第3章:疑惑の黒(前編)
扉の向こうに広がっていたのは、先ほどまでの絢爛な回廊とは打って変わり、冷え切ったコンクリートと剥き出しの鉄骨で構成された、近代的な近代建築のエリアだった。
頭上を走る太い配管からは、断続的にヒスを立てて蒸気が噴き出している。足元には錆びついたグレーチングの床。その下を除くと、遥か奈落の底まで巨大なファンが回っているのが見え、風切り音が重低音となって空間を揺らしていた。
「中世の古城じゃなかったの……? ここ、まるで工場の地下か何かの施設みたい」
早希がランタンの灯りを消しながら、眉をひそめて呟いた。天井には微かに明滅する蛍光灯があり、それがかえって不気味な陰影を周囲に作り出している。
「あの老人が言ってたろ。色々改造されてるって。……城の外見だけを残して、中身は完全に別の怪物に変えられてるんだ」
俺は水で濡れた上着を絞りながら、一歩一歩、慎重に進んだ。
ガタガタと、前方から規則的な振動音が聞こえてくる。
角を曲がると、そこは格子状の鉄柵で区切られた「居住区」のような場所だった。いくつもの狭い独房のような部屋が並んでいる。その中の一つに、人影があった。
「――っ! 誰かいる!」
俺たちが身を構えると、その人影は驚いたようにこちらを振り返り、縋り付くように鉄柵に手を伸ばした。
「助けて……! お願い、ここから出して!」
それは、最初に広間にいた、怯えたように爪を噛んでいた小柄な女性――真由だった。彼女の白いブラウスは埃と泥で汚れ、大粒の涙が頬を伝っている。
「あんた、なんでそんなところに閉じ込められてるのよ」
早希が警戒を解かないまま、鉄柵から三歩離れた位置で足を止めて問いかけた。
「分からない……! 水から逃げて、上の階に上がったら突然床が抜けて、ここに落ちたの。そしたら上から格子が降りてきて……。お願い、その横にあるレバーを上げれば開くみたいなの。信じて!」
真由が指差した壁には、確かに頑丈な鉄製の開閉レバーが設置されていた。
「朝陽、待って」
俺がレバーに手をかけようとした瞬間、早希がその手首を強く掴んだ。彼女の目は、冷徹なまでに真由の全身を、そして周囲の状況をスキャンしていた。
「どうしたんだよ早希、あいつを放っておいたら壁が動くか、また黒づくめが来るかもしれないだろ」
「冷静になりなさい。このフロアの名前は【疑惑の間】よ。さっきの圧殺トラップだけがその名前の理由だと思えない」
早希は真由の目をまっすぐに見据えた。
「真由さん。あなた、ここに落ちる前、誰かと一緒にいた?」
「え……? い、いないわ。ずっと一人よ」
「嘘ね」
早希の声が、低く冷たく響いた。
「あなたのブラウスの右肩のところ。明らかに『他人の手』で強く掴まれたような、黒い手の跡がついている。それも、煤か何かで汚れた衣服の跡。一人で落ちたなら、そんなところに手の跡はつかないわ。……あなた、誰かを突き落として自分だけ助かろうとしたんじゃないの?」
「ち、違う! これは元から――」
真由の顔が、目に見えて青ざめていく。
「それに」早希はさらに一歩、真由に近づいた。
「あなたの足元。格子の奥に転がっているそのリュック。……それ、広間にいた別の参加者のものよね? 大柄な外国人の男の人が持っていた防水仕様のバッグ。なぜそれをあなたが持っているの?」
「それは……彼が、私に預けて、先に……」
真由の声が目に見えて震え、視線が泳ぐ。
俺は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
さっきの中年男たちだけじゃない。この極限状態の中、生き残るために誰もが他人を裏切り、嵌め合い、その果てにここに辿り着いているのだ。あの小切手に書かれた1,000万円という数字が、人間の皮を剥ぎ取っていく。
「お願い……信じて、私は何もしてないの、ただ怖くて……!」
真由が狂ったように鉄柵を揺らす。
その時だった。
居住区の奥、暗い通路の向こうから、カツン、カツン、と不自然に静かな足音が近づいてきた。
ギョッとして振り返ると、そこには――
返り血でドロドロに汚れた、あの「黒づくめの男」が立っていた。
しかし、何かがおかしい。
さっきまでの巨体ではない。少し小柄で、歩き方もどこか、人間の生々しい足取りをしている。
「……一人じゃない」
早希が息を呑んだ。
「朝陽、やっぱりそうよ。黒づくめの男(処刑人)は――一人じゃない、あるいは交代制の『サクラ』が混じっているわ」
黒づくめの男は、手に持ったナイフをだらりと下げ、俺たちの方へゆっくりと歩み寄ってくる。
だが、その動きには最初に見たような「圧倒的な戦闘マシーン」としての無駄のなさがない。どこか、焦りや油断のような、あまりにも『人間臭い』動揺が透けて見えた。
「おい、お前……!」
俺が身構えた瞬間、黒づくめの男は、俺たちではなく、格子の奥にいる真由の方を真っ直ぐに指差した。
そして、仮面の奥から、歪んだ男の声が響いた。
「見つけたぞ……っ、この泥棒女が! 俺のバッグを返しやがれ!」
「え……?」
俺と早希は、同時に声を失った。
黒づくめの男が、真由を罵倒している。その声には聞き覚えがあった。広間にいた、派手なタトゥーを入れた、あの男の声だ。
「あんた……死んだはずじゃ……!」
俺が叫ぶ。確実に黒づくめの男に首を滅多刺しにされていたはずの男だ。
「死ぬわけねえだろ! あのナイフはレプリカの仕込み刃だ! 刺されたフリをして死体を演じれば、他の奴らが勝手にパニックになって自滅するって、あのクソジジイに言われたんだよ! なのに、この女は俺が死んだフリをしてる隙に、俺の1,000万円の小切手が入ったバッグを盗んで逃げやがった!」
タトゥーの男は怒り狂い、被っていた黒いマスクを乱暴に剥ぎ取った。その顔は怒りと恐怖で引き攣っている。
真実が、一気にパズルのように組み合わさっていく。
黒づくめの男は、運営が用意した本物の殺人鬼だけではない。「他者を危害を加えるのは禁止」というルールを逆手に取り、他者を恐怖で自滅させるために、運営から『処刑人の衣装』を買い取った、あるいは与えられた『参加者』が混ざっているのだ。
「じゃあ……本物の殺人鬼は……?」
早希が呟いた、その瞬間。
タトゥーの男の真後ろの闇から、音もなく、もう一人の「黒づくめの男」が姿を現した。
その手にあるのは、仕込み刃ではない。
冷酷な本物の、銀色の輝きを放つ大型の斧だった。
「ひっ――」
タトゥーの男が振り返る暇すらなかった。
凄まじい風切り音と共に斧が振り下ろされ、男の身体は一撃で床へと叩きつけられた。今度は、偽物の血ではない。本物の、ドス黒い生命の赤が、グレーチングの床の隙間から奈落へと激しく降り注いでいく。
本物の怪物が、今度こそ、俺たちの目の前に現れた。
「キャアアアアアアアアア!」
格子の奥で真由が絶叫する。
本物の黒づくめの男は、タトゥーの男の死体から斧を引き抜くと、ゆっくりと首を傾げ、その刃を俺たち――朝陽と早希へと向けた。
「朝陽、走って!!」
早希の悲鳴のような叫びと共に、俺たちは居住区の迷宮へと、再び命を懸けて駆け出した。




