳に宿る光は――これまで見たどの瞬間よりも、深く、鋭かった。




